超高齢化の島 宮城県「網地島」はよみがえるか

2014-04-03 18:30:23 | 宮城県

超高齢化の島「網地島」はよみがえるか

東日本大震災をきっかけに、東北地方の過疎化に拍車がかかっている。とりわけ地理的条件の厳しい離島では、無人島化の危機すらも現実味を帯びている。

そうした中、危機を逆手に取り、島をよみがえらせるプロジェクトが始まった。舞台は、宮城県牡鹿半島の鮎川港から4キロメートル南西、石巻港から18キロメートル南東に位置する面積6.43平方キロメートル、人口416(2月末現在)の網地島(あじしま)だ。

3月中旬、島内に点在する休耕地を小型耕運機を使って耕す作業が始まった。ジャガイモの種芋を植えるためだ。


まだ寒さが続く中、黙々と作業を続けるのは山本光剛(みつたか)さん(27)。昨年末まで陸上自衛隊に所属していた青年だ。

北九州市出身の山本さんは、防衛大学校、陸上自衛隊幹部候補生学校などを経て、神奈川県座間市の陸上自衛隊第四施設群に配属されてまもなく、東日本大震災が起きた。宮城県石巻市牡鹿地区で捜索活動に従事したのが縁で、被災地とかかわりを持った。

昨年、ホームページで石巻を拠点に被災者の支援を行う「チーム王冠」(伊藤健哉代表理事、47)を知り、ボランティア活動に参加。これを機に一念発起。自衛隊を退職。網地島に移り住み、設立されたばかりの「農事組合法人網地島エーベ」のメンバーに加わった。


「エーベ」はAgriculture(農業)のA、そしてBenefit(恩恵)のBeをつなぎ合わせたものだが、網地島の方言で「行こう」という意味もある。

発起人の一人で網地島エーベ代表理事を務める阿部孝博さん(69)は、「農業を通じて島おこしをしたい。目標は島内での自給自足です」と言い切る。

島で育ち、中学卒業と同時に漁船の乗組員として島を離れた阿部さんは現在、石巻市不動町の自宅と網地島を行き来する生活を続けている。

「自分を育ててくれた島にもう一度元気を取り戻してほしい」と阿部さんは願う。そのためのプロジェクトが農業だ。「ジャガイモやサツマイモからスタートし、有機野菜も手掛けたい」と意気込む。

とはいえ、「島で農業」というのは、いかにも常識に反している。傾斜地が多く、大型機械も入りにくい。農業の大規模化という国の方針にもそぐわない。「島の住民からも半信半疑の目で見られている」と阿部さんは苦笑する。

その一方で、可能性を評価する声もある。

「島の皆さんからすると、新鮮で安価な地元産の農産物が手に入るのであれば、メリットは大きい。自給自足を目指す発想は魅力的だと思う」

事業の説明を受けた宮城県東部地方振興事務所の佐藤恵主事は、こう激励した。

1960年代には3000を超える人口を擁していた網地島だが、現在、実際に住む人は400人を割り込んでいるといわれる。住民の平均年齢は75歳前後、高齢化率(65歳以上の人口の割合)は85%に達する、全国でも類を見ない超高齢地域だ。20年ほど前に小学校や中学校が閉校となり、交番も空き家になった。

島ではかつては半農半漁の暮らしが営まれていたが、高齢化とともに休耕地が増加している。そして震災で島を離れる人がさらに増加した。

震災直後は、電気、水道のインフラが途絶したうえ、生活に必要な物資の確保も困難になった。自宅や仕事場、トラック、冷凍庫を津波で流されたため、石巻から島に生鮮食品を運んで販売してきた業者が来られなくなったからだ。

■網地島の、もう一つの重要なライフラインが診療所だ。かつての小学校校舎を利用して開院したため、「網小(あみしょう)医院」という名を持つ。

「牡鹿町立病院(現在の石巻市立牡鹿病院)の分院として設けられていた診療所がなくなって住民が困っていたところに、栃木県にある医療法人の理事長(当時)の篤志によって設立されたのが網小医院。まさに島の宝です」

島の漁協組合長を務め、誘致に心血を注いだ小野勝吉(しょうきち)さん(88)がこう振り返る。

1日に約20人の外来患者が訪れる網小医院の待合室。冬眠の懇談の場でもある
網小医院では現在、水曜日から日曜日まで週5日にわたる外来診療や患者宅への訪問診療が続けられている。院内にはCTスキャン装置があり、遠隔画像診断もできる。

島内の寺で住職を務める木津川眞雄さん(73)は、食事中に心筋梗塞で倒れた後、網小医院に運ばれた。その後、3カ月半も意識が戻らなかったが、一命を取り留めた。

「もし、網小医院で応急処置を受けていなかったら、今頃は命がなかったと思う」(木津川さん)

網小医院に併設された老人保健施設。介護が必要な高齢者17人が暮らしている
ただ、網小医院の運営は楽ではない。数年前までは入院患者を受け入れていたが、現在は要介護の高齢者が入所する老人保健施設に転換した。17床の施設は満床だが、外来患者は1日20人程度。人口減少が続く中、診療所の存続を危ぶむ住民も少なくない。

小野喜代男(きよお)・長渡中小路(ふたわたしなかしょうじ)行政区長(75)もその一人だ

■「このまま人口が減り続けると網小医院を維持できなくなる。医療がなければ人が住めなくなる。復興支援で島に関心を持ってくれる人が増えた今を逃せば、島の活性化は不可能になる」


島おこしに取り組む小野喜代男・長渡中小路行政区長
「事業をおこし、人口を増やしていく必要がある」と考える小野さんが着目したのが、震災を機に島にやってきたボランティアによる活動だ。「彼らとの出会いをきっかけに、本気になって島おこしの勉強をし始めた」と小野さんは語る。

島の住民とともに、小野さんは島おこしを目的とする任意団体「ジョイフル網地島」を12年に立ち上げた。観光スポットの整備や食品加工場の建設、島暮らしを望む人向けの住宅の建設など、計画に盛り込まれた事業は多彩だ。

そのキャッチフレーズは「笑顔で暮らせる夢の島」。現在、NPO法人の認可を申請中で、実現すれば行政から助成を得る道も開けてくる。

全国に広がる支援の絆

網地島エーベを率いる阿部さんも小野さんに賛同し、ジョイフル網地島の理事に名を連ねた。両団体は連携して島おこしに取り組む。

小野さん曰(いわ)く、「阿部さんは島の実情を世の中に発信してくれる外務大臣のような存在」。実際、阿部さんを起点に多くのボランティアや支援者がつながっている。

昨年以来、網地島エーベの立ち上げに協力してきたチーム王冠は、津波被害を受けても避難所に入ることができなかった「在宅被災者」の支援を専門とする異色のボランティアグループだ。

「阿部さんと知り合うきっかけは11年夏。津波被害を受けた家屋での生活を余儀なくされている在宅被災者を訪ね歩く中で、阿部さんが行政区の副区長として住民への支援に奔走していた姿を目にした」(代表の伊藤さん)

■もう一人のキーパーソンが、日本工科大学校(兵庫県姫路市)の内藤康男校長(65)だ。自動車整備の支援活動で生徒とともに石巻を訪ねた内藤さんは阿部さんと意気投合。その縁で、かつて教員を務めた兵庫県立東播工業高校の生徒三十数名が、網地島での公園整備に携わった。

内藤さんは、「阪神・淡路大震災から生まれた「『学ぶ技術でボランティア』という兵庫県独自の教育理念を、東北にもぜひ伝えたい」と力を込める。

震災で大きなハンデを背負った網地島だが、雄大な自然と島ならではのスローな暮らしぶりは健在。それらを生かした復興の取り組みがまさに始まろうとしている。そして、この復興への取り組みは高齢化と過疎に苦しむ多くの離島にとってのモデルにもなるかもしれない。

(週刊東洋経済2014年3月29日号<24日発売>