山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

氏族の追跡(横尾氏)江見氏との関係

2015-04-04 20:38:11 | 氏族の追跡
江見氏との関係

氏族の追跡(九州の伝承⑥)に書いておりますが、平忠盛は子供に清盛以下6人の兄弟があり、その六男忠度の嫡男に忠氏がおります。忠氏は幼名江見民部後に民部亮に任す。「上北面武者所隠密士也。母者菅家道真公十一代後胤美作国、菅家江見治郎行基女也。以て美形成、薩摩守忠度に寿永三年嫁す、於いて摂州一の谷に忠度討死の後、美作国に於いて(忠氏)出生す。建久九年十五歳にして鎌倉に下りて、北条遠江守時政を頼み勤仕す。平氏を隠し家名を江見と称す。その後承久二年六月北条義時に属し宇治勢田合戦において軍功により信濃国小県郡横尾永高三百貫の地を恩賞とされる。民部亮に任し、上北面隠密ノ士武者所と成る。」と系図に説明書きが添えてあります。
 信州小県の横尾氏は私の先祖で詳しくは、「山城めぐり」biglobeの氏族の追跡を見てください。

江見氏をネットで検索しますと、美作国菅家は菅原道真で有名な菅原氏から派生した美作国の氏族、美作国勝田郡を中心に繁栄し、様々な氏族を生みました。
ウキペディア 美作菅氏
1 家系と支族 1.1 『東作誌』説
1.2 皆木保実『美作太平記』説
1.3 『古代氏族系譜集成』説
1.4 『美作菅家氏分録』説
1.5 他国の派生支族
1.6 通字

2 歴史
3 有元氏
4 廣戸氏
5 福光氏
6 植月氏
7 原田氏
8 鷹取氏
9 皆木氏
10 豊田氏
11 江見氏
12 垪和氏
13 粟井氏
14 菅納氏
このように菅氏は12家に分かれており、先の系図での説明書きにある江見氏は菅家から分かれていることで裏書されました
昌泰四年(901年)、昌泰の変により菅原道真は大宰府に左遷され、その子らも配流の憂き目に合ったが、延喜三年(903年)に太宰府に配流された菅原道真が死すと、怨霊を恐れた朝廷によりその一族は復権した。

正暦年中(990年 - 995年)、道真の曾孫資忠の次男良正が出家して美作国勝田郡香爐寺に移り住んだ。良正から数代後の知頼は承暦二年美作守となって任国に下り、在職中に作州勝田郡で死去。その子真兼(実兼)は押領使となってそのまま作州に住み着き、美作菅党の祖となる。[1]

美作で菅原氏を称する氏族には、土着した菅原氏から直接派生したものと、元々それぞれの土地に基盤を確立していた一族が美作菅氏と養子・婚姻関係を結んで菅原姓を称したものがおり[2]、それら諸氏の派生についてはさまざまな伝承がある。

『東作誌』説[編集]

近江に藤原支族の近藤氏がおり、近藤景頼の子宇合頼資が保元の乱(平治の乱との伝もあり)で新院側に与して作州豊田庄に配流、二階堂維行の娘である妻ともども住して近藤村(是宗村)と称した。夫妻には長男・公資、二男・公継の2人の子があった。頼資が死したため、この2子を連れて有元(当時菅原)家に嫁ぐ(『東作誌』是宗村)。

知頼から四代後の仲頼と二階堂維行の娘との間に三穂太郎満祐が生まれ、ここから菅家七流と呼ばれる有元氏・廣戸氏・福光氏・植月氏・原田氏・鷹取氏・江見氏らが派生。有元氏が頭首となって美作菅家党と呼ばれる武士団となった。(『東作誌』 有元家略系図)

さらに数代を経て、皆木氏、垪和氏、菅納氏などが派生している。

皆木保実『美作太平記』説[編集]

道真から12代の後胤、秀滋(前伊豆守、別名仲頼・保師)が美作国勝田郡北の庄に配流。男子が3人あり、保綱(公資、三河守)、保義(公継)、満佐が兄弟3人で勝田郡五ヶ庄[注 1]を支配し、この3人の系統を菅家の三流と呼んだ。三河守保綱からは豊田・皆木・菅・廣戸・森保・野々上・小阪・戸国・留坂・梶並・右手(うて)などが、保義からは植月・大町・松岡・須江らが、三穂太郎満佐からは有元・福本・江見・弓削・原田・垪和・菅田らが派生し、これを菅家七流としている。

『古代氏族系譜集成』説[編集]

道真から11代後の尚忠から作用菅太知季、原田次郎兼知、有元三郎仲頼が生まれ、兼知子孫は加賀前田氏へ繋がり、仲頼の曾孫左京進佐時が有元氏となり、同じ仲頼の曾孫三穂太郎満佐から植月・廣戸・福光・鷹取氏らが派生。

『美作菅家氏分録』説[編集]

有元・植月・鷹取・廣戸・皆木・大町より外は、有元氏より皆木・小坂・梶並・前原ら諸氏、皆木より豊田・小森・菅納・菅ら諸氏、小坂氏より戸国氏、豊田氏より野々上氏、原田忠門の末に松岡・鷹取、長門守佐利の末に弓削氏。合計132氏、粟井氏・江見氏を除く。[注 2]

他国の派生支族[編集]

宇喜多氏重臣となった戸川氏は、有元氏の庶流富川菅四郎佐尚の孫に富川正実があり[3]、秀安がその養子となったもの。

加賀藩の前田氏は美作菅家原田氏の家系を自認し、家紋は菅家の梅鉢紋を使用している。

剣術で有名な柳生氏は『藩翰譜』『寛政重修諸家譜』などによると、良正の孫で知頼の祖父である持賢の子永家から派生したとなっている。

剣豪・黒田二十四騎として有名な菅和泉正利を輩出した播州菅氏は『菅氏世譜』によれば祖父筑前守公直の代に揖東郡越部村に来て領地を獲得して家を立てたとしている。[4]
氏族の派生には諸説があるようです。ただ、武家八家の一つ江見氏は菅氏から生まれたことは事実であろうと思います


武家家伝より
 美作国英多郡江見庄鯰村鳥坂山城主にして、家伝によれば赤松氏の庶流という。おそらく、美作管家党のひとつであろう。美作国江見荘を名字とした美作の有力国人領主であった。恵美・恵比氏とも。
 美作菅家党の一つ。有元氏の三穂太郎満佐の子資豊が、英田郡江見庄を領して江見氏を名乗ったという。『太平記』にも「美作国には菅家の一族、江見、芳賀、渋谷」とみえている。
 菅原道真の三男庶幾は、延喜十一年勅命を受けて、南国に働き軍功を著す、また同年四月伊勢に赴き、数度の戦功をあげ、従四位上に叙し、越中守に任じられたという。その子孫の江見次郎盛方は、平家の侍大将として天盃を賜ったとき伊勢海老を下された。次郎が鎧直垂の袖に受けて頂戴するその姿は勇ましくみえ、叡慮により家紋に賜ったとされる。
 南北朝期、はじめ後醍醐天皇方についたが、江見信盛は足利尊氏の西国落ちにさいし、奈木の山菩提寺にて尊氏のために働く。このとき尊氏から二つ引両の紋を賜っている。以後、戦国時代には赤松氏の被官として台頭した。応仁の乱には京都で合戦に参加していたようだ。江見氏の本来の家紋は「梅鉢」であった。それが、先に記したように「海老」「二つ引両」も使用するようになった。『見聞諸家紋』をみると、江見氏の紋は「海老」と紹介されている。
 江見氏には、播磨守護赤松氏から分かれた家がある。『江見系図』によれば、赤松頼則の末流に江見亦次郎景俊がいる。景俊は永仁四年に生まれ、美作国英田郡江見の城主であったという。
 菅家流江見氏と赤松流江見氏の関係については「菩提寺の城主江見盛則は、後醍醐天皇に応じて兵を挙げ、備前の松田氏に攻められた。このとき赤松氏に救けを請い、赤松景俊が救援に向かった。しかし、援軍が到着する前に城は落ち、盛則は戦死した。ここにおいて景俊は盛則の跡を継いで江見氏を冒した」とされている。
 景俊は暦応四年、足利尊氏に従って戦功を挙げ、感謝状を賜っている。以後、助頼-頼房-忠頼-行頼と続き、代々江見城に拠った。天文のころ、小太郎秀雄が名をあげ、その子秀房は河副久盛の麾下で活躍している。しかし、その子秀清のとき、宇喜多氏に攻められて破れ江見氏は没落したという。
 美作地方には、数流の江見氏がみられるが、それぞれの関係は詳らかではない。

残念ながら忠氏の母者の父江見治郎行基という名が武家家伝の系図に乗っていなくて庶流であったのかもしれません。いずれにしても『太平記』の人物の名が江見次郎盛方とあり、名からしても縁あることと思います。よって横尾家の系図にある説明書きは事実を伝えていることと思います。

岡山県美作市江見
平忠氏はこの江見荘で十五歳になるまで過ごしたのかもしれません。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。