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氏族の追跡(長野氏)「箕輪城と長野氏」著者近藤義雄氏

2016-05-02 17:31:08 | 氏族の追跡
長野氏関係の寺

長野氏の出自については、「長野弾正家系図」によれば平城天皇の皇子阿保親王、その子在原業平を祖としている。阿保親王は確かに承和元年(834)二月、上野国府の長官である太守に任ぜられているが、この頃の都の貴族たちは、地方役人に任ぜられても任国に下らない遙任が多かったため、親王の身分である阿保親王は上野まで下ってこなかったであろう。次に在原業平は上野国司となった信頼すべき記録はない。在原業平は「伊勢物語」の主人公として登場する。長野氏は伊勢国から上野浜川に下ったという伝承があることから業平と東国との伝承が生まれ、上野へ下ったと考えられたのであろう。
 では、なぜ長野氏系図が記すような業平との関係が生じてきたのであろうか。それについては長野氏系図には代々「業」の一字が用いられたことである。長野氏が「業」の一字を尊重し、歴代「業」の字を名前に用いたのは、先祖に「業」の文字を使用した有名人があったと考えられたからであり、それが在原業平と結ばれる一つの原因と考えられる。


長野氏と在原氏との関係を示すものは、もう一つ、石上姓を用いていたことがある。浜川系図の業平から四代目業国の注に、「石上朝臣長野上野介初めて石上姓を賜る。在原姓を改め石上姓の元祖也」とあり、このことは、『長野記』にも次のように記されている。「長野左衛門太夫業重の嫡男業国、一条院の御守に大和国布留明神の社再興の時、勅使に立てられ、由緒無きにしもあらずとて、初めて石上姓を賜り云々」とある。『長野記』が記されたのも近世のことであるから、業国が在原から石上に改めたことは、あるいはその逆であり、石上姓を古く名乗っていた長野氏が、石上に関係がある在原氏へと結ばれていったのではなかろうか。
 長野氏が古く石上姓であったことは、このほかにも種々の資料からうなずかれるところである。後年、長野氏が箕輪城の鬼門除けに建立した寺は石上寺(箕輪町東明屋)であり、箕輪へ移る以前、高崎市浜川町の御布呂の地にあったと伝えられている。御布呂は布留明神の布留の変化とも見られ、この地は長野氏が浜川町の道場の地に移る以前、居住した地と伝えられている。また、連歌師宗長が東国巡遊を記録した「東路の津登」の永正六年(1509)九月の条に、浜川の並松別当(長野氏)の館へ足を止めた際、次のように記している。「この別当。俗長野。姓石上也。並松(枝)上野国多胡郡弁官府碑文銘曰。太政官二品穂積親王。左大臣正二位石上尊。此文系図あり。布留社あり。」
 右によれば、長野氏の姓は石上であり、永正六年頃は多胡碑に見える石上尊がその祖であると記している。早くに上野に下ってきた石上姓、すなわち物部一族との関わりを示している。また、宗長がこの地に「布留社あり」と記しているが、布留社の本社は古くから物部氏が祭る石上神宮で、奈良県天理市布留にある。前にも触れたが、長野氏が道場の地に移る以前、御布呂(布留)に居住したというのは、おそらく石上神宮を祀っていたからであり、石上寺はこの石上布留社の別当寺であったであろう。


高崎市箕郷東明屋にある石上寺、浜川町の御布呂から移されたという




高崎市三ツ寺町にある石上寺、子孫の方の話では東明屋から移されたということです。いずれにしても、箕輪城の鬼門に石上寺があったことは事実です。また長野氏が多胡碑にある石上氏との縁があれば、物部氏の支族であったことの可能性も出てきます。

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