喜寿をむかえた男の遊々生活!

喜寿を迎えた老人の日々を日記に・・・

酷暑の中 ゴルフに行ってきました。

2018-07-27 08:34:54 | 日記
 以前に 大阪に住んでいる娘婿の父親とゴルフに行こうと約束していたのですが、
前日になっても連絡がない。 まぁ この暑さだからキャンセルを入れているかも
知れないと思い、夕方 電話を入れると「明日一緒に行くメンバーに再確認をして
いた。明日大丈夫ですか?」と言う。
 彼は私より4歳年上の78歳、 家は洋服屋を営んでいるが、数年前から”洋服の
青山””洋服の治山”と言った安売り量販店が進出してきたので、注文も激減した
と聞く。
 今では老人施設への送り迎えを行って、合間に 昔馴染みのお得意様の注文が有れば
洋服を仕立てているようだ。

 さて26日木曜日、朝7時半に出発、ナビに猪名川町チェリーカントリーと入力
すると到着時間9時30分になっている。
スタート時間が9時22分と聞いていたから遅刻することになる。急いで自宅を出て
畑瀬を越して黒田庄福地から比延、塚本、社町鴨川、37号線を経て今田町へ入ると
到着予想9時になっていました。
37号線から12号線を南下、初めて通ると思われる峠道でした。途中 篠山駕坊温泉を
目にし、目的地へ向かいましたが どんどん山頂に向かって進みます。
 頂上付近でナビが”この先 右にとる”と言うので 右へ入ると右手にお寺が有り
それを尻目にあがっていくと民家があり、ここではないと判断。バックして元の道へ
戻り、やっと目的地のハウスへ、丁度9時。フロントでサインし、ロッカー室で
着替えし、外へ出ると 娘婿の父親と、そのお連れさん二人、一人は前回、一緒に
廻った安部さん、もう一人は今回初めてご一緒する東口さんでした。安部さんは
77歳、東口さんは76歳、 私も含めて ご高齢者ばかり、内心 この暑さの中
最後まで回れるかなぁ~と不安でした。

 私は このコースは初めてです。フェアウェイ幅は狭く、結構距離も長い。そのうえ
アンジレーションが有り 平坦なところが少ないコースでした。
1番2番3番とボギーペースで まぁまぁでしたが、山頂から打ち下ろすロングコースの
ティグラウンドへ立ちました。前が見えません。娘婿の親の金子さんは詳しいので
「右は絶対だめですよ。左は飛びすぎると池に入ります」。とのアドバイス。
ショットは完ぺきで フェアウェイを捉えました。打ち下ろしだったので250ヤードは
出ていたでしょう。2打目が200ヤードだったので2オンを狙える位置だったのですが
ボールは左足下がりに位置しています。”まぁグリーン際へ持っていこう”と思い
5番クリークで打つと これがフェードボールになり、右に少し流れOB、それから何と
続けて2打OB, 刻んで打とうと5番アイアンに切り替えて打つと 左の池へ・・・
池の入った箇所から1打罰で なんとこれが10打目、11打目がピンそばへ寄り、
ここから1パットの12と大叩き、結局アウトは57と最悪。

チェリーカントリー

 丁度12時にハーフが終わり、食堂で生ビールを飲みました。他の皆さんは
熱中症に気をつけておられ 飲まれません。
インスタートは12時50分、インはアウトより易しいように思われましたが、何せ
アンジレーションが有り、フェアウェイに落としても平らなところからショットできる
事は有りませんでした。 また ここのヤーディジは すべてグリーン手前らしく
ピンまでの距離を しっかり見極めないとショートすることが分かりました。
 結局、インは47、 皆さん ご高齢で 最後まで回れるか案じましたが、安部さんが
残り3ホールを残しプレーを中断したくらいで、私も含め3名は何とか回り終えました。


 車に乗ると外気温は32度、山頂なので少しは涼しかったのか? 帰りの峠でも
気温を見ると 31度と低くかったのですが、西脇に近づくにつれ 気温は上昇。
帰り小坂のジュンテンドーへ立ち寄ったのですが、気温は何と38度でした。
 家へ到着したのが丁度5時。
まぁ何とか 1日無事過ごせたことに感謝しながら缶ビールを飲みました。

 

思いつくままに 追憶その9

2018-07-25 10:38:09 | 日記
 休み明けからの学校での作業は もっぱら草対策、月曜日は学校南側の
歩道に 除草剤撒き、ところが雑草にかけると 厳しい日照りと、乾燥して
いるので、噴霧しても 直ぐに乾く状態。
サンフーロンの注意書きには 散布後 7時間 雨が降らない事を効果が効く
条件になっているが、乾燥時の事は書いていない。ネットで調べると、やはり
乾燥していると 葉から吸収しないため、効果が薄いので 早朝涼しい間に
散布するとしてある。
 まぁ 散布して水分が蒸発しても 薬剤は葉に付着しているはずだし、夜露に
あたって吸収するかもしれない。 しばらく様子を見ることにする。
火曜日はプール北側の法面に生えている雑草を草刈り機で刈るが、直射日光が
あたり、30分も作業をすれば汗だく。
熱中症になっても・・・と思い、木陰で水分補給、休憩するが、汗は止まらない。

 さて、先日は小学校時代から中学校時代にかけて 粗方 書いてみた。
中学校時代はクラスは11クラスであった。小学校時代の友達とは 殆ど一緒の
クラスになることはなかった。

 大木町の杉岡織布 杉岡巧国君は岡山の柏陵へ行ったようだし、宮六織物の
宮田礼彰君や、富田の後藤織物㈱の後藤国彦君なども西中以外に進学したようだ。
郷瀬の阿江勉君(通称トンちゃん)も多分他の学校へ進学しただろう。

 西脇では戦後 2~3年してガチャマン時代に突入した。
1ドル365円の固定レートは 多分に 地場産である繊維業界に恩恵を齎す。
野中町も例外でなく、三弘織布㈱、大弘織物㈱、宮六織物㈱と大手 織物会社が
有った。したがって村の会計は潤っていて、それは新しく布団太鼓の購入や
 公会堂建設、神社の補修など この織物会社が多分に高額の金を寄進し
村人の負担を軽減する。 一般の家庭はまだまだ経済的に苦しい時代、この野中町
在住の大手織物会社は沢山寄付をして 我々 貧乏人を助けた。

 近年どうだろう。先日も村では神社の境内の屋根が傷んでいると言い 修理、
鳥居が傷んでいると言って建て替え、太鼓蔵が傷んでいると言って建て替え、
その額 2000万円近いだろう。 私は太鼓を置くことに反対したが、殆ど
内心で思っていても口に出さないのだ。
 野中町の協議費は西脇市いや兵庫県下の町村でも一番高いと推察される。
私宅で半期21500円、年43000円を納めている。 その上に妙覚寺の
寺割が3000円だったかで有るが、寺が古く、いつ建て替えも迫っていると
言い、プラス4000円ほど積み立てている。合計5万円強となる。
 あの協議費が高いと言われる大木町が半期18000円、安いところでは富吉南
ゼロ円、焼却炉が有るからだろう。日野町が1万円と聞いている。
 このままでは高齢者が増える中、厚生年金を貰っている者は何とか支払えるが
国民年金で7、8万貰っている者は 支払えなくなることは間違いないし
 現に 今の役員連中に聞くと 支払えない者が続出しているという。
 太鼓なんて担ぎ手も居ないし、乗子も居ない。 無用の長物と思われるし
保存したいと思うなら 隣村と相談し 2村で1台にするなど工夫できると思うの
だが・・・
 

 元に戻り、昭和49年50年を境に 様変わりしてしまうことになる。目先の
走ったものは 大手織機会社に勧められ、力織機から革新織機(レピア・エアー
ジェット織機)に入れ替えた。投資金額は数千万円掛ったと思われる。
しかし、ドルショック、オイルショック後にベトナム戦争が昭和50年に勃発。
西脇の繊維業界で革新織機を導入した織物会社は 再び 息を吹き返す。
私も 当時 東播染工㈱の営業をしていたので この昔ながらの力織機にから
脱出せずに この波に乗れなかった織屋さんは衰退の一途を辿っていった。

 西脇での織物月産数量は後染めも含め、3000万ヤードを下回ることは
なかった。 インサイダーと呼ばれる産元商社は内外・斎藤・桑村・丸萬、高龍など
50社は有っただろう。またアウトサイダーと呼ばれる小さい産元商社を含めると
100社はくだらなかったと思う。
今では生き残った存在する産元商社は20社もないだろう。月間生産数量も
繊維業界の知り合いに聞いてみたが、200万ヤード有るか無いかと言う。

 氷河期でマンモスのような大きな動物が 変動について行けず、滅んでいった
ように西脇の大手織物会社など、野中町で言えば 三弘、宮六、大弘、富田町では
後藤職布などは衰退していった。
一方、革新織機を導入した織物会社は 大口ロットを受注し、栄えていった。

 だが、それも長く続かなかった。大手織機メーカーなどは国内での販売が頭打ち
すると判断したのか? 豊田織機や津田駒など大手メーカーは 内乱が一服した
韓国や、台湾へ この革新織機(エァジェットやレピア織機)を輸出するのだった。

 後進国は国がバックで乗り出す。当時 視察名目で 韓国、台湾と行ったが
加工場たるや 東播染工の何倍もの大きさで、かつて西脇で加工していたであろう
ギンガムやポプリンなど数万単位のロットが これら加工場でごうごうと音を立て
加工されていた。

昭和58年頃だっただろう。 当時 中国からの視察団が 織物工場や染工場
加工場と視察に来ていた。
西脇の染色・加工場では”熱烈歓迎”と玄関にのぼりを挙げて歓待していた。
 そして腹の中では ”西脇の機織り技術についてこれるだけの技術がない。
西脇の水は軟水で 大陸の水は硬水、染色加工ともについてこれない。”と
嘲笑っていたのだ。
 そんな甘いものではなかった。大手織機メーカーが 技術者を派遣し、技術も
染色・加工技術も すべて後進国へ持って行ったのだ。
正に 甘いとしか言いようがない。西脇は衰退の一途を辿ることになる。
また革新織機を入れていた織屋も、投資額をペイできず、倒産の道を辿ることに
なる。

 さて話は変わり、西脇市郷瀬町には”一本桜”とか言い、早咲きの桜が有る。
これが植えられたきっかけは? さかのぼること57年前、あの場所で同級生の
大西巧君が職場へ向かう途中 交通事故のため亡くなった。家の近くである。
ご両親が嘆き悲しみ、地蔵さんを建立、そして菩提を弔うため植樹されたのだ。
 この桜はソメイヨシノではなく、この地方では一番早く咲く桜である。
巧君は小学校の頃から一緒で よく知っているが、背は高く、寡黙な子供で
有った。 お父さんは大工さんをしていて、その頃、景気が好かったのか?
日野小学校へは 遊具など多く贈呈されていた。






 

日本列島、何処へ行っても猛暑。

2018-07-24 09:10:50 | 日記
 さて、今週日曜日、妻が農協の日帰りツアーを申し込んでいたので 仕方なく
朝6時に起床、朝食を取り、7時半に家を出て 野村町のJAに車を停め、歩いて
西脇市駅へ すでに3台のバスが停まっており 受付で3号車との案内と、本日の
旅費等を支払い バスに乗車 すぐにバスは出発、行きは近畿・舞鶴線に乗るのに
氷上ICから乗り湖北方面へと向かいました。
 舞鶴ICでトイレ休憩、そして小浜で降りて 箸工場見学、ついで敦賀まで走り
昼食を摂るため 海産物売り場へ寄ります。 外の気温は37度は有り、その暑い
事と言ったら・・・
 海鮮丼を注文、ビールは便所が近くなると思い、冷酒をコップに2杯飲みました。
食後は土産物売り場を歩きましたが、冷房が効いているとは言え 暑い。
適当に この辺の名物 鯖焼きに鯖寿司を買い、バスに乗りましたが、次に昆布館、
そして今日のメインである 湖北の箱館山ユリ園に向かいます。

 ゴンドラに乗り、山の頂上へ、ゴンドラ内は涼しいと思いきや、暑い。団扇が
置かれていたのでバタバタ扇ぎながら山頂へ。
ところがメインのユリは暑さのせいか? 少し見ごろが過ぎたのか?余り綺麗でない。

元気のない百合。

 琵琶湖が見える山頂へ徒歩で上がり 木陰のベンチに座り込み (-。-)y-゜゜゜。

バスの出発時間にまだ早いと思いながら下りていくと猿回しが丁度始まりました。
何でも 昨日まで北海道へ巡業していたとか? 本拠地は神戸なので、自宅も
近いと猿回しの女性が言ってました。

お猿さんの芸。


 余りの暑さに猿さんもげんなり

 さて猿芝居は10分程度と聞いていたが バスの出発時間が 残り時間わずか
10分。慌てて下山したのが2時38分、周囲の人の白い目線で見られる事なく
何とかバスに乗り込めました。

 2時40分に出発、湖西線を走り 大津・京都方面へとバスは向かいますが
大津に近くなるにつれ 車が渋滞。 私たち夫婦は 遅い申し込みだったのと
席の指定をしていなかったので11列目でしたが、最後部座席が空いていたので
添乗員に”後部座席座ってよいか?”と尋ねると ”結構ですよ”と了解を得て
ゆったりと座れました。が、エンジンルームの上に有るのか? 頭から涼風が
あたるが、足元が暑い。
 このまま 真っすぐ帰路につけば好いものを、また「井筒屋八つ橋店」へ寄ると
いう。 まぁ このように土産物店に寄ることで、バックマージンが入り、お互い
”ウインウイン”の関係であることは 先刻承知の上なのですが・・・

 6時に土産物屋を出て 名神に乗り 天王山トンネルを抜けて しばらくして
茨木の手前くらいで 新名神に入りました。 この道を乗るのは初めて、車は空いて
おり、1時間程度で西脇市駅に到着。 でも不思議でした。3号車には知った顔ぶれが
居なかったこと。 きっと日野地区の人たちもいたはずなのですが、1号車2号車に
乗っていたのでしょう。

 帰宅すると宅配便が有ったようで 運転手に電話を入れると「今から届けます」。と
時間も遅いのに届けてくれました。
送り主は 妻の妹から・・・ 早速 お礼の電話を入れようと妻は電話をしたのですが
自宅も携帯も繋がらない。 伝票をよく見ると”北海道より”としてある。
きっと電話が繋がらないのは ツアー客と一緒で 迷惑をかけないよう電話を切って
いると判断。
発砲スチロールの中身は海産物で ウニやイカの塩辛、カニなどが入っていました。
こちらは土産を買ってきていないので恐縮。

 さて このように北海道を除き どこへ行っても日本列島は猛暑のようです。
この日は埼玉県熊谷市で41度をマークしたとか?
この異常気象は北アフリカ、アメリカ カリフォルニア州では51度を記録した
と言い、北欧でも30度超えと聞きますから、この先どうなるのか?深刻です。






思いつくままに 追憶その8

2018-07-15 16:03:04 | 日記
 豪雨明けから 厳しい 殺人的な 暑さが続きます。被災地では さぞかし
暑いうえに 水も不足し 大変だろうと思います。私が50歳前後なら ボラン
ティア活動に行くかも知れませんが・・・

 さて学校での仕事は相変わらず この暑さの中、外での作業、金曜日は金属
引き取りの日、北校舎の裏口に 空き缶やスプレー缶、クレンザー(磨き粉)缶
コーヒー缶、ホースリールなどが残置されている。

 スプレー缶など 可燃部分がついているので外さなければ持ち帰らないだろう
と思い、プラスチック部分を取り除き、ガスも抜かなくては・・・と思い、金槌の
尖った部分で穴あけ、ブシューとガスが抜けるが まだ使用できるのでは?と
思うものも有ったが、すべて廃棄に、またクレンザーを入れている容器の上下は
金属なので これも切り外し、空き缶も嵩が高いので 踏んで小さくコンパクトに
 そういえば、先日 コーヒー缶をヘシャがらせていると、煙草の吸殻が出てくる。
生徒でない、普段なので父兄でもないだろう。マナーの悪い奴がいる。
 その後は 酷暑の中、西側水路に張り巡らされているフェンスに絡みついたツル系の
雑草を取り除く。 昨年 このツル系の中に 大きくなるとトゲトゲの鋭い奴を
見つけたので 今後も小さなうちに取り除かなければと思う次第。

金属廃棄物

 さて、昭和30年に 昭和18年4月2日生れ~昭和19年4月1日生れは
小学校を卒業した。 この年、人数はかなり多く、2クラスで100名近く居たと
思う。
18年、19年は国民皆兵で、兵隊にとられることにより、子供が多かったと
推察する。 その後、復員して帰ってきて 平和になったことにより、子供は
増えていった。 昭和22年~24年にかけての団塊の世代と言われる時代だ。

 私たちは西脇中学校に入学した。 西脇中学校は家から5kmほどあるので
自転車通学となる。
父は新品は買えないので、当時 心安くしていた南朝日町の 山下商会と言う
今でも存在するが自転車店で中古自転車を買ってきた。

 その自転車はリムもフォークもカバーも錆びついていた。 だが、私は古いのは
承知の上だし、それはそれでよかったのだが、しかし、父はリムに銀色のペンキ、
カバーに黒いペンキを塗り、まるで鋳物のようだった。

 父は 好かろうと思い、塗ったのだろう。 親心が分かるので文句も言えない。
その自転車で学校へ通った。
案の定、前島に石井巌と言う、大柄の同級生が居て、部活などなく早く帰る時
あの長手の堤防の林に隠れていて 待ち伏せするのである。
当時、小坂町のあの長い堤防に家はなく、あるのは竹藪だけだった。
日に日に 石井の乱暴な行為はエスカレートしていった。 

 そんなある日だった。 郷瀬町の旧の春日橋を渡っていたところで石井は
待ち伏せしていた。無視するのだが、執拗に寄ってきて”鋳物・鋳物”と言って
蹴りを入れてくる。何時もながら”困った 体力的に劣るし”と 過ぎ去るのを
辛抱しているのだったが、その場所を通り掛かる自転車が有り、その自転車に乗った
若い男性が、”巌”と言い、胸倉を掴んで 顔をボコボコに殴るのだった。
確か”お前みたいな 奴が居るから 村が差別されるのだ”と言っていた。
巌は”兄ちゃん 堪忍”と必死に叫んでいた。 
後から聞いてのだが、その兄と言うのは 姫路かの塩野義製薬所に就てめていて
たまたま休みが取れて帰ってきていたという。
 それ以後、巌の暴力はなくなった。

 さて1年生の担任は来住先生であった。髭面の人だった。国語を教えて貰ったと
思う。中学校になれば担任の先生は居ても、専門教科を教えるから幾人もの先生に
教えてもらうことになる。 長谷川先生と言い、農業の先生だったか?渾名は
山賊と言われていた。
 面白い先生だった。当時、西中では豚を飼っており、残飯を貰いに生徒数人2輪車を
引いて 当番で貰いに行っていた。
 思い出に残っているのは 隣の席に徳岡リエコと言う女の子が居た。色白で大人しい
上品な女性だった。 英語がよくできるようで、私が英語を読まされていて 詰まった
時は 小声で教えてくれた。
彼女は 西脇の蓬莱橋西詰に当時 厚生堂とかいう化粧品店が有ったが、そこの
一人娘だった。
その他にも クラスにはよくできる男が居た。 竹内染料店の息子の竹内泰彦氏だ。

 彼は 高校を卒業後 早稲田大学に入学した。 彼も英語が堪能だったようだ。
私たちは ヨレヨレの木綿の学生服を着ているが、彼はポリエステルなどの黒い色の
鮮やかな制服を着ていた。

 2年生になった。担任は 中町鍛冶屋から来ている丸岡先生で有った。物静から
大人しい先生だった。 当時 私は5級スーパーヘテロダインと言う SP真空管を
使った ラジヲを組み立てていた。 月々の少ない小遣いの中から、秋葉原の電気店に
シャシーとか、ベークライトのソケット、真空管、トランス、バリコン、コンデンサー
抵抗など部品を 少しづつ買い集め、半田コテで配線し 組み立てていた。
もう少し、と思い、朝まで寝ずに組み立てていた。 ダイナミックスピーカーなど
高く手が出ないので、マグネットスピーカーだったが、スイッチを入れ、真空管を
温め始める独特のブーンと鳴る ハムと言うのだが、それが聞こえ、バリコンで周波数を
合わせると 確か美空ひばりだったかの歌がスピーカーから流れた時は感動的だった。

 さて その頃、同級生の中に 当時 和田町で開業していた田野眼科が有り、そこの
御曹司で田野(下の名前は忘れた)君が居た。 彼は 秀才だった。 しかし変人と
言うか?休み時間になれば図書室へ行く。 誰ともあまり喋らない。
だが、彼は その後、灘高からか? 東大に入学した。
私の同級生で 知る限りでは 二人 東大に入学している。一人は郷瀬町の阿江(日野
地区ではアイエと言う)勉と言う男だった。 小学校時代は”トンちゃんトンちゃん”と
呼んでいた。 父親は土建業をしていて、阿江善太郎だったか”善さん、善さん”と
呼ばれていた。

 さて、3年生は 山南町井原の広瀬先生だった。数学と理科を教えて居られたと思う。
口数の少ない 温厚な先生だった。
同級生には 松尾凡平と言う 当時 東本町に有った、松尾内科医院の息子さんだった。
彼とは馬が合い、家にも よく遊びに行った。 ある日、レントゲン室に入って遊んで
いて 先生である お母さんに叱られた事が有る。 でも優しい綺麗な先生で、おやつに
パイナップルの缶詰を頂いた事がある。 当時 私の貧乏な家庭では手に入らないもの
だった。
後年、松尾君のお母さんは 八坂町にある、老人ホーム”みぎわ園”だったかの理事町だ
たっかで就任されていた。

 松尾君とは修学旅行へ行くときもバスも隣に座り、当時 確か神姫バスで明石港へ行き、
客船で高松港に行っていたと思う。 客船と言っても 戦後の事、貨物船に少し手を加え
たような代物だった。
 女子は甲板より上の部屋、男子は機関室の横だった。 船の丸窓に波が見える。
機関室は隣にあり、”ロンロンロン”とエンジンの音がする。 当時 乗り物に弱かった
私は”こりゃ てっきり船酔いする”と思ったが、松尾君が私に 睡眠導入剤をくれた。
おかげで高松港へ着くまで ぐっすり眠れた。

 朝つくと 琴平バスと言う観光バスが待っていた。当時の四国道は舗装などしていない。
道路幅も狭い。ガイドさんが”惚れて、惚れて”と春日八郎の歌だったか、三橋美智也か
分からないが、”掘れて、掘れて”と替え歌をうたっていた。

数年後、四国は大平首相を輩出し、みるみる四国の道路事情は好くなっていった。
そして凸凹道を揺られ、屋島へ行き、讃岐の金毘羅山へ行き、松山の道後温泉 とらや旅館に
泊まった。

 あくる日に金毘羅山へ行ったのかもしれない。 旅の終わりは栗林公園だった。

松尾凡平君は この修学旅行後、母親の仕事を継ぐため、神戸医大に入学するため、進学校へ
変わることになった。

当時、西中は荒れており、不良が多かった。 同級生には 何度も警察の世話になったという
男もいた。身体に無数の喧嘩傷があり、大柄で 先生も見て見ぬふりだった。
ある日、私に”ジャックナイフを貸してやろう”と言うのだ。まぁ断って気を悪くさせても
と、思い、数日預かったが、返しておいた。

 進学シーズンになった。私は 家が貧乏であることで、進学を断念。昼間働き定時制に
行こうと心に決めていたし、父母も 私が働きに出ることを願っていた。
しかし、広瀬先生は「増田君、昼間行くように、せめて工業化学科へ行くように、何なら
私が親御さんにお願いしてみる」。と言われ、家に来ていただいた事が有る。
両親も 先生に説得され その気になったようだが、私は先生の期待を裏切り、”定時制に
行く”と言った。

 そして定時制に行く傍ら、小坂町の篠原縫工所㈱へ勤めることになる。昭和33年だった。
この会社は社長が篠原重雄氏と言い、何時も頭に日本手ぬぐいを被り、自ら現場に入り
働いて居られた。
学校へ行くことも 了承し、5時になれば”亨さん。仕事を終えよ”と言ってくださるのだった。
会社の社員の人数は80人位だったか? 殆どが寮住まいだった。
 社長の奥さんが、加美町箸荷の出身ということもあり、加美町から女工さんが多く来ていた。
その他、四国、九州も多かった。
 私など、中学校を出て 異性などに余り関心もない頃だったので相手のお姉さんも 優しく
してくれた。

 当時、小坂町は「愛と死をみつめて」と言う本が売れ、主人公の大島道子さんが小坂町で
あることから映画化されたときは、吉永小百合さんや 浜田光男さんが来ていた。
その後も、色々な俳優が墓参りに来られていた。

 この頃、篠原縫工所㈱は隆盛を極めており、バスを2台連ねて 豪勢な慰安旅行をして
いた。
この頃、名神高速の一部が開通し、京都から高速道を乗り、愛知県方面へ旅行したことがある。
トヨタ自動車工場など見学した。 自動車工場のあのスケールの大きさに 仰天したもので
ある。
 その頃、1万円札が出始めた。 社長が「亨さん。これでビールを1箱買ってきてくれ」と
1万円札を預かったが、手にするのは これが初めてだった。

 仕事中でも社長が「亨さん。終業ベルを鳴らしてくれ」と言われるので 何か?と思いながら
ベルを鳴らすと。女工さんたちが一斉 ミシンを止めて、こちらに注目をする。
社長が「今から 駅前の三閣へ行って 食事して映画を観に行きます」。と言うのだ。
この頃、土日に休みはない。社長の気持ち次第であった。

 そしてゾロゾロと1個大隊が駅前まで歩き、当時 駅前に三閣と言うレストランが有ったのだが
屋上のビヤガーデンでビールを飲みながら食事をするのだった。

 そのあと、西脇劇場や大劇では日活の映画を取り扱っており、小林旭などの”渡り鳥シリーズ”が
流行っていた。
 この頃、1ドルは固定レートでの360円時代。 縫製工場は輸出物を扱っており、殆どが
アメリカ向けだった。キャバナセットとか言われる物もあった。
西脇は織物工場だけでなく、縫製工場も儲かっていたのだ。後日、私たちの父母も この
篠原縫工所の下請け的な事をさせていただく。

 篠原縫工所は、従業員だけではなく、下請け会社にも秋になれば松茸狩りに三田へ行ったり
近くでは加美町豊部と言うところへ行ってた。テントを張り、すき焼きなどをして豪勢だった。







 

思いつくままに 追憶その7

2018-07-13 08:35:45 | 日記
 連日 西日本の豪雨被害のニュースをやっている。さながら7年ほど前だったか?
東日本大震災による大津波を思い出させます。
また被害後の後の酷暑、私も毎日歩いていたが、医師が「増田さん。夏場は歩くのを
止めたほうが良い。そして尿酸値が高いので、水分補給をしっかりして、尿を出す
ように」。との忠告を受けた。
そういえば私の母方の血筋は 祖父と言い、脳梗塞かで倒れ、当時 チュウブと呼んで
いたが、それと母方の従弟は数年前クモ膜下出血で亡くなった。
母は90歳で亡くなったが、自力で長生きしたのではない。80歳の頃に認知症が出始め
85歳で”イロウ手術”を受け、それ以後、老人施設”楽寿園”でお世話になった。

 私は十年数年前、高室池スポーツジムへ通っていたが、ある夏の日、ジムで汗を流し、
そしてプールへ入って数時間泳いで 昼過ぎ出たが、疲れて桜の木の木陰で車を停めて
いたので疲れていたことで少し昼寝をした。 かなり眠っていたと思う。自宅に向けて
帰途についたが、西脇トンネルの手前で 電話が掛かってきた。フリーハンドで電波を
受けるので車を停めることなく会話を交わしたが、相手は賃貸をお世話していた顧客で
 内容が難しいので「帰ってから電話を入れます」。と言って電話を切った。
時間は何時だったか? それから帰宅すると 夜の10時である。何処へ立ち寄ったのか?
彷徨ったのか?未だ分からない。

後から この時のお客さんに話をすると、やはり私の受け答えは尋常でなかったと聞く。

妻は この話を聞いて 病院へ行くよう言うので、市民病院の脳外科医に診てもらった。
当時の医師は大洞氏、それに木村氏で どちらも脳の権威のある医師だった。
当時はカテーテルを股の付け根に入れ、脳の血管に先が届くと、映像を鮮明化するのに
造影剤を入れて撮影していた。
 結果として”年相応の動脈瘤はあるが心配するほどでない”と言う事だった。
”一晩 安静に”と言うことで 一夜病院に泊まった。急性肝炎以来 入院は数十年
振りだった。
一夜明け、妻が迎えに来て退院した。 帰り 市役所前の喫茶”根来”でコーヒーを飲んで
いると、知り合いが「まっさん。病院入院してたのと違うの?」と言う。
吃驚した。昨日一晩だけなのに もう噂で流れている。 後から調べると、カテーテルを
入れるその日、病室に名前が上がっていたのを 見舞いにきた 市内の同業者が目敏く
見つけ、さっそくふれて回ったらしい。大笑いである。
 
 さて当時野中町徳部野と言われていたところに引っ越ししてきた時は、この徳部野
に家は10戸程度しかなかった。
家の前の道路は 現在8m幅の道路が付き、427号線と国道となっているが、
道幅は3m程度しかなく、時々 木炭バスが通るか、荷車を引く馬車が通るか
秋の鍛冶屋の金毘羅山が近づくと 木下サーカスなどの道具や 動物を運ぶための
トラックが通るくらいであった。

当時 私の家の前には3m程の庭があり、吊るし柿の大きな木が有った。秋には
実がたわわに実っていた。
それが道路の拡張に伴って、道路の取られてしまった。 買収の金は貰っていない。
父は この土地の一部が 根抵当に入っているのを知らなかったらしい。
私が家を建てる時、この根抵当が元で公庫や銀行から借り入れが出来なかった要因だった。

 幼稚園小学校へは上級生に引率され通っていた。当時の私は 大阪生まれの大阪育ちの
母の影響で、大阪弁が抜けなかった。 例えば この地方では 今でこそ美味なことを
美味しいと言うが、うまいと言うのが普通だった。
また人が来ると言うのを ”気はった”と大阪弁では言うのだが、それも揶揄われる
原因だった。 まぁ子供と言うのは同化が早く、数年後には 播州弁に慣れてきたが、

 近所には宮崎正巳君と言う 同級生の幼馴染が居る。家は2町も田畑を持っている
百姓家で有った。 それ以外にも煙草の葉を栽培したり、乳牛を3~4頭飼っていた。
家の離れには煙草の葉を乾燥させるための土蔵もあった。
彼には祖父や祖母も居たが、祖父は見るからに怖いひとだった。それとは正反対に
祖母は温和な人だったことを覚えている。

 彼とは よく遊んだ。小学校3年生くらいだったか?父はある日 空気銃を買い
与えてくれた。当時は銃刀法などなかったのだろう。
 それを見て宮崎君も 空気銃を買い与えてもらった。口径は3.3mmで、銃身を
折り曲げると空気が圧縮され 込めた鉛玉を飛ばす仕組みだった。
 その頃、前面の道は狭く、車など たまに通るくらいだった。 私と宮崎君は
銃を持って スズメなどを打ち落としていた。 ある日私は自慢げに腰に数羽のスズメを
下げた道を歩いていると、ジープが横わきに止まった。警察官だった。車から降りる
なり「僕 銃でそのスズメ獲ったのか?上手やなぁ~」と褒めてくれたが、褒めるのが
当然目的で亡かった。「危ないので 周囲に気を付けて撃つように」との注意だった。
 誠に 穏やかな時代である。

 ある日、宮崎君宅が所有する竹藪に1本 大きなケヤキが有った、その頂上で
モズがキィーキィと甲高い鳴き声を上げているのだ。 それを見て、二人でモズを
狙って銃を発射した。 プシュと空気銃独特の発射音をさせて玉が飛ぶ、モズに
当たったと思うのだが、羽が少し飛び散るくらいで落ちてこない。
何度も発射しているうち、小枝事落ちてきた。 何とモズは死んでいたが、死んでも
枝に食らいついていたのだ。 弁慶の立ち往生と言う言葉があるが、子供心に凄い
根性をしている。と思ったものだった。

 小学校から帰ると 予習復習などすることなく、帰ればすぐに母とコクバ籠と言う
竹で編んだ大きな籠を持って裏山伝いに町が所有する山へコクバ(松の葉の枯れたもの)
搔きに行くのだった。かき集めるのはガンジキと言われる竹で作った熊手の親方みたい
なものをだった。当時、村には入会権と言うのが有って、裏山は大木町の山なので
芝刈りをすれば叱られる。 だから入会権のある野中町所有の山へ行くのだが、ここも
制限があって、村入りしたものの、日が浅いということで、薪など採ることは許され
なかった。だからコクバ搔きしかできなかったのだ。
古くからの地元の者は 2つの車輪を付けた荷車を持って、山へ芝刈りとか古木降ろし
と言って 竹の先にかまを結わいつけたもので松の木の枯れ枝を落としたりしたのを
束にして持ち帰っていたが・・・
ちなみに 敗戦を迎えるまで、川崎重工業とかが作ったといわれるモルタルを張った
少し狭い運動場的な物が随所にあった。そこには骨が転がっていて不気味だったが、
聞くところによると、犬の骨で、大人たち曰く”日本人は犬など食しないので、徴用
された朝鮮人が食したのではないか?”と言っていたが 定かではない。

 毎日のように母とコクバ搔きに行ったが、秋になれば”芝ハリ”と言うヌメッとした
茸が生えてたり、白茸、笹茸と言う 美味しい茸が生えていたので持ち帰った。
学校から帰れば コクバ搔き、そして自転車の乗れない母は買い物を私に行かせていた。
”亀さん”と言う市原の八百屋へ行き、紙に書いてもらった品物を買うのである。
買って帰ると、今度は風呂の水入れ、 当時風呂は五右衛門ぶろだった。
家の中には井戸が有った。井戸にツルベイと呼んでいたが、竹の先に小さなバケツを
付けた物で、バケツに移し 何回となく五右衛門ぶろに運ぶ。
そして風呂を炊くのも私の役目だった。 当時 母は第3子を身ごもっており、父は
肖像画描きに没頭していた。
風呂を沸かすのに コクバを燃やすのだが、火種に小さな新聞紙を丸めマッチで火を
付け、コクバに移すのだが、着火するまでが難しい。着火してからも火吹竹と言う
孟宗竹の節の部分に錐で穴をあけた、外見は尺八のようなもので、息を吹き込み
火の勢いを誘うのだが、目に煙が沁みて 目を開けておられない。
 このような日常であったが、
その頃から、私の三歳年下の妹が 分担を受け持ってくれるようになった。
妹も 買い物にやらされたり 大変苦労をしたことだろう。

 学校から帰ると このような家の仕事を手伝わされることが多かったが、下の
妹や弟の子守をさせられるとき、ネンネコ(背負子)におぶった妹や弟を木に結わい
つけて遊んでいた時もある。

 宮崎君とは よく遊んだ。野山を駆け巡った。秋になれば松茸狩り、夏になれば
漬け針(ハエナワ)をしたり、野池のカイドリと言って、池の上流の小さな溜まりの
上流をせき止めて バケツで水を汲みだし、水が無くなったところで泥の中や
エラタと呼んでいたが、脇の穴らしいところに手を入れて隠れている魚を捕るの
だった。 捕った獲物は二人で分配し、バケツに沢山のウナギや鮒などを家に持って
帰るのだが、母は生臭いものが苦手で、臭いのと泥だらけになった私は よく叱られた。
父は優しい人で、”せっかく亨二が捕ってきた魚、食べてみよう”と食したようだが
海の魚は食べなれているものの、父も口に合わなかったらしい。

 ちなみに父は漁場の生まれで海の魚は食べなれているが川魚は苦手だった。
母は、好き嫌いの多い人だった。刺身は嫌い、肉は牛肉以外食べない。生魚は苦手
もっぱら食するのは 魚でも乾物ものであった。
私も幼い頃、母に似て好き嫌いが多かった。鶏のカシワは皮膚にブツブツ(毛穴)が
あるのでダメ、豚肉もダメ、食べるのは もっぱら牛肉の切込みと言われる部位だ
けだった。 牛肉は高くて何時でも口に入らない。年に祭りと正月に この安物の
牛肉が口に入った。
また当時、父の姉 私にとっては伯母の家が精肉店を営むようになり、伯母は弟の父を
不憫に思っていたのか? 陰に日向に隠れて牛肉を父が貰っていたのを思い出す。

 道草を食うとは 現代人には意味は漠然として通じないだろう。
我々の時代は頷ける。 食べるものがなく、道端に生えている 噛めばショッパイ
草を食べていた。 野山や河原に生えているダンジ(イタドリ)も貴重で、これの
皮を剥いて塩を付けて食するのだ。 秋になれば山に山ナスビと言う、黒い実を
付ける木があるのだが、この実も食したし、スイスイと言う木が有って、平べったい
葉っぱを取り、塩漬けにして食べるのだ。
春になればドウサンタイ(童産隊だろうか?)と呼んでいる 曽我井の西村はずれに
野池があるのだが、戦時中 町の子供が学童疎開で着ていたらしい。
当時は建物が朽ち果ててはいたが残っていた。
 その周りには自生する野イチゴが沢山実を付けていた。 それを竹で編んだ小さな
籠に一杯採るのだ。 そして口一杯頬張るのが 唯一の至福のひと時だった。

 当時、おやつと言えば ハッタイ粉と言われる 大麦か何かを炒って粉にした
もので、それをお湯で溶き、食するのだが、砂糖を入れれば美味しいのだが、砂糖は
貴重品、何も入れずに食するのだから不味かった。
片栗粉など 風邪を引いて食欲のないときに食することが出来るくらいで、滅多に
口に入らなかった。

 そんな何もない時代でも、私の子供のころは自然を相手によく遊んだ。
パッチンと言う遊びもしたし、ラムネ玉を使った遊びもよくした。
そして私の並びの下手には 当時 土山から妻子を置いて出てきたという通称
”高見のオッサン”と言う 歳は当時 40歳くらいだったか。
小さな家を建て、按摩などをして暮らしていた人が居た。按摩と言ってもメクラさん
ではない。
この人は 何でもよく知っていた。 ゲナンと言う、インドに自生する木の根っこを
乾かした根で、水に浸けて膨潤させて叩くと白い汁が出る。 この汁は元来、野菜の
消毒を目的として輸入されたようだ。
当時から規制が有り、成人で印鑑を持っていかなければ買うことが出来なかった。
彼はどこから手に入れたか?正当に手に入れたかは定かでない。
 何も知らず、池の出水口の下手に付いていくと、持ってきたバケツに入れていた
ゲナンと言う木の根を叩くのだった。私も手伝わされる。平たい石の上に根を置き、
それを丸い石でコンコン叩く、白い汁がでる それをバケツに入れて、根も一緒に
絞るのだ。 それを川に流すのだった。

 ものの30分するかしないかで、白ハエ(学名オイカワ)やモトと呼ばれる鱗の
少ない魚は苦しいのかアップアップして浮いてくる。それを持っているタモで
掬うのだ。 もうしばらくすると、ウナギやナマズ、ギンタと言った魚も浮いてくる。
バケツに2~3杯は獲れただろう。 私は家に持って帰ると叱られるので持ち帰りは
しなかったが、獲るのが面白いので手伝った。

 また彼は 他にも色々な事を教えてくれた。 ある時、5月頃だったか?
「亨ちゃん 松茸取りに行こう」。と誘うのだ。 ”えっ こんな時期に”と思ったが
目指すは裏山、付いて行った。 山の中腹で彼は「有った。亨ちゃん この周りを
探して」と彼が言うので 周りを探すと ”有った”傘を広げた 紛れもない松茸を
2本探し当てた。

 またある時は 小鳥獲りに連れて行ってもらった。 囮籠にメジロを持って、
山に入り、枝に小鳥籠を掛け、そして小枝に”トリモチ”と言われる 粘っこい
年度のような物を巻き付けるのだった。
メジロは綺麗な声で鳴き出す。 それを聞いて野鳥がやってくるのだ。
当然ながら 私も 一時 小鳥獲りに夢中になった。 現代のように和鳥を獲ることが
規制されていない頃だった。

 小学校の頃は 身体は弱かったが、そこは子供、体調が良ければ 山野を駆け巡って
いた。 勉強の遅れは 当時の宮下先生が放課後教えてくださった。
主に算数の九九などだったように思う。 国語などは本を読むのが好きだったせいか?
付いていくのに問題なかったように思う。