喜寿をむかえた男の遊々生活!

喜寿を迎えた老人の日々を日記に・・・

思いつくままに 追憶その7

2018-07-13 08:35:45 | 日記
 連日 西日本の豪雨被害のニュースをやっている。さながら7年ほど前だったか?
東日本大震災による大津波を思い出させます。
また被害後の後の酷暑、私も毎日歩いていたが、医師が「増田さん。夏場は歩くのを
止めたほうが良い。そして尿酸値が高いので、水分補給をしっかりして、尿を出す
ように」。との忠告を受けた。
そういえば私の母方の血筋は 祖父と言い、脳梗塞かで倒れ、当時 チュウブと呼んで
いたが、それと母方の従弟は数年前クモ膜下出血で亡くなった。
母は90歳で亡くなったが、自力で長生きしたのではない。80歳の頃に認知症が出始め
85歳で”イロウ手術”を受け、それ以後、老人施設”楽寿園”でお世話になった。

 私は十年数年前、高室池スポーツジムへ通っていたが、ある夏の日、ジムで汗を流し、
そしてプールへ入って数時間泳いで 昼過ぎ出たが、疲れて桜の木の木陰で車を停めて
いたので疲れていたことで少し昼寝をした。 かなり眠っていたと思う。自宅に向けて
帰途についたが、西脇トンネルの手前で 電話が掛かってきた。フリーハンドで電波を
受けるので車を停めることなく会話を交わしたが、相手は賃貸をお世話していた顧客で
 内容が難しいので「帰ってから電話を入れます」。と言って電話を切った。
時間は何時だったか? それから帰宅すると 夜の10時である。何処へ立ち寄ったのか?
彷徨ったのか?未だ分からない。

後から この時のお客さんに話をすると、やはり私の受け答えは尋常でなかったと聞く。

妻は この話を聞いて 病院へ行くよう言うので、市民病院の脳外科医に診てもらった。
当時の医師は大洞氏、それに木村氏で どちらも脳の権威のある医師だった。
当時はカテーテルを股の付け根に入れ、脳の血管に先が届くと、映像を鮮明化するのに
造影剤を入れて撮影していた。
 結果として”年相応の動脈瘤はあるが心配するほどでない”と言う事だった。
”一晩 安静に”と言うことで 一夜病院に泊まった。急性肝炎以来 入院は数十年
振りだった。
一夜明け、妻が迎えに来て退院した。 帰り 市役所前の喫茶”根来”でコーヒーを飲んで
いると、知り合いが「まっさん。病院入院してたのと違うの?」と言う。
吃驚した。昨日一晩だけなのに もう噂で流れている。 後から調べると、カテーテルを
入れるその日、病室に名前が上がっていたのを 見舞いにきた 市内の同業者が目敏く
見つけ、さっそくふれて回ったらしい。大笑いである。
 
 さて当時野中町徳部野と言われていたところに引っ越ししてきた時は、この徳部野
に家は10戸程度しかなかった。
家の前の道路は 現在8m幅の道路が付き、427号線と国道となっているが、
道幅は3m程度しかなく、時々 木炭バスが通るか、荷車を引く馬車が通るか
秋の鍛冶屋の金毘羅山が近づくと 木下サーカスなどの道具や 動物を運ぶための
トラックが通るくらいであった。

当時 私の家の前には3m程の庭があり、吊るし柿の大きな木が有った。秋には
実がたわわに実っていた。
それが道路の拡張に伴って、道路の取られてしまった。 買収の金は貰っていない。
父は この土地の一部が 根抵当に入っているのを知らなかったらしい。
私が家を建てる時、この根抵当が元で公庫や銀行から借り入れが出来なかった要因だった。

 幼稚園小学校へは上級生に引率され通っていた。当時の私は 大阪生まれの大阪育ちの
母の影響で、大阪弁が抜けなかった。 例えば この地方では 今でこそ美味なことを
美味しいと言うが、うまいと言うのが普通だった。
また人が来ると言うのを ”気はった”と大阪弁では言うのだが、それも揶揄われる
原因だった。 まぁ子供と言うのは同化が早く、数年後には 播州弁に慣れてきたが、

 近所には宮崎正巳君と言う 同級生の幼馴染が居る。家は2町も田畑を持っている
百姓家で有った。 それ以外にも煙草の葉を栽培したり、乳牛を3~4頭飼っていた。
家の離れには煙草の葉を乾燥させるための土蔵もあった。
彼には祖父や祖母も居たが、祖父は見るからに怖いひとだった。それとは正反対に
祖母は温和な人だったことを覚えている。

 彼とは よく遊んだ。小学校3年生くらいだったか?父はある日 空気銃を買い
与えてくれた。当時は銃刀法などなかったのだろう。
 それを見て宮崎君も 空気銃を買い与えてもらった。口径は3.3mmで、銃身を
折り曲げると空気が圧縮され 込めた鉛玉を飛ばす仕組みだった。
 その頃、前面の道は狭く、車など たまに通るくらいだった。 私と宮崎君は
銃を持って スズメなどを打ち落としていた。 ある日私は自慢げに腰に数羽のスズメを
下げた道を歩いていると、ジープが横わきに止まった。警察官だった。車から降りる
なり「僕 銃でそのスズメ獲ったのか?上手やなぁ~」と褒めてくれたが、褒めるのが
当然目的で亡かった。「危ないので 周囲に気を付けて撃つように」との注意だった。
 誠に 穏やかな時代である。

 ある日、宮崎君宅が所有する竹藪に1本 大きなケヤキが有った、その頂上で
モズがキィーキィと甲高い鳴き声を上げているのだ。 それを見て、二人でモズを
狙って銃を発射した。 プシュと空気銃独特の発射音をさせて玉が飛ぶ、モズに
当たったと思うのだが、羽が少し飛び散るくらいで落ちてこない。
何度も発射しているうち、小枝事落ちてきた。 何とモズは死んでいたが、死んでも
枝に食らいついていたのだ。 弁慶の立ち往生と言う言葉があるが、子供心に凄い
根性をしている。と思ったものだった。

 小学校から帰ると 予習復習などすることなく、帰ればすぐに母とコクバ籠と言う
竹で編んだ大きな籠を持って裏山伝いに町が所有する山へコクバ(松の葉の枯れたもの)
搔きに行くのだった。かき集めるのはガンジキと言われる竹で作った熊手の親方みたい
なものをだった。当時、村には入会権と言うのが有って、裏山は大木町の山なので
芝刈りをすれば叱られる。 だから入会権のある野中町所有の山へ行くのだが、ここも
制限があって、村入りしたものの、日が浅いということで、薪など採ることは許され
なかった。だからコクバ搔きしかできなかったのだ。
古くからの地元の者は 2つの車輪を付けた荷車を持って、山へ芝刈りとか古木降ろし
と言って 竹の先にかまを結わいつけたもので松の木の枯れ枝を落としたりしたのを
束にして持ち帰っていたが・・・
ちなみに 敗戦を迎えるまで、川崎重工業とかが作ったといわれるモルタルを張った
少し狭い運動場的な物が随所にあった。そこには骨が転がっていて不気味だったが、
聞くところによると、犬の骨で、大人たち曰く”日本人は犬など食しないので、徴用
された朝鮮人が食したのではないか?”と言っていたが 定かではない。

 毎日のように母とコクバ搔きに行ったが、秋になれば”芝ハリ”と言うヌメッとした
茸が生えてたり、白茸、笹茸と言う 美味しい茸が生えていたので持ち帰った。
学校から帰れば コクバ搔き、そして自転車の乗れない母は買い物を私に行かせていた。
”亀さん”と言う市原の八百屋へ行き、紙に書いてもらった品物を買うのである。
買って帰ると、今度は風呂の水入れ、 当時風呂は五右衛門ぶろだった。
家の中には井戸が有った。井戸にツルベイと呼んでいたが、竹の先に小さなバケツを
付けた物で、バケツに移し 何回となく五右衛門ぶろに運ぶ。
そして風呂を炊くのも私の役目だった。 当時 母は第3子を身ごもっており、父は
肖像画描きに没頭していた。
風呂を沸かすのに コクバを燃やすのだが、火種に小さな新聞紙を丸めマッチで火を
付け、コクバに移すのだが、着火するまでが難しい。着火してからも火吹竹と言う
孟宗竹の節の部分に錐で穴をあけた、外見は尺八のようなもので、息を吹き込み
火の勢いを誘うのだが、目に煙が沁みて 目を開けておられない。
 このような日常であったが、
その頃から、私の三歳年下の妹が 分担を受け持ってくれるようになった。
妹も 買い物にやらされたり 大変苦労をしたことだろう。

 学校から帰ると このような家の仕事を手伝わされることが多かったが、下の
妹や弟の子守をさせられるとき、ネンネコ(背負子)におぶった妹や弟を木に結わい
つけて遊んでいた時もある。

 宮崎君とは よく遊んだ。野山を駆け巡った。秋になれば松茸狩り、夏になれば
漬け針(ハエナワ)をしたり、野池のカイドリと言って、池の上流の小さな溜まりの
上流をせき止めて バケツで水を汲みだし、水が無くなったところで泥の中や
エラタと呼んでいたが、脇の穴らしいところに手を入れて隠れている魚を捕るの
だった。 捕った獲物は二人で分配し、バケツに沢山のウナギや鮒などを家に持って
帰るのだが、母は生臭いものが苦手で、臭いのと泥だらけになった私は よく叱られた。
父は優しい人で、”せっかく亨二が捕ってきた魚、食べてみよう”と食したようだが
海の魚は食べなれているものの、父も口に合わなかったらしい。

 ちなみに父は漁場の生まれで海の魚は食べなれているが川魚は苦手だった。
母は、好き嫌いの多い人だった。刺身は嫌い、肉は牛肉以外食べない。生魚は苦手
もっぱら食するのは 魚でも乾物ものであった。
私も幼い頃、母に似て好き嫌いが多かった。鶏のカシワは皮膚にブツブツ(毛穴)が
あるのでダメ、豚肉もダメ、食べるのは もっぱら牛肉の切込みと言われる部位だ
けだった。 牛肉は高くて何時でも口に入らない。年に祭りと正月に この安物の
牛肉が口に入った。
また当時、父の姉 私にとっては伯母の家が精肉店を営むようになり、伯母は弟の父を
不憫に思っていたのか? 陰に日向に隠れて牛肉を父が貰っていたのを思い出す。

 道草を食うとは 現代人には意味は漠然として通じないだろう。
我々の時代は頷ける。 食べるものがなく、道端に生えている 噛めばショッパイ
草を食べていた。 野山や河原に生えているダンジ(イタドリ)も貴重で、これの
皮を剥いて塩を付けて食するのだ。 秋になれば山に山ナスビと言う、黒い実を
付ける木があるのだが、この実も食したし、スイスイと言う木が有って、平べったい
葉っぱを取り、塩漬けにして食べるのだ。
春になればドウサンタイ(童産隊だろうか?)と呼んでいる 曽我井の西村はずれに
野池があるのだが、戦時中 町の子供が学童疎開で着ていたらしい。
当時は建物が朽ち果ててはいたが残っていた。
 その周りには自生する野イチゴが沢山実を付けていた。 それを竹で編んだ小さな
籠に一杯採るのだ。 そして口一杯頬張るのが 唯一の至福のひと時だった。

 当時、おやつと言えば ハッタイ粉と言われる 大麦か何かを炒って粉にした
もので、それをお湯で溶き、食するのだが、砂糖を入れれば美味しいのだが、砂糖は
貴重品、何も入れずに食するのだから不味かった。
片栗粉など 風邪を引いて食欲のないときに食することが出来るくらいで、滅多に
口に入らなかった。

 そんな何もない時代でも、私の子供のころは自然を相手によく遊んだ。
パッチンと言う遊びもしたし、ラムネ玉を使った遊びもよくした。
そして私の並びの下手には 当時 土山から妻子を置いて出てきたという通称
”高見のオッサン”と言う 歳は当時 40歳くらいだったか。
小さな家を建て、按摩などをして暮らしていた人が居た。按摩と言ってもメクラさん
ではない。
この人は 何でもよく知っていた。 ゲナンと言う、インドに自生する木の根っこを
乾かした根で、水に浸けて膨潤させて叩くと白い汁が出る。 この汁は元来、野菜の
消毒を目的として輸入されたようだ。
当時から規制が有り、成人で印鑑を持っていかなければ買うことが出来なかった。
彼はどこから手に入れたか?正当に手に入れたかは定かでない。
 何も知らず、池の出水口の下手に付いていくと、持ってきたバケツに入れていた
ゲナンと言う木の根を叩くのだった。私も手伝わされる。平たい石の上に根を置き、
それを丸い石でコンコン叩く、白い汁がでる それをバケツに入れて、根も一緒に
絞るのだ。 それを川に流すのだった。

 ものの30分するかしないかで、白ハエ(学名オイカワ)やモトと呼ばれる鱗の
少ない魚は苦しいのかアップアップして浮いてくる。それを持っているタモで
掬うのだ。 もうしばらくすると、ウナギやナマズ、ギンタと言った魚も浮いてくる。
バケツに2~3杯は獲れただろう。 私は家に持って帰ると叱られるので持ち帰りは
しなかったが、獲るのが面白いので手伝った。

 また彼は 他にも色々な事を教えてくれた。 ある時、5月頃だったか?
「亨ちゃん 松茸取りに行こう」。と誘うのだ。 ”えっ こんな時期に”と思ったが
目指すは裏山、付いて行った。 山の中腹で彼は「有った。亨ちゃん この周りを
探して」と彼が言うので 周りを探すと ”有った”傘を広げた 紛れもない松茸を
2本探し当てた。

 またある時は 小鳥獲りに連れて行ってもらった。 囮籠にメジロを持って、
山に入り、枝に小鳥籠を掛け、そして小枝に”トリモチ”と言われる 粘っこい
年度のような物を巻き付けるのだった。
メジロは綺麗な声で鳴き出す。 それを聞いて野鳥がやってくるのだ。
当然ながら 私も 一時 小鳥獲りに夢中になった。 現代のように和鳥を獲ることが
規制されていない頃だった。

 小学校の頃は 身体は弱かったが、そこは子供、体調が良ければ 山野を駆け巡って
いた。 勉強の遅れは 当時の宮下先生が放課後教えてくださった。
主に算数の九九などだったように思う。 国語などは本を読むのが好きだったせいか?
付いていくのに問題なかったように思う。