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ユーさんのつぶやき

徒然なるままに日暮らしパソコンに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き綴るブログ

暫しの入院

2009-12-06 | 番外編
暫し入院します。
現在の心境は石川啄木の歌です。

「さばかりの事に死ぬるや」
「さばかりの事に生くるや」
 止せ止せ問答

 「さばかり」とは、「その程度のこと」の意味。
 自分の煩悩だけにとらわれている問答は無用とのことだそうです。


お医者様と患者様

2009-11-26 | 番外編
泣く子とお医者様には頭が上がらぬ
賢い患者はへりくだる
お医者様を怒らせてはいけない
必死だ
お医者さまが、ああだ、こうだと仰れば
患者ただ頭(こうべ)を垂れて
はいはい仰せのとおりです
分りましたと言う以外にはない
医者は背もたれのある回転自在の椅子に座る
患者は一段低い丸い小さな固定の椅子に座る
上から覗きこまれて
専門知識や情報の圧倒的な差はどうしようもない
わが身の症状に照らして
この医者、何も分っていない と思っても
おくびにも出さない
ずっと好い患者を演じていないと自分にもソンと知っている
自身の感情の起伏を極力意識しないこと
賢い患者は平静であれ
今更勉強してもお医者様には追いつけない
ムリだ
しようがない
好い患者を演ずるしか手がない
ああ辛(つら)いことだ
病人になるということは


病気の利得

2009-11-11 | 番外編
健康は貴重である
失って初めてそれを知る
だが健康でないからと言って
絶対に不幸であるとは言わせぬ
なぜなら
すべての人が時に健康でない時がある
また病気のまま一生の大半を過ごす人がある
健康でなければ幸せでないとなれば悲しいかぎりだ

もちろん不幸な病人は居る
だが幸福な病人も居る
病気と幸福とは矛盾するものではない
病気の目的とは何か?
病気の原因となっている精神的要素は何か?
それを封じる手立ては何か?
それらを思考する過程で
より強い自己が確立できるのではないか?
病気にも目的があると思え!
その目的を意識すれば
病気にも利点があることに気付かされる


夕暮れの光

2009-10-25 | 番外編
遠く昔に倒れた老木の幹から
にょきにょきと若木が出ている。
胸にジンと来る。
年を食っても 病気で朽ちても
やる気のある木はやるのだ
人間は木よりも高等だ
理由があると言ってそのまま朽ちてどうする
体力は仕方ないだろう
だが精神力ではまだ残りがあるのだ
次にやることは何か?
夕暮れになっても光はあるという
だがじっとしていては光も沈みゆく
光は
僅かに輝きを残す精神を頼りに
自らの意志で作れ


円熟した女性の美しさ

2009-10-02 | 番外編
 現在、読んでいる本『幸福論』第二部(ヒルティー)岩波文庫に、下記のようなホイットマンの詩が紹介されていました。

 女(おみな)あり
 二人行く
 若きは うるわし
 老いたるは 
 なお うるわし

 若い女はもちろん美しい。しかし、年寄りの女の方がもっと美しい。自分も最近そのように感ずることが多い。若いだけの美には中身がない。教養を含めて、年功の中に鋳込まれて、仕上がっていく独特の美しさがある。老女のすべてがそのように仕上がっていかないこともありますが、そんなときは、少々、残念に思います。
 世の中の女性様。年齢を気にする必要はありません。若い男にもてたいなら話は別ですが、同世代の異性は、相応の加齢を好ましく思っているのです。
 銀座で103歳のママさんの店が大繁盛であったとのこと。きっと、微笑の絶えない、品性のある、奥ゆかしく年を取られたママさんだったのでしょうね。


空ずるということ

2009-09-30 | 番外編
老病死を「空(くう)ずる」とは
「ないと思う」ことではない
「気にしない」が正しい
老病死は現実にある
現実界に生きながら
生に執着することなく
素直に老い
素直に病み
素直に死んでく
そんな生き方を手に入れること
「空ずる」とはそんなことだ


幸福の必要条件

2009-09-03 | 番外編
世界や人類全体
長期の幸福や社会への貢献
自分の足跡があるか
なんてことを考えたりしいてると
無力感や絶望感が忍び込んできます
人生を難しく考えてはいけません
目的の意識、信念、生への意欲、ユーモアの感覚
こんなものをそこそこもっておれば
十分用が足りています

死ぬことは至極自然の現実です
生きてきたことの証しだからです

生きていることは美しい
死という最後だけ見ると痛ましく見えるが
生まれ、生活して、頑張って
最後には老いて死んでいく
人生全体の中ではごく自然の流れなんです
死を迎えることは生きていた証拠です
だから死ぬまで何をしているか
それが最高に大事なんです


人生の質

2009-08-25 | 番外編
人生において大事なことは
生きた時間の長さではない

大事なことは
いま何をしているか
いま何を考えているかである

人生全体を見て
よく生きたと思われれば
短命に終わろうと
悔いるところは何もない


病気とは一つのプロセス

2009-08-14 | 番外編
負けるもんか
病気になんか負けるもんか
なんて気負いすぎてはいけません
健康は善ですが
病気は悪ではありません
そんなことよりも現実を認めて
そこから何かを見つけるとか
何かを達成するとか
貴重な機会と考えなければなりません
病気のお蔭で健康なときには発見できなかった
多くのことが見つかるのです
妻のすばらしさ
家族の優しさ
空、風、雲、花、草の美しさ
一日でも生きていることのありがたさ
今日を生きることの意味
朝目覚めた時に今日も生きていることの実感
過去の健康な日々に
こんなことを考えたことがありますか
だからこそ
何としても死んではならんのです
頑張って生きて居らねばならんのです
私は死は恐れていません
また病気を敗北とは思っていません
なってしまった病気は仕方がありません
今日も がははは と笑いながら
病気を認めて
それを踏み越えていくのです
病気になることも生きている証拠です
病気も人生の一つのプロセスだと思いましょう


若い頃歌った歌

2009-07-22 | 番外編
 今流行のカラオケ喫茶の前身とでもいうべきか、我々の学生時代には歌声喫茶というものがありました。そのような人の集まる場所へいく気も起きず、一人で下宿の壁に向かってよく歌を歌いました。寂しさを紛らすためか、勉強?の息抜きのためか、夜昼問わず、一人でよく歌を歌ったものです。
 最近、なぜか、昔のことがよく思い出されます。その一つに、この歌声喫茶でよく歌われた歌があります。その頃の歌は、ただ有り余る青春のエネルギーを吐き出す感覚で、ただただ大きい声で、怒鳴っていただけであり、その歌に込められた歌の中身や思想にまで踏み込んで考えたことはほとんどありませんでした。
 しかしながら、70歳に手が届く、この年になって、昔、流行った歌が懐かしく感じられるようになって、知らぬ間にこれらの歌を口ずさんでいることがあり、内容に踏み込んで考えながら歌って見ると、本当に涙がボロボロと出てくるような感慨に打たれる歌も少なくないことが分かりました。
 明るい歌だとばかり思っていた歌が、何と如何にも人生の深部をえぐっていたりしています。年は取らないと、人生の深いところに意識が及んでいかないのでしょうか?年の功というのは確かに存在するような気がします。若い人には意識しようとしても意識できない人生経験を加味した年の功です。そのような歌の例を、此処では二つだけ、取り上げてみましょう。

1)坂本九;「見上げてごらん夜の星を」
 見上げてごらん夜の星を
 小さな星の 小さな光が
 ささやかな幸せを歌ってる
 見上げてごらん夜の星を
 ボクらのように名もない星が
 ささやかな幸せを祈ってる

 手をつなごうボクと
 追いかけよう夢を
 二人なら苦しくないさ

 何と良い歌ではないか。特に歌詞がよい。メロディーと不釣合いなくらい歌詞がよい。何も考えずに、ただただ大きい声で歌っていた過ぎ去った時間を取り戻したい。そして、今の心境で歌い直してみたい。声はよく出ないが。

2)はしだのりひことシューベルツ;「風」
 人は誰も ただ一人旅に出て
 人は誰も ふるさとを振り返る
 ちょっぴり淋しくて 振り返っても
 そこにはただ 風が吹いているだけ
 人は誰も 人生につまずいて
 人は誰も 夢破れて振り返る

 <2番省略>

 何かを求めて 振り返っても
 そこにはただ 風が吹いているだけ
 振り返らず ただ一人一歩ずつ
 振り返らず 泣かないで歩くんだ
 
 何かを求めて 振り返っても
 そこにはただ 風が吹いているだけ
 吹いているだけ 吹いているだけ...

 この歌を賑やかな集団のフォークループの歌として聴いて、そのグループの雰囲気だけを観察して、歌の中身まで考えるに至らなかった、我が青春のひと時を思い出します。皆さん、この歌詞を何度でも、読み返してみてください。歌える人は歌ってみてください。私の場合は、途中で、涙声に変わってしまいました。


私の死生観

2009-07-21 | 番外編
 子供の頃の星空はきれいであった。大阪の都心からでも、特に冬空ともなれば何十万という星が満天下に見えていた。子供達の関心が自然に空に向かい、宇宙に向かい、宇宙好き少年に育っていった。残念なことに、現代の夜に見える星空は指で簡単に数えられるほどにしか見えない。しかし、最近は、特に自分は、宇宙(すなわち神様)と人間との関係を意識する時間が多くなった。同じ宇宙を見ても、子供の頃と全然内容が違う。
 時間を超越する無限大の宇宙はどう考えても、造物主(神様)の創造物にしか見えない。どう考えてもそのほかには考えようがない。人間もそうである。このような精巧な人間というものを造物主以外に作ることが可能であろうか。本来的に人間は宇宙の一部であり、それ以外の何者でもないように思える。
 自分も人間の端くれをやっている。したがって自分も宇宙である。自分即宇宙、宇宙即自分。般若心経の色即是空、空即是色と同じ構図である。だが般若心経よりもずっと分りやすい。宇宙との一体感は現実に感じることが可能である。その例として、次のようなことを実感することがある。
 自分の吐く息、この一呼吸分の空気は、当然、そのまま宇宙に帰っていく。神様(宇宙)の口と自分の口とが直結していて、吐いた息がそのまま神様に吸取られていく。逆に、自分が吸う息は直結する神様の口から口移しに体内に供給される。宇宙は自分と一体であり、自分は宇宙の一部であることを一息ごとに実感できる。
 そんなことを考えていると、今現在、自分が生きているということ。これは、昔どこか宇宙の一部であった自分が、たまたま、人間の形をして、この地球上の現在の住処に居るだけではないか。
 人間は息絶えて、埋葬されて土となっても、また火葬されて灰となっても、元居た宇宙に帰っていくだけである。その土や灰の上にたまたま桜の木が植えられても、死体は、木となり、枝となり、葉となり、咲くときには花が咲いて、最後には宇宙に帰る。いくら大げさに考えても、実態はただそれだけのことである。死に際して、人間、生きるの、死ぬのと大騒ぎするのは止めよう。淡々と自然の摂理に従えばよい。結果は、どう転んでも、みな同じである。
 辛いのは人間どうしの別れであるが、これも生きている限り、一度は死なねばならない人間の悲しい宿命である。仕方がない。


オセロゲーム

2009-07-19 | 番外編
 下記は柏木哲夫著『「老い」はちっともこわくない』(日経ビジネス人文庫)からの引用である。題して、『急な病「矢先症候群」-したいことは先に延ばさず』という。

 『六十三歳の男性患者が胃がんの末期症状でホスピスに入院してきました。妻は「主人は仕事第一。定年を迎え、これから二人で旅行を楽しもうと言っていた矢先にがんになりました。まさかと思っていました」。
 五十八歳の女性患者。卵巣がんの痛みが強くホスピスへ入院。夫は「家内は五人の子供を立派に育ててくれました。末娘が嫁ぎ、二人だけになったので、これから温泉めぐりでもしようかと言っていた矢先にがんになりました。こんなことになろうとは」。
 私はこのような状況を「矢先症候群」と名付けました。矢先に、まさかのことが起こるのです。ホスピス入院患者の平均年齢は六十三歳です。日本人の平均寿命からすると若い。これから第二の人生を始めようとする年です。その矢先にがんになるというのはいかにもせつない。
 しかし、これが現実です。私たちは心のどこかで生の延長に死があると思っています。生がずっと続いて、平均寿命くらいで死ぬと思っていますが、実際には人間は日々死を背負って生きているのです。生と死とは紙の表と裏のようなもので、いつ表がひっくりかえって裏になるかわかりません。
 人間は、色々な人生計画を立てます。定年になったらあれをしよう。娘が片付いたらあそこへ行こう・・・・。その矢先にまさかと思っていた死の影が忍び寄ります。
 ホスピスという場で多くの人生に接して思うことは、したいこと、すべきことは先へ延ばさず、始めるほうがよいといういことです。何かをきっかけにして始めようと計画していても「矢先症候群」のためにできなくなるかもしれません。紙が裏返らないうちに始めることです。』

 まさに人生とは「オセロゲーム」だ。あるとき、一斉に表が裏へ返るなんてことになる。各々方、ゆめゆめ油断してはいけませんよ。
 当方の経験も似たようなものだ。このブログの「昔の思い出話」中、『第391話「突然の幕引き」(09.4.4)』の内容はプライバシーの問題として公開をためらっていたが、この柏木先生の記事を読んで、病名を秘密のままにしておくことを止めることにした。したがって、このブログの第391話は、内容を変更して再登録した。病名を秘密にしておくことの意味がなくなったからである。既に、自分はこれまで行ってきた現役の仕事から完全に引退しているし、今後、同じ場所への復帰の気持ちもない。
 実は、自分は末期のすい臓がんである。別の臓器への転移もある。腫瘍の摘出手術が出来ない状況だ。関心のある方は、上記のブログを読んでみてくださっても結構であるが、自分はオセロゲームとして、一旦、黒地になった、人生の画面を精神力や念力で白地に返してやろうと思っている。
 自分は、全く別の生活場面でオセロゲームを白地化したいのである。仕事はもう十分やった。去年9月時点で、特に処置しなければ余命7ヶ月と宣告されたが、その時間分は価値ある時間として十分にクリヤーできた。
 あと数ヶ月で七十歳となるが、まだ少しは何とか生きることができそうである。それなら、これまでとは違った新しい場面で、何か新しいことを始めることができるではないか。生への強い期待と願望さえ持続できれば、黒地化した人生のゲーム盤を、一挙に白地化できる余地があるのではないか。最近、そのように思いが強く出てきたのである。


法華経を読む

2009-07-07 | 番外編
 紀野一義『「法華経」を読む』;講談社現代新書の、終章に近い部分からの引用ですが、皆様のご参考までに丸写しで紹介します。

1)常不軽菩薩のすさまじい楽天主義
 今の日本人は、憎しみには憎しみを返すという型の人間が多いが、常不軽(じょうふきょう)菩薩は憎しみに対しては、愛を、尊敬を、信ずることを返した。
 それは、「すさまじい楽天主義」だと思う。楽天主義というと人はすぐ、いいかげんとか、気楽さとか、人のよさとか、うすのろとか連想するらしいが、楽天主義とは、すさまじきものである。
 殺されたって、人を信じ通すという人生観を変えないのだ。
 人間はすばらしい。自然はすばらしい。生まれてくるってことはすばらしい。死ぬってこともすばらしい。病気になるってのもすばらしい、という風に、徹底的に信じ通すのだ。肯定、肯定、絶対肯定してゆくのだ。
 常不軽(じょうふきょう)菩薩は、すさまじき楽天主義者である。
 私はこの頃、男というものはどこかですさまじい生き方がなくてはならぬと思いはじめている。
 すさまじいというと、面(おもて)も向けられないような修羅の形相を連想するのだが、そんなのではない、いつも微笑みを浮かべ、一見気楽そうな顔をしたすさまじさのことである。
 騙されていると知っていても、最後まで騙されてやる男のすさまじさである。悪い奴も大ぜいいるのだと知っていても、やはり人間はすばらしいと信じ通すすさまじさである。

2)どこまでも肯定的に、すっきりと
 風のごとくさわやかに、さわりなく、満月のごとく明るく肯定的に生きなくてはならない。
 なんといっても、陰では話にならないのだ。どこまでも明るく、どこまでも肯定的に、どこまでもすっきりと生きて行きたいものである。

 以上、私たちとはあまり縁のない「法華経」の中の常不軽菩薩の話ではありますが、私たちのように、日常、気の小さい、疑い深い衆生にとっても、大い参考になる話ではありませんか。


何かしていないと

2009-07-06 | 番外編
 ブログ退場宣言をしてマル一月が経過しました。その間に心境の大きな変化があったわけではありませんが、旧校舎近くを通り過ぎた高校中退生の気分で、昔の自分のブログを覗きに来ました。このブログは閉店中か開店中かわからない状況ですが、毎日のアクセス数だけは結構な数を維持していました。
 この間の、アクセスの多い人気テーマは「エトス、パトス、ロゴス」「化学機械の理論と計算」「内部監査でマネジメントシステムの有効性を確認していますか」等といった、現実の真面目なテーマばかりでありました。いわゆる「生老病死に関連する老人問題」などは見向きもされていません。やはりブログの世界は若い人達の世界であり、過去・将来よりも今の現在の問題に関心の高い人たちであることが分ります。そのような意味で、「老人や病気」のことばかりが話題になり、「貧すれば鈍する」の道をまっしぐらに進んでいた、このブログの退場宣言は正解でありました。しかし、オーナーとしてのブロガーではなく、気楽な旅人の一人として一人でうろついている分には、別に他人の迷惑になることでもありません。その他大勢の一人として、気楽に参加させてもらうだけでいい。今はそんな風に考えています。
 勝手ながら、気分の良い時には、また、顔を出そうかなと思います。「うるさいな、出たり入ったりして、こそこそするな」なんて怒らないでください。人間というもの、老人であっても、あらゆることから引退してしまうなんて、実に退屈なことなんです。生きていることの感覚を喪失します。生甲斐もクソもなくなります。1日中本を読んでいるわけにも行きませんし、1日中公園のベンチで何かを考えているわけにも行きません。
 パソコンを前にしてキーボードに接していること、そのことによって、せめて脳ミソと身体の一部を動かしていること、その程度が現在辛うじて許される社会生活の一部です。それすらも出来ないような、何もすることがない毎日というものは、身の毛もよだつほど恐ろしいことであります。
 とか言いながら、書けば自分中心の老人問題になってしまうのは仕方がないことでしょうか?