喜寿をむかえた男の遊々生活!

喜寿を迎えた老人の日々を日記に・・・

釣りの予約も不意に、思いつくままに追憶その13

2018-08-27 10:04:41 | 日記
 さて 台風19号、20号の影響で 金曜日24日タコ釣りを予約していましたが波が荒く
取りやめになりました。
20号の直撃を心配していましたが 夜中に吹く風は強かったものの豪雨の心配もなく
あくる日の土曜日 アジア大会を観ていると携帯が・・・出ると 釣友のT君、「お茶でも」
との誘いに上野の喫茶明日香へ、 T君は先日 福井の九頭竜川へ鮎釣りに行っているので
しばらく鮎釣りの話に、私も鮎釣りは18歳頃から始めましたが、当時は近場では神崎郡
(現在の神河町)の落谷へ、また少し足を延ばし、揖保川、千草川へと行っていました。
6月の終わりごろに解禁になり、この三つの川の年権を毎年買って鮎釣りをしていました。

 当時は年権も落谷が6000円、揖保川、千草が8000円と安かったのですが年々
漁業組合は上げていき、最後は1万円を超していたと思いますが、それでも60歳頃までは
鮎釣りに行っていました。だが、ナイロンの道糸0.4から0.6号使っていたのが、竿が
グラスロッドからカーボンに代わり、10m超えの竿も扱えるようになったことにより
道糸もナイロンから メタル(金属糸)に代わり、0.1とか0.2と細くなり、老眼も
加わり川でトラブルを起こすと 結ぶのさえ至難の業となり、還暦を機にやめましたが、
T君は私より5歳下。70前だというのに続けていることに感心しています。

 さて喫茶店へは 東播染工㈱に勤めている頃は 毎日お茶を飲むことが慣例でした。
特に野村の沙織、市役所前の根来、北本町の波などは毎日9時頃になれば産元商社の方と
お茶を飲みに行っていました。 繊維関係の者が毎日通っているので喫茶店は潤っていた
と思います。 その後 沙織は廃業し、根来は最近になり廃業、波も早くに廃業して
います。 昨今 年寄りが増えたので さぞかし喫茶店は流行っているかに思うのですが
フランチャイズ店と言うのか 野村の明日香や上野の明日香などは朝になれば賑わって
いますが、これはおそらくモーニング目当てではないか?と思う次第。
昔はトーストかゆで卵が定番でしたが、今日の明日香などへ行くと モーニングは様々な
ものが付いています。サラダにサンドウィッチ、ゼリー、トースト、ゆで卵、握り飯などと
よほど客数が多くないと 家族だけで行っているような昔ながらの喫茶店はついて行けない
だろうと推察。
 さて、喫茶店へ入ると 此処では昔馴染みの顔ぶれが・・・高龍商店の社長も見えてい
たので挨拶をすると「増田さん、身体のお加減は如何?」と言うので、私は「ピンピン
しています」。と答えると、「私が人づてに聞いたのだが まっさん体調を崩されていた
のでは」と怪訝そう。 笑って答えていましたが、長らく人前に顔を出さないと、病人に
されたり、挙句の果てに噂話で 亡くなったとも言われかねません。

 さて私の思いつくままにパート13ですが、大阪に居る期間は18歳から19歳と
僅か2年でしたが、福島工業の休日の際には 豊中の伯母の家に行かずに済むときには
寮仲間と大阪の心斎橋などへ遊びに行っていました。
御幣島から路線電車にのり、淀川大橋を超え野里から阪神野田駅 そして梅田へ出て
地下鉄に乗り 心斎橋筋をあるいていました。 道頓堀川の橋のたもとには今でもグリコ
の万歳をしたポーズの看板があり、絶えず音楽がなっていましたが、思い出に残って
いるのは フランスの歌手、シルヴイ・バルタンの”アイドルを探せ”と言う歌です。
今でも思い出せば頭の中で歌が聞こえてきます。 また当時、ツィーギーとかイギリスの
モデルかが脚光を浴びていた時代でした。

 いつだったか? 友達と一緒に心斎橋へ遊びに行っていて ”富士”とか言う大きな
ダンスホールが有って、好奇心からか入場料を払って入りました。
ダンスホールは初めてではなく、篠原縫工所時代に西脇に有った”扇屋”と言うダンス
ホールへ何度か行った事が有り、ブルースやワルツなど 事象 元タカラジェンヌとか
言う小母さんに基本を教わった事が有りました。
だけど この富士と言うダンスホールは西脇のそれと比べものにならない大きなホール
でした。場内は薄暗くミラーボールが天井に数個廻っていて、そしてドレスで着飾った
女性がダンスを舞っていて 別世界へ来たようでした。
友達とコーヒーを頼んで しばらく眺めていましたが、どうも田舎のようにパートナーに
なる人を探す余裕もない。 友達がトイレかで席を離れて 一人でいると 見るからに
不良ぽい女性が何人かで傍にやってきて「兄さん 遊ばない?」。と声を掛けてくる。
 女性から声を掛けられるのは初めてで、男から女性に声を掛けるものと思っていた
私は面食らい、とっさにどすればよいのか? 焦った。 
とにかく 撒かねばならない。そう思い、”お手洗いに行く”とかの口実で撒こうと
思うのだがついてくる。
 さすがに気味が悪くなり、ホール内に入り、人込みをかき分けて 何とか逃れたが
あのような思いは 私の人生の中で初めての体験であった。
 帰りはどうして帰ったか 今では覚えていないが、所持金も余り持ち合わせがなく
歩いて梅田新道まで辿り着く、裏道ではポン引きと言うのか 女性が火を焚いて
あたりながら客引きを行っていた。
 野田から とことこ歩いて 来た道野里や淀川大橋を渡り、御幣島の福島寮へついた
のが確か夜中の1時だっただろう。 門限が10時と言われていたので大幅遅刻。
門が締まっているので 飛び越えて寮に入った。
 あくる日、寮母から小言を食らったのは言うまでもない。

 あのころは昭和38年ないし39年、日本は復興し、内閣が替わるごと、日本の
景気は上向いていった。
でも西脇の自宅へ戻ってくると 相変わらずの貧乏暮らしだった。
家で遊んでいると、 前述のように遠藤春子氏が家に来て 中央工業と言う加工場に
入り、そして東播染工の傘下にはいり東播加工となり、そして数年後には東播染工に
統合されることになり、 現場で加工品の柄組と言う仕事に携わっていたころに
当時の酒井社長から”営業にまわるように”との命令を受け、東播染工と合併した
時には 東播染工㈱の事務所内に席を置くことになる。
 上月部長の元、竹中氏、吉中氏、それに私が加わり3人体制で産元商社から仕事を
受注してくるのだった。

 私の遊び好きは 誰に似たのか? ラジオなどに興味を持っていた気持ちは失せ
代わりに猟銃を持つようになり、ヤマメなどの渓流釣り、鮎釣り、白ハエ釣り(学名
オイカワ)、そのうえ、産元商社の社長の中には西村商店などの社長が海の磯釣りが
趣味で有ることから磯釣りも行うことになる。
そのうえ、西脇蝶理の社長 藤田氏が、「まっさん。営業するならゴルフ位覚えないと
ワシ、今度クラブ買い替えるので ワシの使っているジュピターのゴルフセットを
プレゼントする」。などと言われ、無償で貰えないので1万円を支払って譲ってもらい
ゴルフもし始めた。 それ以前にも定時制仲間の大木の片岡君と、西田の藤井君と山陰
へ旅行、日和山公園で遊んだり その夜は湯村温泉のニシマホテルと言う旅館に泊まった
そこのホテルが管理しているゴルフ場が有ると言うことで あくる日 ゴルフ場へ行く
のだが、そこは起伏の激しいところで、何処をめがけて打っていいのか分からない、
 後にも先にも あのころから日本人のゴルフブームが始まったのだろうと思う。

 営業の合間に野村町の大池打ちっ放し場へ通った。 最初は どのように打っても
野球打ちになるのかスライスボールばかり出る。 負けず嫌いな所がある私は 毎日
仕事の合間を見ては、また仕事が終わってからは練習に行った。
当時、練習場の息子である大橋君に教えてもらい、そして菊楽染工の 菊楽君も練習に
来ていたので教わることになり、2~3カ月後には そこそこになった。
大橋君(プロ)も菊楽君も 当時山陽カントリー(今は加西インターCC)を持っていた
ので、蝶理の横山氏と 4人で一緒に回った。
大橋君も菊楽君も 当時 ドライバーはパーシモン(柿木)だったが、良く飛ばして
いた。300ヤードは飛んでいただろう。 私はそんなに飛ばず、250ヤードくらい
だから産元商社などのコンペで、菊楽君が居れば まずドラコンは取れなかったが、
 しかし飛ばし屋は曲がるもの、フェアウェイに置かなければならないので 私にも
チャンスが有った。
 
 毎日練習し、土日になれば接待と言って産元の人を招待し、そのうえ、上司が氷上
カントリーや旭国際、それに産元商社の社長たちが小野カカントリーや加古川カントリー
東条カントリーなどを持っていたので 隈なく県下のゴルフ場のほとんどは廻った
だろう。 旭国際の登場コースなどは距離が長いので80前後のスコアしか出なかったが
氷上カントリーではパープレーも2度有った。

 そのうち、産元商社の仕入れ担当などとビリヤードも行くようになり、アーチェリーも
行うが、遊ぶことが多かったので上達もしないし 長続きはしなかった。
そうしていると、西田の藤井君が「詩吟をやらないか?」と誘いがあり、詩吟もやりだす。
そして幸洋綿業の会計部長の在田さんが「増田さん。長唄をやらないか?」との誘いが
有り、長唄もやりだす。 師匠は お婆さんだったが 神戸製鋼の社員なども教えていると
言い、杵屋某とかの名前も持っておられたので その道では有名な人だったのだろう。
 しかし、同級生の女性も居たが 殆どが小母さんばかりで 車に乗れるのは私だけなので
どこかで長唄の披露を行うときには 道具を運んだり、小母さん連中を会場に連れて
行ったりで、 なんだか利用されているように思い、”まだまだ他の事もやりたいし”と
長唄を諦めた。 ”都踊り”や”黒髪”など教わり、お師匠さんにはある程度期待されて
いたので後ろめたいところが有ったが、辞めてしまった。
 指の本数が足りないほど 趣味を多く持った私だが、続けていてこそ立派なものだが
これと言って上手なものは一つもない。 広く浅くがモットーと負け惜しみをしているが
一芸に秀でたものは一つもない。


 



 

孫からの残暑見舞い。

2018-08-22 09:06:50 | 日記
 埼玉に住んでいる二人の孫から例年同様 残暑見舞いのハガキを送ってきました。
今年 3月から4月の初めにかけて埼玉へ行き、孫と一緒にディズニーランドへも
行きましたが、出会うたびに成長していく孫に 安心と 自分たちが歳をとっていく
事を痛感します。
 孫たち二人は 東京の昭島生まれ、娘婿は大阪の京橋で育ち、娘が大阪の学校へ
行っていたとき 知り合い 結婚したのですが、 大阪と聞き、私たち夫婦は
”大阪なら近いし”と 気にも留めなかったのですが、 娘からは公務員を目指して
いると聞いていましたが、てっきり近畿圏でと疑いもしませんでした。

 ところが、何と娘婿は東京の公務員試験を受け、単身東京の消防署へ勤務する
事になったのでした。 やがて結婚し、昭島の消防署の寮に住むことになり、
初産することになったのですが、生まれる前から入院し、私の妻は 1カ月間
昭島へ行っていました。 やがて初孫を出産。ところが、お産の後も 娘は体調が
すぐれず、再度 妻が昭島へ行きました。 私は そのため一人放ったらかしに
されたものです。
 時は丁度 自民党から民主党に政権が替わった年で、その時の政策で高速道路が
1000円ぽっきりで端から端まで行けるという事でした。
私も 妻や娘の様子を見るのに 東京へ行ったものでした。新幹線で往復すれば
3万円もかかるところを 往復1万円もあれば行けました。

 その後も 娘宅へは何度行ったことでしょう。 初孫なので可愛くて仕方がない。
孫も歩けるようになり 片言を喋るようになり、行くと”おじいちゃん本を読んで”と
持ってきて それには終いに閉口したものでした。
 やがて娘は第2子を身籠りましたが、その頃、昭島の消防署寮には規定があった
ようで、寮住まいの何年後かには自力でマイホームを持つことを義務つけられて
いたようでした。 私も当時 宅建業をしていたので、東京都圏内の土地をくまなく
探しましたが、沿線まわりだと坪150万、300万とする。 それも歪な形を
した土地ばかり、価格的にも手に届く土地は あひる野市だとか圏内から大きく外れ
た所ばかり、婿は都心近辺を諦め、東京に勤務するのにアクセスのよい場所を選んだ
のが埼玉県坂戸市でした。
そこは新興住宅地で、1000区画ほど有ろうかと思われる広大な区画整理地でした。
娘夫婦が ここで新居を持った時、私たち夫婦も行きましたが、当時は家が疎ら
だったのが、数年後には 所狭しとばかりに家が立ち並んでいました。

小学校へ入学したときの初孫

2番目の孫が保育園に入園した時の写真。

自宅での姉弟。

 私たちが住む地域は 最近では子供数が減り、30戸ほどの隣保内で、小学校へ
通う子供が3人か4人。 幼児は?となると、2~3人。絶滅危惧種になりましたが
ここ埼玉は子供たちが大勢いて賑わっています。国際色も豊かで 運動会となると
白人から黒人、東洋人と 多種多彩です。
でも少し離れた 北坂戸市などの学校は、子供が少ないせいか 駅前の学校は
閉鎖しているという ちぐはぐさを感じました。


思いつくままに 追憶その12

2018-08-20 13:37:53 | 日記
 さて 今年の 学校での夏休みは 10日から18日と9日間連休をとらせて
頂きました。
お盆は 子供も帰ってこず、平成22年に母親が亡くなってからは 近くに住む
妹も 弟も 迷惑をかけては・・・と思ってでしょうか? 誰も来ず、妻と
二人っきりでしたので、子供から送ってもらっていたDVDを心行くまで 観賞し
ました。全20巻以上有ったので 毎日4時間程度 テレビの前に座っていました。

 さて、野中の山すその畑にスイカを植えており、盆の仏壇に供えるのにと
2個ほどもいでいましたが、一度に沢山収穫しても・・・と思い、盆明けの17日に
残りを採りに行くと、なんと残っていた2個のスイカが被害に遭っていました。

被害に遭ったスイカ。

 直径5センチほどの穴をあけていて、犯人は?と考えてみましたが、考えられるのは
アライグマか、ハクビシン、タヌキ、ネズミ?
犯人は分かりませんが 味を占めたと思うので 来年からは ここに植えるのは諦める
ことに、まぁ他の場所でも小玉スイカを植えているので 家で食べる分には十分。

 釣りに行きたいが 今年の異常な暑さに釣行に出かける気もしない。まぁ9月になれ
ば涼しくなると思うので行きたいと思いますが、海の水温は地上の1カ月遅れですから
10月にならないと本格的な釣りになりません。

 さて 追憶その12ですが、福島工業を2年足らずで辞め、家に帰ることになり
ましたが、そんなに後悔は有りませんでした。
大阪市扇町にある電機学校へ行かしてもらえなかった事が大きな理由でした。
豊中の伯母には詳しく説明せずに会社を辞めたので、その後は気まずくなって行き
ました。
 私はラジオやテレビの組み立てに興味があったからですが、その頃から真空管
SP管からGT管、更に小さなMT管(ミニチュア管)に代わり、更に トランジスターに
取って代わろうとしていました。 更に配線もプリント基板と言い、ベークライト板に
シルクスクリーンで電流を通しやすい回路を印刷し、配線を必要としない方法に
なって行きました。 それで この道の余りの変化について行けないと判断し、
電機学校へ通う決心が 根底から覆されました。
 昔から 空気銃を使用していたからか? 狩猟への興味があり、田舎へ帰って
猟銃を買い、鳥猟犬のポインターなどを飼って、雉打ちでもやってみたいと思って
いました。
 福島工業を辞めた歳が19歳、大阪府では数え歳で成人式を迎え、西脇市に帰って
来ると、西脇市は満20歳で成人式だったので、成人式を2回迎えました。

 満20歳になったのは昭和39年、前述の高田井町の遠藤春子氏に誘われて入った
中央工業から東播加工へと名称が変わり、猟銃を手に入れるため西脇警察署へ免許
申請をしました。
 申請したころは そう難しい試験でなく、乙種試験は通りました。 そして免許
が手に入るまでは 聞き取り調査などがあったようです。例えば身内に 変な者が
居ないか、本人の素行はどうかなど近辺を調べて ようやく免許が下りました。
 早速 猟犬ポインターの幼犬を購入しましたが、1年目は役に立ちません。
当時の猟期期間は確か10月から翌年2月末だったように記憶しています。
 私は 西脇市内に有った上前銃砲店へ行き、早速猟銃を購入しました。
ブローニングとかレミントンとかウインチェスターなどの有名な銃を買いたかったが
全て100万円以上すると言ったもので 安月給の私には手に届く値段でなかった。
そこで三和とかいう国産の上下2連銃を買いました。 5万円程度だったか?
飼っているポインターはまだ役に立たない。 当時 向かいの山は 一度木を伐採。
直ぐ後に松を植林しており日も浅かったので松の木の高さは腰位しかなく、所々
赤土が露出して見える箇所が見えました。 そこへ雉が陽を浴びに出てくるのですが
昔の”雉も鳴かずば撃たれまいに”との諺がある通り、身の危険を察知した雉は
飛び立つ際 ケーンケーンと甲高い声を立てて飛び立つ習性があるのです。
雉は茂みの中を歩くのは早いが、飛び立っても遠くへは飛べません。 そこで
この辺へ下りたと思うところへ 左手には銃を持ち、右手に小石を持って その
小石を投げるのです。 すると驚いた雉は飛び立つ。 それを狙って打ち落とすの
ですが、 その方法で 初期のころは3羽獲りました。
 雉は美味しいというが 私は虫が弱く 食することは苦手、父母もまた獲ってきた
雉を料理することはできないので、姫路市市川?かに有った 剥製を作ってくれる
剥製屋へ他人に聞いて 傷の目立たない雉を持っていき、剥製にしました。
 店で待っている間に店主は上手に中身の身を取り出ししていました。”肉は
要らない”と言っても 店主も”うちも要らない”と言うので、家へ持って帰り
ポインターの幼犬の餌にしていました。

 ヤマメと言い、この雉肉と言い、今となっては勿体ない事をした。と思います。
妻は 自分が言うのも変ですが、料理好き。今では釣ってきたアナゴでも、タコでも
ブリやハマチ、鯛でも何でも 美味しく料理をしてくれます。
私は釣ってくるのが仕事。以前は釣りに行った道具も洗ってくれていましたが、流石に
これは虫が良すぎると思い、最近では釣り具の手入れは怠りなく自分で行うように
しました。

 そうそう、中外織物と言う産元の社長、川上さん。80歳で3年前に亡くなられた。
ゴルフに釣りが好きで よく一緒に行ったものです。彼はゴルフもシングル、よく
チョコレートを掛けて勝負しました。
何せ この方は勝負強かった。昔ですが、旭国際GCへコンペに行ったとき、ハンディを
3つ貰って掛けました。 かれにチョコ15枚は勝っていたでしょう。
16番ホールだったか打ち下ろし160ヤードでした。「まっさん。消しに行くから」
と言いました。 私がオーナー、7番で打ったボールはピン横1m、次いで川上氏が
打つとバンカーに入れました。 内心”これで勝った。勝ちは倍になる”と内心
ほくそ笑んでいました。 ところが・・・ バンカーから 大きな目をギョロとピンを
睨み、打ったボールは 何とチップインバーディ。
 私のボールはピンそばだったので入れればチョコ数は変わりませんが、外すと消し。
プレッシャーからか 僅かにカップを外れ またその返しが入らず、痛恨のボギー
川上氏は それ以外にも釣りに行くと、私が釣れないときに たまに大物を釣り上げる
事もあり、何事につけ、勝負強い人と感心していました。
その方の奥さんも、釣ってきた魚はどんな魚でも捌いて料理をし、釣り具の道具の
洗いものも 奥さんにして貰っていたようでした。 
私は それでは罰が当たると思い、最近では 道具の手入れは自分ですると心に決め
(当たり前ですが)後始末をするように心がけています。


 話は戻り猟銃を購入後のその後、金喜老立て籠り事件?だったり、浅間山荘事件などが有り、
銃の規制が厳しくなり、欲しかったライフルも狩猟経歴10年以上でないと持てなく
なり、銃弾の保管庫を置くことを義務付けられました。
また それまで5連銃が持てたのが3連しか打てなくなりました。
そして1年に2度ほど 銃を持って警察へ行き、銃に手を加えていないか? 残弾の
数字に間違いがないか?調べられました。
 猟期期間も狭まり11月15日から翌年2月にまで制限されたと記憶します。
だが猟期間はポインターを連れて鳥打を楽しんでいました。
猟期が終わると 魚釣りをしたり、また友達と その頃流行っていたビリヤード店に
行ったり、またアーチェリーなども流行っていたので 道具を買って遊びました。
 独身時代、東播加工時代の懐かしい思い出です。
その頃、斎藤商店社長の甥になる方も一緒に働き始め、その方は私より一回りも歳
上でしたが、その方は お酒が好きで よく一緒にスナックなどへ行きました。

 昭和46年5月、父が亡くなり、翌47年に 当時斎藤商店に勤めていた現在の
妻と結婚。
翌年 長男が生まれましたが、義父が「変な子供が生まれ、殺生をするからだと
言われても嫌なので 狩猟を止めてほしい。」と言われ 10年近く所持していた
銃を手放すことを決意、順番は忘れましたが、西脇に唯一有った 上前銃砲店へ
持っていき、ロッカー事買い取ってもらいましたが、二束三文だったことを思い
出します。

 話は前後し昭和45年のある日、当時は労働組合側も強く、賃上げのストライキを
やっていたその日、地面に腰を掛けていた私を 酒井社長が通り掛かり、私は慌てて
挨拶をしました。
 するとしばらくして、森脇氏が「増田、社長が呼んでいるので事務所へ来るように」
私は頭の鉢巻きを取り、事務所へ入ると 酒井社長が「増田、お前何をやってる」。と
聞かれるので「はい、組合員なのでストに参加していました」。と言うと、社長は
「今すぐ 組合をやめるように、そして明日から営業部で働く事にしなさい。後は
営業部長の上月君に言っておくので」と一声、そして森脇氏に「森脇君、組合長に
 そのように伝えてくれ」。と鶴の一声で 組合員をやめることになったのです。

 有頂天になるよりも どうしていいのか正直分かりませんでしたが、東播染工本社へ
行き、上月部長に「よろしくお願いします」。と挨拶、 上月部長は「当分、東播加工が
多く受注している、幸洋綿業、西脇竹田、高龍商店などへ挨拶廻りをするので一緒に
行こう」と言うことで 翌日は産元会社へ挨拶廻りに、
また 当時 日東紡だったか?大手紡績会社から東播染工へ出向されていた深川部長が
居られ、その人に毎週月曜日に来て話を聞くようにとの指示を受けた。
 そして毎週 月曜日朝1番に深川部長に出会いに行き、話を聞くのだが この方
もう60歳は超えて居られただろう。 温厚な方で、話し方も優しく、世間話も多く
私を子供か孫のように思ってくれていたのか? 1回行くと1時間以上 応接室で
話し相手をしていた。 ある日 事務所の社長の椅子に腰を掛けていた酒井社長が
「おい 増田。家の大切な人を長い時間引っ張るなよ」。と言われた。
深川部長に対する 大きな嫌味だったのだろう。

 東播加工時代は良い時代だった。池田勇人内閣の時代の所得倍増論、その後は
岸信介や佐藤栄作、田中角栄、大平正芳等々順番は有っているかどうか分からないが、
日本経済は順調であった。
しかし昭和49年50年だったか?オイルショック、ドルショック、ニクソンショックと
やらで不景気になる時代が有った。
東播染工も急激に仕事が減り、我々営業には通達がなかったが、当時 従業員は500人は
居ただろう。 会社は一時的に外部へ働きに出ることを奨励した。
外部に働きに出る従業員の補償として”現在受けている給与の60%を保証する“と言う
ものだった。
 昭和39年トンキン湾事件から続くベトナム戦争は長期化し、昭和48年にアメリカは撤退
その後、ベトナム支援のための輸出物が増え、経済は回復に向かうのだが、外へ働きに出た
従業員の内、数10人は、帰ってこなかったようだ。

 以前に織機メーカーが、トヨタ紡織、津田駒などあり、革新織機を売りに出した。
目先の早い織屋は 力織機から自動織機、そして革新織機に目をつけ、大きな負債を抱えながら
設置して生き残りをかけた。
そしてまたまた繊維の生産量が増えて行き、染色・加工場も潤うのだったが、竹が50年に一度
花を咲かせ枯れるように、西脇の織物も 少しづつ廃れていくのだった。

 昭和46年ごろ、プラザ合意によりドル高是正が始まり、ドルが変動相場制に代わった事で
昭和60年頃、世間がバブルに沸いている中、西脇の景気は落ち込む一方だった。
昭和62年、不節制が祟ってか? アルコール摂取で肝臓が弱っていたのだろう。 冬場に生牡蠣を
食したこともあり、急性肝炎になった事は以前に述べた通り。

 退院後は内勤となるが、仕事は減り、繊維会社は生き残りをかけて大変だった。
確かその年 西脇中学校のPTA役員に誘われる。
校長は朝井義巳氏で 私ら殆どが先生の教え子で有った事から意気投合。楽しい1年間で有った。
その先生も数年前舌癌に侵され亡くなられた。もう4~5年経つだろう。
恩人の森脇忠氏も平成18年、肺がんで亡くなられた。確か75歳で有ったと記憶している。
 黒田庄福地の村精織物社長 村上利彦氏も同時期に肺癌を患われたが、この方は良性で有った
のか?発病して柏原病院で治療を受け、療養し平成28年に88歳で亡くなられた。
私がお世話になった 西脇でも著名な人たちが この20年間で沢山亡くなられた。寂しい
限りだが、これが自然の摂理か?
 私も74歳4か月、月日の流れは早い。 還暦を迎えると あれよあれよと月日は過ぎる。
一説には歳をとれば”ときめき”を失うからと言う。
昔 映画解説を行っていた 淀川長治氏は”若い頃は何を見ても新鮮さが有って時間がゆっくり
流れる。それは歳に比例して30歳台になれば365日/30に、50歳になれば365日/50
に70歳になれば365日/70に 極端に言えば1年過ぎる感覚が歳に比例して早くなると
言う。確かに幼いころの1年は長い。大きくなるのを背伸びするように待っている。
酸いも甘いも 知り尽くした年代となると 1年経ち正月を迎えるのは直ぐに思える。
淀川氏の数式で言うなら30歳台は正味12カ月と感じ、60歳台では1年を半年くらいと
感じ、70歳台では1年は5カ月くらいの感じで過行く。
はて100歳はどうだろう。この計算だと、1年は3カ月ぐらいで過ぎていく感覚か?
 
 

思いつくままに 追憶その11

2018-08-15 09:25:42 | 日記
  毎年12月夕方に お墓参りをするのですが、今年は都合で13日に参り
ました。 帰ってから仏壇に手を合わます。

 さて 篠原縫工所時代に戻りますが、昭和34年に 大きな台風に見舞われ
ました。それは伊勢湾台風、私が15歳の頃でした。
当時 橋のほとんどは木造、台風に伴う豪雨で上流から橋桁が流れてきて
それがまた下手の橋に引っ掛かり、そして殆どの橋が崩れて行きました。

 篠原縫工所は縫製したシャツのボタン付けを 殆ど内職に出していたのですが
西脇中学校前、三和町は杉原川の水が氾濫していており、それを回収するのに
当時 三輪自動車で向かいました。
深いところは腰まで浸かりましたが、無事 品物を回収しました。
その帰り道、ミズノスポーツ店に前の豊川橋が 赤く濁った激流にさらされていて
それは見る見るうちに橋は崩れて行くのを目の当たりにしました。
伊勢湾台風の爪痕は酷いものでした。

 当時 この会社の初任給は確か5000円、今の貨幣価値にすると 幾ら位に
該当するのか? でも同級生の中でも一番貰っている額は多かった。
私に次いで沢山貰っていたのが 山本染色に勤めていた岸本君でしたが 彼の
給料は4500円でしたから 当時の篠原縫工所の給料は良かったものと思います。
 しかし、同族会社からか 当時はすべてそうだったかもしれませんが、土曜日
日曜日、祭日だからと言って 決まって休みが有るわけでなく、親方の気分次第
また製品の納期次第で土日祭日の出勤は当たり前でした。
 賞与も親方の気持ちで 現在のように2カ月とか2.3カ月と言う額でなく
寸志と言う形で 袋の中は2000円とか3000円入っており、それに化粧箱
入りのカッターシャツを頂いていた記憶があります。

 当時の日野町の道路は、私の家の前面道路が4m程度、そして今のように427
号線は市原の村の中を通り、市原橋を通り、日野小学校前を通り、そして宇野
散髪屋がある十字路を南にとり 郷瀬町の旧春日橋を渡り、狭い小坂町の道を
通り、高田井の本隆寺の前を通り、和田町の魚松八百屋店の前を通り、米田織物
工場前を通って野村へと、特に和田町などの町幅は1,8mと言う狭さでしたが
それが国道だったのです。
昔は天秤棒の長さは3尺(180センチ)分の幅が有れば国道とされていた
のです。

 小坂町では当時「愛と死をみつめて」とかの主人公 大島みちこさんが生まれ
育った町であり、お墓が有ったので 映画化されたときは 吉永小百合さんや
大空真由美さんなど 墓参りに来られていましたが、当時 タクシーで来られて
いましたが、小坂町の狭い道は運転手泣かせだったでしょう。
また当時バイヤーなどが 大きなアメリカ車に乗って会社へ来たときには どう
してこの狭い道を通ってきたのか???よく入ってこられたな?と感心したもの
でした。

 小坂町の南外れには”不動山”を祀っている道場が有りました。そう これが
成田山の前身です。 当時は小さな道場と言っていいのか?板間に太鼓が置いて
あり、団扇太鼓を叩いて年配の方が拝んでおられました。
その方の子供さんは確か4人兄弟、お兄さんは 織物関係の下請けをしており
その下の妹さんは 民ちゃんと言って私より3歳ほど年上で 小柄でしたが
美人で、篠原縫工所に勤めておられました。
 そして社内結婚をされて 当時の先輩、篠原三治さんと言う方と結婚されました。
その下に 私と同級生の笹倉治君が居ました。その下に弟さんが居られたと
思います。
笹倉治君は 当時余り目立たない寡黙な男で、私がボタン付けの内職を配って
自転車を走らせていると 畑仕事をしたりするのを見受けましたが、それが
何時の間にか?修行でもしてきたのか?
 数年後、現在の小坂の成田山を立ち上げました。名前も笹倉明徳とかになり・・・
その道で成功されています。

 さて その後 西脇は戦後のガチャマン景気に沸いており、市も財源が潤沢に
潤っていたのと、県としても当時 地方の稼ぎ頭で有る西脇市を看過することは
出来なかったようで、伊勢湾台風後は市内のインフラ工事が一斉に始まりました。

 名神高速道路も急ピッチに進められ、中国道はまだ手付かずだったようですが
名神高速道は茨木か京都付近まで延びており、篠原縫工所の慰安旅行では この
名神高速道に乗った事を記憶しています。今のように味気ない遮音壁が道路わきに
ついてなくて、景色が好かった事を思い出します。

 そして1960年(昭和35年)に 池田勇人内閣となり、「所得倍増論」が
叫ばれ 徐々に庶民の暮らし向きは良くなっていったようですが、我が家は
相変わらず 貧乏と手を切ることはできないようでした。

丁度 西脇市内のインフラ工事に本格的に着手する頃、私は大阪市西淀川区に
有る福島工業へ行ったのでした。

 そして父親の体調が悪いと言うことで 西脇に帰ったのですが・・・
父親は 若い頃は至って健康でしたが、帰ってきて気が付いたのは大分 痩せて
喘息がひどくなっていることでした。
当時 両親は篠原縫工所のアイロンがけの仕事をしていて、妹二人は篠原縫工所へ
勤めていました。
父の喘息は冬場は収まっているのですが、妙なことに夏場になって酷くなること
でした。
いま、考えると、思い当たる節が・・・それは当時 シャツなどの布を加工するのに
ホルマリンと言う防腐剤を使っていました。
なぜ問題かというと 私はその後、加工場に勤め始めて、ホルマリンと言うのが如何に
毒性があり、危険かということを知ったからでした。
シャツのアイロンがけを行う際に 霧吹きと言って霧状の水を噴霧してシャツに
かけますが、そのあとアイロンで皺を伸ばすのですが、噴霧した水滴が蒸気になって
それを吸うのです。刺激臭が有りました。
その数年後にホルマリンは危険と言うことで、加工場でも一切 ホルマリンは使用
しなくなったのですが、当時は農薬もパラチオンと言って危険な薬剤を農家では
使用していました。 晩夏になり水稲の消毒をするのでしょうか?小学校で勉強して
いる時もパラチオンの刺激臭に閉口しました。
数年後 生態系を犯してしまうのと人体に影響が有ると言うことで使用禁止になり
ましたが、恐ろしい薬品が当時 平気で使われていたのです。
このパラチオンのせいで当時小溝などに居た生物は居なくなったことは確かです。

 さて私は 福島工業へ勤めることになり、池田内閣が打ち出した「所得倍増論」に
いち早く便乗することが出来たのでした。
だが、田舎へ帰ってくると 様変わり、ガチャマン時代と言っても経営者は儲けて
いても末端まで行き届いていません。

一カ月も家に居たでしょうか?ある日、家に女性が訪ねてきました。
その女性が 私の運命を変えてくれる 遠藤春子さんでした。彼女は私より4~
5歳上でしょう。
彼女の事は篠原縫工所時代から知っていました。何故なら、篠原縫工所のシャツの
ボタン付け内職を 高田井の この遠藤春子氏宅へ運んでいたからでした。
当時、春子さんのお母さんが このボタン付けの内職をされていたのですが
春子さんもまた手が空いているときに 手伝っていたようでした。

 春子氏いわく「増田さん。家へきてくれないか?」と言う。私は「あれ春子さん
宅 何か会社でも???」と尋ねると 「お父さんは遠藤武夫と言い、今市会議員を
しているのだが、実は中央工業と言う加工場を経営している。 人手不足で私の夫も
工場に入っているのだが 一緒に手伝って貰えないか?」と言うものだった。

 遊んでいても仕方がない。とりあえず 工場内を案内してもらいました。
現在 高田井の日通倉庫が有る場所に工場が有りました。
大きな機械の傍で 春子さんの夫である、邦夫さんが居られました。 大学を出て
春子さん宅へ 婿養子として入って居られました。

 その機械は”シルケット機”というもので、布を一旦 苛性ソーダーの原液に
通し、シリンダー内でテンションを掛けて伸ばし、テンターと呼ばれていましたが
布の両端をクリップで掴み、幅を一定に広げ、テンターを通す段階でシャワーを
浴びせ 乾燥機で乾かし、それにより繊維に光沢が生まれ一定の幅に仕上げて行く
ものでした。

 従業員は何人いたのか? 当時 この会社には 黒田庄岡の兵主神社の神主さん
宮崎博道さんも居られましが、この方は 樹脂の機械を受け持っておられました。

 だが、この会社も技術力が乏しかったのか? 受注は少なく、専ら加工布は
ブローカーの物でした。

 数か月後のある日、カーキ色の作業服を着た 男性が3人ほど会社に、聞けば
当番染工㈱の酒井社長と その懐刀と呼ばれている森脇さん、それに市谷とかいう
方でした。
酒井社長は 見るからに怖い顔つきをした方で ブルドッグを思わせる顔でした。
森脇氏は温厚な人柄に見え、市谷氏は 老練に見える方でした。

 その後、何時しか中央工業は 身売りされたのか 名前も”東播加工”となり
社長は 斎藤富雄氏と言う、斎藤商店の社長でした。
富雄氏は 野中町に有った三弘職布の番頭格だった方で、三弘を辞めて産元商社を
立ち上げて居られた。 三弘職布から 独立して会社を立ち上げた方は この方
以外にも門脇氏と言う方ですが 小坂町で”播”と言う これまた産元商社を
立ち上げられました。 

 斎藤富雄氏は私の住んでいる野中町のお隣、大木町と言うことで 後日 東播
加工に就任され、顔つなぎに料理旅館で宴会が催されましたが、私も同席を許され
話をすることになりました。
この方が その後も 私にとって恩人になっていくのですが・・・
富雄氏は産元商社の仕事が忙しいので 常駐でなく、代わって 斎藤商店の専務で
有った、酒井氏を出向させられました。
 酒井氏は山南町村森の出身、お家は あの円応教の近くでした。

 工場長には黒田庄黒田の森脇忠氏が着任されました。 昭和45年頃だと思い
ます。森脇氏は人望が有る方で、多くの方に慕われている方でした。
当時 私は現場に居て 柄組と言う 仕事を担当しており、それは指図書通り
アソートにして1個づつ箱詰めを行うために反物を組み合わせ、明細書を作成する
仕事でしたが、月末になれば納期が迫り 残業が常でしたが、森脇氏は皆と
一緒に寝ずの徹夜をして一緒に作業をされており、私も何時しか 自分の持ち場を
守るだけでなく 出荷の手伝いもし、徹夜も厭わず仕事を手伝いました。
それが 森脇氏の目にとまったのか? やがて森脇氏に誘われ 森脇氏は渓流釣りが
好きで、ある日 「まっさん。今度の土曜日 矢田川へヤマメ釣りに一緒に行こう」と
誘いを受けたのです。
 それは晩秋の頃でした。 秋も深まるとヤマメは越冬をするために荒食いをする
のですが、しかし また釣り荒らされて釣れない時期でもあります。

 矢田川の小代渓谷付近で車を停め 釣りあがっていきましたが釣れません。
当時、森脇氏の釣りの お師匠さんで 染色の工場長をしていた藤井豊一氏が
勝手に名前をつけていました。 最初の堰堤が穴あきの堰堤、その理由は堰堤の
横わきに穴が空いていたから、 そして次の堰堤は木倒れの堰堤、太い木が
堰堤の滝に横たわっていたから、 そして次の堰堤を落ちこみの堰堤、そして
一番上流を魚停めの堰堤と呼んでいました。

 その最後の魚停めの堰堤で やっと森脇氏にヤマメが釣れましたが、私は坊主。
そこから引き上げましたが、その帰り、猿尾滝と言うところがあり、今は見る影も
ないのですが、所々 小さな滝がある その周りは竹藪で覆われていました。
昼間でも薄暗い その滝で 仕掛けを投じました。
餌はミミズ、 すると目印がスーと動く、すかさず合わすと グーと大きな手ごたえ
森脇氏が「丁寧に ばらすなよ」と横からアドバイス。
やっとヤマメを陸に上げると 2匹釣れている。 それを見て森脇氏が「お前 2本
針にしているのか?」と言われるので 私は「白ハエ〈学名オイカワ〉と同様に
思って」と言うと 大笑いされました。 「わし初めて見た。よく同時に2匹うまく
針かかりしたもんや」と それは体長30センチは切れましたが、28センチは
あるヤマメでした。 それが2匹もくっついているのだから引くはずです、

 その後、会社の事務所では その話で持ち切り、藤井豊一氏など「あんな用心深い
ヤマメが同時に2匹 よく喰らえついたなぁ」と感心されていました。
これを機に 気分をよくして 翌年から谷田川詣でが始まるのでした。
その頃、渓流釣りフアンは少なく、渓流で 釣り人に出会うことは殆どなく、
一人 幽玄霊谷に溶け込み、時には三桁も超える多釣りを経験しました。 
その頃から森脇氏に手ほどきを受けた 渓流釣りも 私の方が腕を上げ、森脇氏が
「この落ち込み 良い感じだが 釣れない。お前やってみて・・・」と言われ
私が その同じ場所に仕掛けを投入すると、私には釣れるといった事が度々あった。

 いつだったか その日も 森脇氏と一緒だった。何時もは「お前、上流、俺は下流
から行く」。と二手に分かれてい行く釣りでしたが、 一度 私が「工場長、先に
釣りあがっが下さい。僕は 遅れて釣りあがっていくので・・・」と言うと
「そんな 悪いな~、一度10時に この場所へ帰って来よう」と言われ、10時に
車の場所へ、 「何匹釣れた?」との問いに 私が「10匹」と答えると、「わしも
10匹、一緒や」と気分を良くされていた。
「今度は二手に」といわれるので 私は「いや 今度も私が後から行きます」と
花を持たせることにしました。 遅れる事 30分程度で 釣りあがっていきます。
 その頃、山奥で雪解け水が入り始めたのか? 水は笹濁りとなりました。
絶好の機会でした。 
 私は落ち込みは森脇氏が仕掛けを投じていると判断して、落ち込みの両脇隅を
探っていきました。 すると釣れるわ釣れるわ 丁度12時に車の所で待ち合わせ
していたのですが、 森脇氏が「どうやった。わしはあれからさっぱりや」と
言われる。 私は多くつれすぎたので 一旦車に帰り クーラーに魚を入れている。
そのうえに 魚籠の中は ヤマメで満タン。
少し 躊躇いましたが、森脇氏が「魚籠 見せてみ」と言われるので見せました。
 「ようけ釣っとるなぁ」と驚いて居られたが、 その後 森脇氏が「あれくらい
悲嘆したことはない」。と漏らされていました。

 釣り師の気持ちは 自分が食べなくても 何時も他人より多く釣ることを願って
いるものです。 私も沢山釣って帰っても 家人は喜ばないし、当時飼っていた
猫の餌にするか、川魚が好きな人に あげるくらい、 だから森脇氏にあげたいが
森脇氏も奥さんと当時二人暮らし、あげることは無礼になるだろうと思い、一応
要りませんか?と暗に問うのだが、釣り師の面子がある。

 さて森脇氏は誰からも好かれる人望のある方だった。 数年後 私が今の妻と
結婚する時も 仲人をして頂いた。
森脇氏には二人 お子さんが居られ、一人は女の方で ”高校を出て まともな
職につけばいいものを 芸能関係が好きで”と悔やんでおられた。
下は息子さんで、大学を出て 現在 宮崎県に居られる。
娘さんは 芸能関係を目指し、脚本家を目指し、奥京子さんと言い、時代劇などの
脚本をされている。現在は 森脇亨子さんと言う実名で出ていると思うが・・
平成18年に 肺癌が元で森脇氏は亡くなられた。確か75歳。
当時、宍戸錠とやら始め、芸能人から多くの花輪が寄せられていたのを思い出す。


 



 

思いつくままに 追憶その10

2018-08-13 10:27:27 | 日記
さて 今年は例年にない暑さで 学校ではプールもなく、何時もなら賑やかな
子供たちの声も聞こえません。
学校での仕事は 専ら 草刈りと除草仕事。 この日照りのなかでも元気をして
いるのは雑草だけです。
また剪定なども 低木に限り行おうと 先日も高さ2m程度のヒノキの剪定を
行いました。
 またその横に生えている広葉樹も 新芽がかなり伸びているので剪定をしようと
剪定ばさみで刈り始めると、中から数匹の蜂が・・・ 首筋にチクリとした痛みが
走り”これはやられた”と 慌てて脚立から降りました。
蜂の種類は足長バチ、スズメバチと違い、執拗に追いかけてきませんし、毒性も
少ないのですが、チクチクと痛む。
 保険の先生が居られると言うことで診て貰いましたが応急措置として患部を
冷すことくらい、そのあと二日ほどは痛痒い状態が続きました。

 昨年は校舎内のPタイル張り替えの仕事が有り お盆の期間だけ休みを取り
ましたが、そのような仕事もなく、10日間ぶっ続けで休みを取りました。
例年なら 休み間には日本海にイカ釣りとか行くのですが、今年は 今のところ
誘いがありません。 同じ町内のⅯ君が墓掃除のとき ”8月の終わりか9月の
始め頃 日曜日に行きませんか?”との誘いが有ったのでOKをしているのです
が、決まっておらず、確定しているのは8月末のタコ釣り二日間。

 さて ”思いつくままにパート10”ですが、私が中学校を卒業し、担任の
広瀬先生が昼間行くようにと言われ、両親にも頼んでもらったた高等学校への進学も、
現実を考えれば 下に3人の妹・弟が居り、そのような状態でないことは火を見る
よりも明らかでした。 それで定時制に行くことを決めました。
昼間 篠原縫工所㈱へ勤め、何時も定時の5時に終わせて貰い学校へ行きました。
社長は理解があり、5時になると”亨さん 終えよ”と言ってくれました。
篠原縫工所㈱は従業員は70名は居たでしょう。その内、男は15名程度、残りは
女性でした。 そして殆どが加美町の出身の方でした。
それと言うのも 社長篠原重雄氏の奥さんが 加美町箸荷の出身で有ったから
でした。 現在なら加美町から車で出勤となるでしょうが その頃、車も普及して
居らず 皆 寮住まいでした。
その他は 西脇市内からだったり、四国や九州の女性も数人居ました。

 篠原縫工所が隆盛を極めていたころでした。 毎年 慰安旅行が有り、それは
贅沢な旅行でした。何時もバスを貸し切りで、1年目は愛知の三谷温泉でした。
あの桑名の蛤を見たときは吃驚しました。”こんな大きな貝があるのだと”
また、豊田自動車工場を見学もしました。
あの工場の敷地の広さ、そして工場内では工場案内の係が居て案内してくれるのです。
まず映写室に入り、車を組み立てる作業などを先に見て、そのあと工場内を巡る
のですが、その当時からWCへ行き 用を済ませば自動的に水が流れ、手を洗う
のにカランに手をやれば自動に水が出るといった、時代の最先端を行っていたのです。
秋には三田市へ行き、テントを張っての松茸狩り、当時の三田は 今では想像でき
ない本当に田舎でした。2年目は広島の”安芸の宮島”へ行き、3年目は大阪の本町へ
行き、大阪の大劇でタカラジェンヌの踊りを観たり、当時シネマスコープと言う大画面
を観たのは初めてでした。”世界一周”とか言うタイトルの映画でしたが、ナイヤガラの
滝などの雄大な場面は目に焼き付いて離れません。
4年目は石川県の加賀温泉へ行き、福井の永平寺に立ち寄りました。

 定時制へは4年間、休むこともなく通いました。 それと言うのも大木町の
片岡君や西田町の藤井君と言った、気の合う 同級生が居たからだろうと思います。
片岡君は 成績も良く、昼間に行けたのですが、彼もまた 姉妹が8人居て
上が全て女でした。 昔 嫁入りをさせるには沢山の嫁入り道具を持たせました。
彼の家は 田畑も十分にあり、そんなに無理さえしなければ進学できたことでしょう。
だが、片岡君の両親は上の娘6人を嫁に出すのに田畑を売り、当時の農協で多額の
借り入れをして嫁に嫁がせ、そのしわ寄せが彼一人にかかってきたのです。
 彼は昼間は小沢繊維に商事部に勤めていました。
当時、産元商社へ勤めるのはエリートでした。彼もそのエリートの一人でした。

 さて元に戻り、私は4年もの間、篠原縫工所にお世話になりながら、この会社を
辞めたのでした。どうしても電気関係の道を歩みたかった。それには大阪の扇町に
有る 電気学校に行きたかった。
引き留められもしたが、反対を押し切って 会社を辞めた。 社長は落胆されて
居たようだった。思えば4年もの間、何も言わずに学校へ行くのを優先させて
頂き、挙句の果てに”さよなら”では やりきれない気持ちだろう。
後に 私は このような後ろ足で砂をかけるような行いをしたことを後悔するのだが・・・

 さて父親も大阪行きには反対したが、引き留めることは出来ず、そして父は
大阪の豊中に住んでいた姉に このことを相談したようだ。
伯母は福井と言い、庄内幸町に住んでいた。 私とは15歳年上の一人娘が居て、
結婚して主人(義伯父)と二人暮らしだった。
伯母は”勤める会社に心当たりが有る。一度豊中へ来るように”と言われ初めて
庄内幸町に行った。
伯母曰く、「娘婿の知り合いで 西淀川区御幣島で企業を立ち上げている人が居る。
そこで しばらく働いて 落ち着いてから学校へ行くようにしたら」と言われる。
そして従姉の婿に その会社へ連れて行ってもらうことに、その会社は福島工業所と
言い、社長は岡山出身の方だった。
福島工業は現在 東証1部に上場している会社で 当時は時代の先端を行く仕事だ
った。
寮もあるので寮住まいをすることになった。一旦 家へ帰り、身支度を整えて再度
福島工業へ、 夏も終わり 秋お深まる頃だった。
専務から「増田君。今会社では広島の松田から大きな仕事を受注している。それで
清水君と一緒に 松田の工場へ出張して欲しい」。といきなり言われた。

 清水さんは私より3歳年上、彼もまた中学校を卒業して岡山から上京していたら
しい。聞けば 社長と親戚になるという。その方と二人 広島へ向かった。
そして松田の工場内で仕事を始めるのだが、その仕事とは 従業員15000人の
炊飯器を作ると言いう作業だった。
現場での仕事は 専らステンレスにドリルで穴をあけたところをホルソーと言う
道具で直径5センチほどの穴を広げる作業と、責任者から言われた通り 図面を
運んだり単純な仕事をさせられた。
昼間は外には出られず 内部での作業ばかり、休みになっても昼間は働いた。
自由になるのは夜だけ、松田の会社が車を貸してくれて 清水さんと一緒に夜の
広島をドライブした。
最初、原爆ドームを見に行った。 夜の空にあの骨組みだけになったドームを
見て不気味に思った。 篠原縫工所に居たころも一度 宮島へ行く前だったか
後だったか?立ち寄っているが、戦後18年程度しか経っていない その原爆
降下跡は生々しかった。そして 宇品港へも行った。
そして年末になり、帰りは 寝台車で帰ることになる。 定時制での修学旅行の
とき、北九州へ行ったが、その頃は鈍行。門司に入るころは汽車の通路に茣蓙を
敷き、起きると足腰が痛かったが、なんと夜行列車の寝台車の乗り心地は その
当時と比べ物にならないものだった。

 初任給は13000円だった。明細書を見たときは目を疑った。篠原縫工所では
8000円くらいだったのが5000円も多かったのだ。
それに出張手当として同額の13000円、夢を見ているようだった。
その年末には 山陽本線に乗り、加古川線に乗り換え、西脇駅に降り立ち、タクシー
で自宅へ帰った。 両親や妹・弟が喜んでくれた。

 その後は 大阪の工場内での仕事に切り替わり、主にステンレスの点付けと言う
溶接を行うことだった。ステンレスの溶接は危険だ。点付けをして、それが冷えて
行くと表皮がパチンと飛ぶのだ。あたると火傷をするし、目に入れば失明する。
また、溶接をしていると必ず一度は 掛かるのが目をやられることだった。
あの溶接の火花を裸眼で見ると 必ず目をやられる。 目を開けておられず3日程
寝ることもあった。
 一段落すると、豊中の叔母から”亨二、一度も顔を見せないで 一度来い”と
言われる。 仕方なくいくのだが、私は伯母は ともかく義伯父が苦手、
義伯父は 当時 どこかの学校の校長をしていて 温和なのだが、寡黙で意見を
するわけでないし、当時何を話していいのかわからず苦手だった。
だが、伯母は月に2~3回は顔を店に来るようにと言うし、だから御幣島から
当時 国道電車が走っていたが、電車に乗り 野田へ出て梅田から阪急電車に
乗り換え、豊中へはよく通った。おかげで阪急沿線、豊中幸町までの駅名は今でも
覚えている。
当時、服部緑地と言うところへ散歩にも出かけていた。 今では住宅やビルなどが
立ち並んでいるが、野池が有り、当時は何もないところだった事を記憶している。

 寮住まいは楽しかった。岡山から来ている清水さん、三重県から来ている副松
兄弟、埴岡、広島から来ていた妹尾君などが居た。

 ある日 上司から”家に遊びに来い”との誘いを受けた。同じ西淀川区から
通っている方だった。 埴岡君と二人遊びに行った。 
その上司は”今から 家の家族とともに赤目四十八滝へ行こう”と誘われて
行ったことが有る。
あの名張の毒ぶどう酒事件から何年も経っていない頃だったことを記憶している。
上司には二人の娘さんが居て、どうやら娘婿に埴岡君が目当てでなかったのか?と
後から気が付いたが、その後どうなったかわからない。
篠原縫工所時代もそうであったが、この会社も福利厚生が整っていて厚生年金が
有り社会保険が有り 文句のつけようがない会社だった。

近くには神崎川が有り、それを超えて西へ行けば尼崎、尼崎の杭瀬には伯父が居て
何度か家を訪ねた。
そして 寮住まいをしているときは寮生とともに 神崎川の堤防沿いを走った
ものだ。

 だが、そんな日々も、母の電話で 父の体調が悪いと言うことで 会社を辞める
事になり 2年で大阪を離れることになり、それが元で 豊中の伯母とも 気まず
くなっていった。