吹貫門から北城へ廻り中城へ。
本丸周辺図
吹貫門を進めば本丸1へ行けますが、まず東下を歩いてゆきます。
塩倉跡
厩跡
桜門跡
十に曲りを下れば里に通じています。
侍屋敷
北曲輪(北城)
北城と中城との間の大堀切
中城
北城から中城へ歩いてきました。縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より
次回 古本丸から二の丸へ(本丸1)もっと整備すれば栃木県一番の山城であり、多くの観光客を呼べるのに、この歴史的資産価値を那須烏山市は分かっていないようです。
那須氏の出自
藤原北家の後裔を称し、各種系図によると藤原道長の六男・藤原長家の孫資家(貞信)を祖とし、元は須藤氏を称していたが、那須資隆(太郎)の時、那須氏を称したとされる[1][注釈 1]。
一般には屋島の戦いで扇の的を射落とした那須与一(資隆の子)で知られるが、『吾妻鏡』によって明確に存在が確認されるのは鎌倉時代初期の那須光資からであり、与一の存在も含めそれ以前の系図や事跡・伝承には疑わしい部分も多く[注釈 2]、出自は必ずしも明らかではないが、阿倍氏の一族で那須国造家である那須直の後裔とする説がある。 ウィキペディアより
本丸周辺図
吹貫門を進めば本丸1へ行けますが、まず東下を歩いてゆきます。
塩倉跡
厩跡
桜門跡
十に曲りを下れば里に通じています。
侍屋敷
北曲輪(北城)
北城と中城との間の大堀切
中城
北城から中城へ歩いてきました。縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より
次回 古本丸から二の丸へ(本丸1)もっと整備すれば栃木県一番の山城であり、多くの観光客を呼べるのに、この歴史的資産価値を那須烏山市は分かっていないようです。
那須氏の出自
藤原北家の後裔を称し、各種系図によると藤原道長の六男・藤原長家の孫資家(貞信)を祖とし、元は須藤氏を称していたが、那須資隆(太郎)の時、那須氏を称したとされる[1][注釈 1]。
一般には屋島の戦いで扇の的を射落とした那須与一(資隆の子)で知られるが、『吾妻鏡』によって明確に存在が確認されるのは鎌倉時代初期の那須光資からであり、与一の存在も含めそれ以前の系図や事跡・伝承には疑わしい部分も多く[注釈 2]、出自は必ずしも明らかではないが、阿倍氏の一族で那須国造家である那須直の後裔とする説がある。 ウィキペディアより