山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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粕尾城

2018-03-10 19:55:44 | 山城ー野州
粕尾城は栃木県鹿沼市中粕尾にあります。

粕尾城地図
地方道15号線でバス停粕尾保育所を過ぎて、足尾方面に300mくらいで右手に田原神社が見えてきます。

田原神社、この鳥居の右手の道、100mくらい進むと

登り道の案内板があります。

由来、南北朝の時代、小山義政は宇都宮氏と争い祇園城を自焼して、この地で敵を迎え撃つべく粕尾城を築城したという。

笹薮に覆われた屋敷群を抜けると大きな曲輪6になります。

曲輪6の奥に曲輪5

曲輪6と曲輪5は南側に空堀を配しています。

80mくらいの長さの空堀

空堀下から城壁を見上げています。

縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より

縄張り図のように、曲輪5から北尾根に変わり、余湖さんは曲輪として番号を振っていませんが、北曲輪①と思います。

第一堀切

北曲輪②

第二堀切、この先に

本丸

本丸は西に尾根が伸びています。

次回 2.3.4の曲輪へ

小山義政の乱
そして、遂に5月16日、河内郡裳原に侵攻した小山義政は宇都宮軍と交戦、宇都宮基綱が討たれたほか80名余りが戦死した。だが、小山氏側の被害も大きく一族30名余り、家臣200名余りの死者を出したという(『迎陽記』)。基綱戦死の報を受け取った氏満は6月1日に「不応上裁」と「故戦防戦」を理由として義政の追討を決める。15日には関東管領となった憲方と従弟の上杉朝宗、側近である木戸法季を大将として小山に向かわせ、次いで鎌倉公方足利氏満自ら出陣した。
関東屈指の勢力を持つ小山氏の勢力削減と太田・下河辺荘獲得の機会を伺っていた氏満にとっては、今回の事件は公然と討伐軍を挙げられる好機であり、鎌倉府に反抗を目論む他の武家に対する「見せしめ」にもなり得た。京都の幕府ではかねてから故戦防戦に代表される私戦行為の禁止令が度々出されており、事態の先送りは許されない状況になっていたのである(そうした状況をもっとも望んだのは氏満であったとみられている)。鎌倉府の大軍を裳原での打撃を回復できないままに迎え討つことになった義政は状況の不利を悟り、9月21日に降伏の意思を表明した。
氏満は足利まで兵を進めていたが、義政の降伏を知って一旦討伐軍の拠点のあった武蔵村岡(現在の埼玉県熊谷市)に入った。ところが、義政は氏満が求めた謝罪には応じなかったために氏満は再度の討伐を準備、憲方の提案を受け入れて京都の足利義満の元へ側近の梶原景良を派遣して事情説明に向かわせた。翌弘和元年/永徳元年(1381年)1月18日、義満は氏満に義政討伐を命じる御教書を発した。これを受けて2月15日に氏満は上杉朝宗と木戸法季に対して再度の小山攻撃を命じる。
4月に足利まで兵を進めたところで武蔵において南朝方の新田氏一族の挙兵があり、一旦同地で鎮圧活動を行ったもののその後直ちに小山に向かい、5月25日には太田荘を占領し、6月から鷲城を中心に小山周辺で一進一退の攻防が続けられたが、小山軍の拠点であった鷲城の陥落が確実となったことから、12月8日に義政と嫡子若犬丸は鷲城を開城して祇園城に移って降伏を表明し、証拠を示すために義政は出家して「永賢」と号し、若犬丸と一族の代表が氏満の陣に出頭して降参の儀を行った。
ところが、翌弘和2年/永徳2年(1382年)3月22日になって、義政と若犬丸は祇園城を自ら焼き捨てて、小山郊外の粕尾に城塞(寺窪城・櫃沢城2城)を築いて抵抗を図る。2度目の裏切りに激怒した氏満は29日に3度目の討伐軍を派遣する。鎌倉府側の猛攻で寺窪城が陥落し、最後の拠点となった櫃沢城も陥落寸前となり、4月12日には義政は若犬丸と共に櫃沢城脱出を図る。だが、追手に発見されて翌13日の巳の刻に義政は粕尾の山中で自害(享年33)、妻の芳姫も籠城中もしくは落城後に変心した里人に殺害されたという。だが、若犬丸のみは発見されず、そのまま行方不明となった。ウィキペディアより







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