山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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下郷要害城③

2018-03-24 19:57:35 | 山城ー野州
本丸へ(ここでも新発見の曲輪を確認しました。)

二の丸に戻り、本丸城壁を見ています。

二の丸の東側の本丸南下曲輪から本丸城壁を見ています。

本丸南下曲輪を見下ろしています。

本丸

本丸北側に櫓台

本丸を北から見ています。

本丸東下の大堀切、この対面の上に新発見の曲輪(東曲輪とします)があります。

径40m円形に近い曲輪で、東奥に土塁を設けています。

疑いをはさむ余地をなくすため、土塁をアップで撮っています。

東から東曲輪を見ています。

念のためもう一度西から全体を見ています。

東曲輪から東に尾根が登っていて、物見があっても不思議ではない地形です。

頂部に行ってみると、ここにも林道が入り込み、物見があったかは確認できませんでした。

東曲輪の城壁を見て、山を下りました。

次回 石生山城

宇都宮正綱②
享徳の乱
享徳の乱以降関東においては古河公方足利成氏と関東管領上杉氏が対立しており、正綱は小山持政に従い、成氏方について転戦していた。
しかし、1470年頃になると成氏方は押されつつあり、厳しい状況になっていた。その際に重臣芳賀高益の献策により宇都宮氏は一時的に上杉方に寝返っている。
1476年、上杉方の長尾景春が反乱を起こした(長尾景春の乱)。
1477年正月には、翌年に行われる予定の宇都宮社社殿の式年遷宮に向けて日光山と宇都宮社の関係を説き描いた『日光山縁起』絵巻の転写などの準備をしていた[10]。
1477年、正綱は成氏に従い長尾景春の救援に向かったが、上野国の川曲の戦いで陣没した。更に従軍していた宇都宮一族の横田綱親・保業・清業父子、今泉盛泰も討死し、紀党の棟梁益子唯正・延正父子も討死する等甚大な被害を受けた[11]。享年31。ウィキペディアより





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