太鼓丸を通って、主郭部へ
毘沙門天堂砦から北に向かい
筑紫山を越えて
この坂を上ると
小山があり、頂部には曲輪がありますが薮です。
堀切
城路に向かい
第二堀切、この上に太鼓曲輪がありますが笹薮でどうにも写真にはなりません。
太鼓櫓の外見
第三堀切(車橋址)
常磐門跡
第四堀切
常磐曲輪(仮に)、この先に
烏山城一番の石垣が導く大手
案内図
縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より
烏山初代城主 那須資重
那須 資重(なす すけしげ)は、室町時代の武将。下那須家当主。下野国沢村城、のち烏山城主。
那須氏11代当主・那須資氏の子として誕生。当初は沢村氏を継承したが、応永年間(1394年 - 1427年)に兄で那須氏12代当主・資之に疎まれ攻撃を受け沢村城を退去、稲積城に移った。応永23年(1416年)、上杉禅秀の乱が勃発すると資重は鎌倉公方・足利持氏方に与する。兄・資之は室が上杉禅秀の娘であった関係で禅秀方に与したが、持氏の勝利後はその後ろ盾を得て結果的に那須氏の分裂を恒常的なものにした。応永25年(1418年)、烏山城を築き居城とした。
地元では資之が資重の器量の方が優れていたことに嫉妬したためこれを排斥した、また沢村城を脱出した資重が烏の導きにより烏山の地に城を築いたという伝承がある。 ウィキペディアより
毘沙門天堂砦から北に向かい
筑紫山を越えて
この坂を上ると
小山があり、頂部には曲輪がありますが薮です。
堀切
城路に向かい
第二堀切、この上に太鼓曲輪がありますが笹薮でどうにも写真にはなりません。
太鼓櫓の外見
第三堀切(車橋址)
常磐門跡
第四堀切
常磐曲輪(仮に)、この先に
烏山城一番の石垣が導く大手
案内図
縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より
烏山初代城主 那須資重
那須 資重(なす すけしげ)は、室町時代の武将。下那須家当主。下野国沢村城、のち烏山城主。
那須氏11代当主・那須資氏の子として誕生。当初は沢村氏を継承したが、応永年間(1394年 - 1427年)に兄で那須氏12代当主・資之に疎まれ攻撃を受け沢村城を退去、稲積城に移った。応永23年(1416年)、上杉禅秀の乱が勃発すると資重は鎌倉公方・足利持氏方に与する。兄・資之は室が上杉禅秀の娘であった関係で禅秀方に与したが、持氏の勝利後はその後ろ盾を得て結果的に那須氏の分裂を恒常的なものにした。応永25年(1418年)、烏山城を築き居城とした。
地元では資之が資重の器量の方が優れていたことに嫉妬したためこれを排斥した、また沢村城を脱出した資重が烏の導きにより烏山の地に城を築いたという伝承がある。 ウィキペディアより