本丸から曲輪2・3へ
本丸の西尾根部
祠が祭られています。
本丸を西から見ています。南側には土塁が構築されています。
本丸の北に位置する曲輪2
曲輪2の西側下にある袖曲輪
袖曲輪の南先端部にある竪堀
袖曲輪から曲輪2の城壁を見ています。
曲輪2の南東に位置する曲輪3、城壁の先には曲輪4
曲輪4は広大です。幅60m奥行き100mほど
曲輪4の南東部に土塁
曲輪4の南下曲輪
南下曲輪の東側には三段の段曲輪
縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より、曲輪4は実際にはもっと大きく感じました。
次回 曲輪4の南東部にある櫓台周辺と曲輪4の北側の見事な空堀と土塁
小山義政の乱②
この戦いは氏満以外の人々、義政・義満・憲方その他の人々にとっては余りにも大きな誤算があった。それは、康暦の政変で室町幕府から反逆の疑いを受けた氏満が室町幕府に近い東国屈指の名門武家である小山氏を滅ぼすような軍事行動は起こさないだろうという読みが氏満には通じなかったことであった。
義政は氏満と宇都宮基綱が結びついて小山氏の抑圧を図っているとみて基綱の排除を図ろうとし、前年の康暦の政変で氏満が幕府から睨まれている今であれば基綱を討っても、氏満は勝手に軍事行動には出られないだろうし、出たとしても幕府がこれを抑止するであろうという楽観的な見通しを持っていたようである。また、乱後も義政が幕府に対して事態への介入を求めていた動きがあり、氏満側と言える存在であった義堂周信が義満に対して流言に惑わされることがないように忠告(『空華日工集』永徳元年11月7日)しているのも、義政側の政治工作によって義満が氏満に対して不信感を抱き始めていた裏返しとみられている。義満や憲方にしても、基綱が討ち取られたという事実がある以上小山氏に対する何らかの制裁が必要であることは認めざるを得なかったし、いくら親幕府派とは言え小山氏が過度に力をつけすぎることは、有力守護大名の勢力抑圧を目指す義満の方針に反するし、憲方にしても東国支配や幕府との関係で自己に取って代わる可能性を早めに潰す必要があった。
ところが、氏満が本気で小山氏を滅ぼす気であることに気付いた義満や憲方はこれを抑えようとした。弘和元年/永徳元年11月2日に義満が氏満に充てた書状では、まず小山氏が幕府に近く義政も幕府の後ろ盾で挙兵したとする説を否定して「幕府内に義政を擁護する者はいない」と討伐の正当性を認めつつもこれまでの軍事行動で小山氏が打撃を受けており、「京都と鎌倉が持っている相互の不信感を解消するためにはこれ以上の義政対治(退治)は望ましくない」と事実上の撤退を命じている(『頼印大僧正行状絵詞』)。憲方も弘和2年/永徳2年1月16日に関東管領辞任の上表を提出して抗議の意思を示したものの、氏満はこれを先送りにし、更に憲方の動きを見て3度目の攻撃をためらう上杉朝宗・木戸法季の両大将に対しては、在鎌倉の東寺二長者である頼印の知恵を借りて説得に成功した。また、討伐軍の有力武将の1人であった常陸の小田孝朝が義堂周信を通じて義政の助命を働きかけた形跡がみられる(『空華日工集』永徳2年1月7日)ものの、効果はなかったようである。ウィキペディアより
小山義政の乱①の記事で寺窪城・櫃沢城とありますが、現在の粕尾城は中央の鞍部を挟んで南側要塞と北側要塞に大きく分けることができます。寺窪城・櫃沢城を総称して粕尾城としたのか、あるいはその二城がまだ別にあるのか疑問の所です。
本丸の西尾根部
祠が祭られています。
本丸を西から見ています。南側には土塁が構築されています。
本丸の北に位置する曲輪2
曲輪2の西側下にある袖曲輪
袖曲輪の南先端部にある竪堀
袖曲輪から曲輪2の城壁を見ています。
曲輪2の南東に位置する曲輪3、城壁の先には曲輪4
曲輪4は広大です。幅60m奥行き100mほど
曲輪4の南東部に土塁
曲輪4の南下曲輪
南下曲輪の東側には三段の段曲輪
縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より、曲輪4は実際にはもっと大きく感じました。
次回 曲輪4の南東部にある櫓台周辺と曲輪4の北側の見事な空堀と土塁
小山義政の乱②
この戦いは氏満以外の人々、義政・義満・憲方その他の人々にとっては余りにも大きな誤算があった。それは、康暦の政変で室町幕府から反逆の疑いを受けた氏満が室町幕府に近い東国屈指の名門武家である小山氏を滅ぼすような軍事行動は起こさないだろうという読みが氏満には通じなかったことであった。
義政は氏満と宇都宮基綱が結びついて小山氏の抑圧を図っているとみて基綱の排除を図ろうとし、前年の康暦の政変で氏満が幕府から睨まれている今であれば基綱を討っても、氏満は勝手に軍事行動には出られないだろうし、出たとしても幕府がこれを抑止するであろうという楽観的な見通しを持っていたようである。また、乱後も義政が幕府に対して事態への介入を求めていた動きがあり、氏満側と言える存在であった義堂周信が義満に対して流言に惑わされることがないように忠告(『空華日工集』永徳元年11月7日)しているのも、義政側の政治工作によって義満が氏満に対して不信感を抱き始めていた裏返しとみられている。義満や憲方にしても、基綱が討ち取られたという事実がある以上小山氏に対する何らかの制裁が必要であることは認めざるを得なかったし、いくら親幕府派とは言え小山氏が過度に力をつけすぎることは、有力守護大名の勢力抑圧を目指す義満の方針に反するし、憲方にしても東国支配や幕府との関係で自己に取って代わる可能性を早めに潰す必要があった。
ところが、氏満が本気で小山氏を滅ぼす気であることに気付いた義満や憲方はこれを抑えようとした。弘和元年/永徳元年11月2日に義満が氏満に充てた書状では、まず小山氏が幕府に近く義政も幕府の後ろ盾で挙兵したとする説を否定して「幕府内に義政を擁護する者はいない」と討伐の正当性を認めつつもこれまでの軍事行動で小山氏が打撃を受けており、「京都と鎌倉が持っている相互の不信感を解消するためにはこれ以上の義政対治(退治)は望ましくない」と事実上の撤退を命じている(『頼印大僧正行状絵詞』)。憲方も弘和2年/永徳2年1月16日に関東管領辞任の上表を提出して抗議の意思を示したものの、氏満はこれを先送りにし、更に憲方の動きを見て3度目の攻撃をためらう上杉朝宗・木戸法季の両大将に対しては、在鎌倉の東寺二長者である頼印の知恵を借りて説得に成功した。また、討伐軍の有力武将の1人であった常陸の小田孝朝が義堂周信を通じて義政の助命を働きかけた形跡がみられる(『空華日工集』永徳2年1月7日)ものの、効果はなかったようである。ウィキペディアより
小山義政の乱①の記事で寺窪城・櫃沢城とありますが、現在の粕尾城は中央の鞍部を挟んで南側要塞と北側要塞に大きく分けることができます。寺窪城・櫃沢城を総称して粕尾城としたのか、あるいはその二城がまだ別にあるのか疑問の所です。