喜寿をむかえた男の遊々生活!

喜寿を迎えた老人の日々を日記に・・・

戦争展を見てきました。

2019-08-20 09:04:40 | 日記
 18日 日曜日ですが、学校ではPTAに
よる奉仕作業が有り、私も参加しました。
作業開始は朝7時、時間になると6年生
の生徒と共に その父兄も続々来られ
PTA会長のあいさつ、校長のあいさつに
引き続き、それぞれの持ち場に分かれ
作業開始。
 私は草刈り担当、役員の方々も草刈り
を担当。 今年は私の希望で 平坦な
箇所ではなく、危険が伴う 外部フェンス
周りを依頼しました。
フェンス外側は 足場が悪いうえ、一歩
踏み外せば 下はコンクリートの水路。
75歳となり、足腰は達者と自負している
ものの、やはり年寄り、足の骨でも折り
それが元で 寝たきりになったりすると
言う事を聞いており、慎重にならざるを
得ません。

 それにしても この学校は刈る範囲が
広い。 他の学校を私は見てきてますが
こんなに木も植わってない。

 作業は順調に進み、10時の予定を
早めに終わり、集合して アイスクリ
ームを頂き、閉会の挨拶を終わり解散。
私は水路に刈った草が落ち、水路が
詰まる事になれば 村から苦情が出る
と思い、後は水路掃除に専念。
汗と水に浸かり 来ている者も濡れて
ビショビショなので早めに帰宅。

 昨日だったか?今朝の防災無線から
の知らせだったか?
寺内の道の駅で”戦争展”が行われて
いると聞いていたので、妻と共に昼前
に行きました。

寺内”道の駅”での戦争展

 意外と人は少なく、ゆっくりと展示
されている物を見ることが出来ました。
入場の際、当時の召集令状と言うものの
コピーした見本が、歌詞と一緒に手渡さ
れました。
両親からも聞いていましたが、郵送料
だったか召集令状に掛かる配達料が
一銭五厘、入隊した新兵に上官が
「貴様らは一千五厘の値打ちしかないのだ」。
と、言ったとか?

手渡された召集令状(赤紙)の見本。

 現物の展示品は当時履いていた革靴
それに水稲、進軍ラッパ、爆弾で焼けて
解けた灰皿だろうか?原型を留めていない
物、機銃かの弾丸が置かれていました。

周りは写真や絵が張り巡らされ、主に
原爆被害者の 当時の生き地獄の様や
 小学生なら5~6年生だろうか?
背負った弟は 既に死んでいて首が
ダラリとしていて、この後、弟を荼毘に
付している間も 涙も見せず、直立
不動の姿勢で 遺骨を受け取ったとの
添え書きも有りました。
 また、黒焦げになった男女の区別も
つかない子供の死体。
やりきれない思いで 涙が思わず流れ
ました。

 まぁ19歳の頃だったか?大阪の
福島工業に勤めていた頃、広島の
マツダの会社に出張する機会が有り、
夕方 会社の車を借りて 仲間と
一緒に 宇品港方面へ向かった時が
有ります。その時に 原爆ドームを
見ることが出来ました。
当時、原爆を落とされて20年足ら
ず、月夜に見えるドームは不気味
でした。

私が満一歳と4カ月の頃に原爆が
広島に投下され、死者も14万人
長崎にも投下され死者は7万人と
正確に掴めていないようですが
聞いています。
また その後も 会社の慰安旅行で
長崎の平和像を見学したり
広島へ行ったとき、原爆ドームの
近くにあった平和祈念館だったか
行った記憶が有ります。
橋に くっきりと姿が焼き付いた
人の形、頭蓋骨の一部が付いた
ヘルメット。 原爆の投下された
時間を止めたままの柱時計。
もう50年以上経った今、鮮明に
思い出すことはできませんが
戦争の悲惨さは一口で言い表す
事は出来ません。

 原爆を投下した原因が 当時の
ソ連(現ロシア)をけん制するため
が 原因と聞きますが、
戦争は軍人と軍人とが直接勝敗を
争うものと決まっていますし、
国際法上での戦争のルールと思う
のですが・・・

それが民間人をも標的にした卑劣な
戦争でした。
それ以前の関東大空襲然り、10万人
もの犠牲者の殆どが民間人。

 私の両親も大阪に居たころ大空襲に
供え 強制疎開に遭った被害者。
私もまた 終戦後は食べ物もなく
小学校の頃は ガリガリに痩せ
校医から”類似結核”と病名を
付けられましたが、栄養失調に
よるものだったのです。

 戦争は2度と行っては行けない。
それは戦争体験者の全ての人の願い。
だが、その一方、核兵器は増え続け
アメリカ、ロシア、中国、インド
パキスタン、イスラエルと核保有国は
北朝鮮や 疑いのあるイラン、また
サウジアラビアなども核を持つ可能性
を否定できない。

 戦争経験者は総じて”戦争をしては
ならない”と叫んでいます。が、
今の子供たちの中には、アメリカなどと
戦争をしたことを知らないと知らない。
などと聞きました。

 昔からの諺に”のど元過ぎれば熱さ
忘れる”との例え話が有ります。
日本はまた軍隊を持つのでは?と言う
危惧は抱いています。

 先日の新聞に昭和天皇が戦争肯定に
語られていたという事を 当時の側近
である侍従長かに語っていたようです。
昭和天皇は 国民がそう願うなら
天皇の座も捨てるとの決意をされた
ようですが、軍隊については、”世の
中に病人や怪我人が居なければ、病院は
要らないし、盗人や強盗、殺人がなければ
警察も要らないが・・・”だが、それが
出来ない以上、軍隊を、との言葉を
述べられたようです。
当時も今も 天皇が国政に介入することは
許されず、侍従長の胸の内に秘められて
いたようです。

 私も この昭和天皇の この考えには
賛成します。
日本の周りを見渡せば、油断できない国が
周りを取り囲んで居ます。
”隙あらば日本の領土を獲ろう”との
魂胆がありありと伺える国。
 終戦宣言をしたというのに 攻め込んで
くる卑劣な国 そして体制が崩壊してから
は、遠回しにしろ”返す”と言って実行
しない国。それどころか喉元に銃を付き
つけるような仕草をしています。

 また日本の援助を受け、国が栄えてきた
かの国は 何時までも反日教育を続け
それを真に受ける国民が多い国。
まぁ その中の一握りくらいは真面な
人間も居るのでしょうが? 私もまた
45年前になるでしょうか? かの国に
行きましたが、内心は金だけが目的で
愛想よく振舞っていると直接聞き、
吃驚した事が有ります。
その後、台湾にも行きましたが、かの
国同様 日本を恨んでいるのかと
思っていましたが、親日家が多いのに
は感激しました。
 
 まぁこのような国に囲まれて居る
この国ですから、商業用小型ロケット
でも大いに飛ばし、技術国日本を
大いに知らしめ、”宇宙の星でもピン
ポイントに狙える技術を持っている
のだぞ”とアピールすればよいのでは
ないか?と思う次第。

 



  

40年ぶりも久美浜へ船釣り(烏賊釣り)に行きました。

2019-08-13 11:05:14 | 日記
 先日 釣り友から電話が有り、「マッサン。
久美浜へイカ釣りに行かないか?」との誘いが
有り、二つ返事ならぬ一つ返事でOK

 9日金曜日、出発は午後2時半。学校での
勤務は この夏の暑さに 何時もは午後の出勤を
朝からでも可。との了承を得ており、朝は
早朝6時に入り、一旦8時に帰宅、朝食を摂り
再度9時に入校。そして11時過ぎまで働く
ようにしています。

 毎日35度を超える この真夏の暑さ、日中に
仕事するより作業は捗ります。

 さて そのような事なので金曜日の午後2時
半出発は願ったり叶ったり、 下戸田の釣り友
の家へ行き、荷物を積みかえ 一路 久美浜へ
向けて走ります。
氷上ICから高速に乗り、和田山方面へ向けて
走ります。
現在では日高町まで着いているので豊岡までは
2時間程度で行けるようになりました。
豊岡市内で釣り具店へ立ち寄り、その後
久美浜方面へ、 向かう途中 右手にコウノトリ
の里会館が有りますが、ここは7~8年前、宅建の
研修旅行とやらで立ち寄ったところ、
 ですが、私は30歳の頃、久美浜へは毎週の
様に通っていました。
今から45年前、 メンバーは今は亡き、藤田
菓子卸業の社長だった藤田氏、幸洋綿業の専務
だった高瀬氏、そして縫製工場を営んでおられた
田中氏でした。
当時 この方たちは 私より一回り以上年上、
 ですが可愛がっていただき、何時も高瀬さんの
クラウンで4名毎週のように久美浜へ行きました。
私が一番若かったので 何時も運転手でした。

 当時は回転橋が有り、その水路を経て久美浜
湾から沖へ出るのですが、当時 行っていた
釣り船は”吉田丸”と言う釣り船でした。

 今のように天気予報は正確でなく、現地へ行くと
沖が急に時化てきたと言って 出航できない時も
多々ありました。
そんな時、船長が「家へ来い」と言ってくれて
4名 座敷に上がらせてもらい、ご馳走になった
ものです。
当時 藤田氏は菓子の卸業者、行くたびに土産と
言っては菓子を持って行っていたので 船長も
サービスよくしてくれていました。

 そのような先輩方も この世から居なくなり
寂しい限り、久美浜湾に入っていく道中
入口にある湾は思い出しましたが、そこから
山道の九十九折りを走り、再度 湾内にでる
辺りまでは なんとなく記憶にあるのですが
町中へ入っていくと 当時とはあまりにも
変わりすぎて・・・当然回転橋は無くなって
おり、思い出せませんでした。


 6時に出航、一緒に同伴する若い衆たちは
近くは和田山から2名、和歌山から2名、
和歌山出身で単身赴任で来ている会社員1名
そして私たち西脇からが2名の計7名。
西脇の釣り友、それに和歌山から単身赴任
している方 釣り友以外は皆 若く、釣り
方法はメタルジグでの最近の釣り方なのですが、
地合いになれば 艫に居た和田山の若い
子でしたが、釣るわ釣るわ、私たちの倍
以上は釣ったでしょう。
そのうえ、イカを餌に 底釣りを余裕で
やっていたら、それに75センチの真鯛が
来てウハウハもの。

 まぁこれも時代の移り変わりで仕方が
ない。昔の釣法では釣れなくなったという
事でしょう。
12時頃に納竿。大分潮の流されていたのか?
帰港するのに40分は掛かっていたでしょう。
乗船代を支払い、車に乗り込んだのが1時
帰宅は夜中の3時。
缶ビールを飲み、妻が撮っていてくれた
明治カップの女子ゴルフを見て床に入った
のが4時半、ぐっすり眠り、起きたのが
9時。
 まぁ釣果はイカが20杯ほどだったので
妻は料理が楽と喜んでいますが・・・

 さて あくる日からは畑仕事。雨が
降らないので 水やりをしなければなら
ない。
12日の月曜日には 今現在植えている
キュウリがウリバエやカタツムリの幼虫に
食害されて葉がボロボロになりました。
でも この4本植えたキュウリ苗はどれだけ
沢山実らせてくれたものか?感謝です。

枯れながらも、まだ実を付けているキュウリ。

 時期を大きくずらし、キュウリ苗を育てて
居たのを この一週間前に定植しました。
時期が遅れているので 通常通りの実は
付けてくれるか心配ですが、ウリバエの
食害をちょっとでも逃れたいのでハエ取り
紙のような物を 周りに配備しました。

時期を遅らせ 来月にも収穫したいキュウリ苗、黄色いのは粘着紙。

 キュウリやナス、トマト、ピーマン、枝豆
ズッキーニ、メロンやマクワウリ、スイカ、
カボチャ、オクラと数多く植えていますが、
温室栽培でもないので、時期になると一度に
食べきれないほど生りだすのですが同時に
全て収穫できなくなる。
 今からはサツマイモ、サトイモと成長
していくのが楽しみですし、大根、蕪
白菜、ブロッコリー、ネギ類などの種を
蒔き、成長するのが楽しみです。

 

夏は暑くて毎日が大変。

2019-08-08 15:02:11 | 日記
 さて しばらく投稿も怠けていました。と
言うか、昼間の余りの暑さに 学校での作業も
この月に入ってから早朝の6時に入ることに
しました。

 草刈り機を持ちだし、運動場の隅々を刈るの
ですが、余りに広いので中々捗りません。
そして8時頃に一旦仕事を終え、朝食を食べに
帰り、そして9時にまた入ります。
 この頃になると 陽差しも厳しくなるので
木陰ができる場所を選び 樟の落ち葉搔き、
そして側溝の掃除を行います。
 先日など 生ごみ袋大に12袋と収集しました。

 さて、今週4日の日曜日は 早朝6時より墓掃除
そして終わると 各隣保での溝掃除や道普請と
続いて行います。
作業は9時半に終え、一旦家へ帰りシャワーを
浴びて着替え、10時半から始まるBQ大会に
参加します。
既に各班の班長さん始め 私よりも若い方が
準備をしてくれています。
私は設けてある椅子に腰を下ろし、まず缶ビール
を頂きます。
喉が渇いていたので3缶ほど立て続けに飲み
ました。

BQの様子。
 
 畑も3か所ほど作っていますが、ズッキーニ―は
もう受粉をさせていないので歪な物しかでき
ません。
 キュウリはと言うと大分 カタツムリや
ウリバエで葉が食害されていますが、毎日
5~6本は収穫、でも もう限界でしょう。
 現在 この月に入ってから苗を植えて
いますので、今月末から来月に掛けて また
キュウリが収穫できそうです。

自宅裏にはゴーヤを植え、毎日収穫して
いますし、オクラなども植えています。

綺麗な花が咲いたオクラ。


収穫したオクラ

 野中町の山裾にある畑には、茄子、枝豆、トマト
ピーマン、トウガラシ等々 仕事が終わって
の帰り際、立ち寄って収穫するのですが
水を与えていないせいか?ナスなど 少し
実が固く感じられます。
朝 早く出勤するので 水やりが出来ず、
夕方 日が落ちてから行うのですが
ややもすれば、億劫になり 怠り勝ちに
なります。

 天気予報では山間部では夕立がするとの
予報が毎日でていますが、ここ数日降って
居らず、雨が待ち遠しい 今日この頃です。