山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

粕尾城③

2018-03-12 19:50:51 | 山城ー野州
曲輪4の南東部、櫓台


櫓台?

頂部

南東下曲輪

搦め手

搦め手、谷を下り集落に出ます。

曲輪4の東から西に空堀を巡らしています。

空堀の北側に廻ると、曲輪4からの北虎口があります。
空堀の北側外へ行くと、壕道があります。

壕道の北には曲輪らしき削平地があります。

曲輪4に戻って

北虎口を見下ろしています。

次回 長尾景春に関した山城 埼玉県 熊倉城

小山義政の乱③
一方、氏満には義政討伐に関して計算があった。義政が「不応上裁」と「故戦防戦」に違反したという明確な証拠があることによる。まず、故戦防戦は鎌倉府のみならず京都の幕府でもたびたび禁じてきた行為であり、義政がそれを行った事実は幕府や鎌倉府から何の罪も問われていない宇都宮基綱が殺害されて所領を奪った事実から明白であること、次に、その行為は関東の武士が上部組織である鎌倉府の命令に従う義務に反しており、これによって不応上裁の違反も成立していた。これによって氏満が独断で義政を討伐することは、関東管領や幕府としても認めざるを得なかったのである(これは義満が氏満に義政討伐の御内書を与えていることや、氏満に対して幕府内に義政を擁護する意見はないと伝えていることからも明らかである)。
そして、当時の室町幕府は康暦の政変後の混乱が収拾されておらず、政変を好機とみて南朝方が反撃の姿勢をみせ、春日神木は入京(興福寺の強訴)し、西国でも不穏な動きが生じていた。そうした中で義満が兵を起こして氏満討伐あるいは義政救援を行うことは事実上不可能であり、何よりも小山氏を滅ぼそうとする氏満の強い意思が周囲を圧倒した。既に戦いと並行して太田荘の掌握に努めると共に下河辺荘の一部を頼印の事実上の支配下にあった鶴岡八幡宮に寄進するなど小山氏所領の解体を始めていた。義政の2度にわたる降伏条件の違反の背景には、降伏後に氏満から出された赦免条件が太田荘・下河辺荘を含めた小山氏の所領の大部分の没収が含まれるなどの同氏にとっては過酷な条件内容であったからとも考えられている。




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