本丸南側下遺構から本丸へ
本丸南下から階段状の腰曲輪
一段目南腰曲輪、石垣が残っています。
曲輪2・曲輪9を見下ろしています。
二段目の腰曲輪、これをよじ登ると
本丸(南から)
本丸西下、曲輪4
本丸(東から)
歴代城主と縄張り図
主郭部と北尾根連続堀切とに大きく縄張りは分かれています。
説明版にある小笠原貞宗について
朝日日本歴史人物事典の解説
小笠原貞宗
没年:貞和3/正平2.5.26(1347.7.5)
生年:正応5.4.12(1292.4.30)
南北朝時代の武将。宗長と赤沢政常の娘の子。生年を永仁2(1294)年とする説もある。幼名豊松丸,通称彦五郎。右馬助,治部大輔,信濃守。後醍醐天皇の討幕計画による元弘1(1331)年の元弘の変では,足利義詮 に従い鎌倉攻めに加わったが,その功により建武政権下で信濃守護職に補任される。建武2(1335)年7月,幕府方が再興を図って兵を挙げると(中先代の乱),守護として信濃の北条与党の鎮圧に当たった。11月に足利尊氏が新田義貞を攻め破るとこれに従い,翌年,山門の戦いで近江に出陣,越前の金崎城をも攻略している。暦応1/延元3(1338)年には美濃青原で北畠顕家軍と戦い,康永1/興国3(1342)年には常陸大宝城に北畠親房を攻めるなど幅広い活躍をした。建武2年に安曇郡住吉荘を,貞和3/正平2(1347)年には近府春近領を得て勢力を伊那郡から信濃中央部へと拡大し,居館も建武年間(1334~38)に松尾(長野県飯田市)から井川(松本市)に移し,信濃の守護家としての小笠原氏の基礎を築いた。射芸騎乗に優れ,しばしば幕府の的始や笠懸,犬追物の射手にも名を連ねている。武芸に秀で,礼節を重んじた当代の代表的武将ではあったが,小笠原氏の始祖長清以来の弓馬の道をまとめたとか,有名な小笠原流の礼法を完成したとの通説に対しては否定的な見解が強い。<参考文献>「笠系大成」(『信濃史料叢書』12巻),『建武中興を中心としたる信濃勤王史攷』
(笹本正治)
出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について | 情報
本丸南下から階段状の腰曲輪
一段目南腰曲輪、石垣が残っています。
曲輪2・曲輪9を見下ろしています。
二段目の腰曲輪、これをよじ登ると
本丸(南から)
本丸西下、曲輪4
本丸(東から)
歴代城主と縄張り図
主郭部と北尾根連続堀切とに大きく縄張りは分かれています。
説明版にある小笠原貞宗について
朝日日本歴史人物事典の解説
小笠原貞宗
没年:貞和3/正平2.5.26(1347.7.5)
生年:正応5.4.12(1292.4.30)
南北朝時代の武将。宗長と赤沢政常の娘の子。生年を永仁2(1294)年とする説もある。幼名豊松丸,通称彦五郎。右馬助,治部大輔,信濃守。後醍醐天皇の討幕計画による元弘1(1331)年の元弘の変では,足利義詮 に従い鎌倉攻めに加わったが,その功により建武政権下で信濃守護職に補任される。建武2(1335)年7月,幕府方が再興を図って兵を挙げると(中先代の乱),守護として信濃の北条与党の鎮圧に当たった。11月に足利尊氏が新田義貞を攻め破るとこれに従い,翌年,山門の戦いで近江に出陣,越前の金崎城をも攻略している。暦応1/延元3(1338)年には美濃青原で北畠顕家軍と戦い,康永1/興国3(1342)年には常陸大宝城に北畠親房を攻めるなど幅広い活躍をした。建武2年に安曇郡住吉荘を,貞和3/正平2(1347)年には近府春近領を得て勢力を伊那郡から信濃中央部へと拡大し,居館も建武年間(1334~38)に松尾(長野県飯田市)から井川(松本市)に移し,信濃の守護家としての小笠原氏の基礎を築いた。射芸騎乗に優れ,しばしば幕府の的始や笠懸,犬追物の射手にも名を連ねている。武芸に秀で,礼節を重んじた当代の代表的武将ではあったが,小笠原氏の始祖長清以来の弓馬の道をまとめたとか,有名な小笠原流の礼法を完成したとの通説に対しては否定的な見解が強い。<参考文献>「笠系大成」(『信濃史料叢書』12巻),『建武中興を中心としたる信濃勤王史攷』
(笹本正治)
出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について | 情報