喜寿をむかえた男の遊々生活!

喜寿を迎えた老人の日々を日記に・・・

充実した日々・追憶その4

2018-07-08 09:20:00 | 日記
 先週から降り始めた雨は 西日本に大変な被害の爪痕を残して行ったようだ。
年々 地球温暖化によるものか? 地球はおかしくなっていくようだ。

 また昨今 各国の指導者に変な人物が現れてきて 先行き不透明になってきた。

 変な人物とは 米のトランプ大統領、中国の習近平国家主席、ロシアの
プーチン大統領、北朝鮮の金正恩委員長。
特にトランプ大統領は保護貿易政策を打ち出し、中国製品に高関税を、知的
財産権を犯しているとの理由で中国製品に高関税を課し、方や中国も報復関税を
行い、農作物に同額になる高関税を掛けると報復合戦。
対イスラエル政策では 中東の火種になっているエルサレムに大使館を置くと言い
出し、これに反対するパレスチナ人の暴動が起き、メキシコに対しては移民入国を
遮るのに国境にメキシコの費用を持って壁を造ると言い出したり、先日は北朝鮮の
金正恩氏と非核化のための会談を行ったりしたが、会談を行う前には 威勢の好い
ことを言っていたが 中身は どうも骨抜きにされたかのような感じを受ける。
 アメリカを代表するオートバイメーカーのハーレーラビットソンは、いち早く
ヨーロッパに生産拠点を移すという。

 まぁ こんな世界の事を論じても仕方がない。 ここ数日は しばし昔の
記憶を辿り、回顧してみたい。


 宅建業を開業した私は 順風満帆の船出であった。 当時 地元の不動産屋は
チラシを打つということをしなかった。 それを尻目に 私はリソグラフを
リースで導入し、依頼された物件などを入れて 広告を刷りまくった。
そして新聞折込広告を入れた。 当然 売ってほしいとの依頼主は 速やかに
依頼した物件を速やかに売ることを願っている。だから喜んでくれた。 
また家が欲しい、土地が欲しい。と、言う連中は 情報が欲しい。当然の事、
チラシの反響は出てきた。

 商売も軌道に乗った。一度 気のすむまで釣りをしたいと思い、妻に告げ
四国愛媛の西海に行ったことがある。
当時 瀬戸大橋が開通したばかりだった。 私はその頃、ダイハツの軽4の
乗用車に乗っていた。 パワーハンドル機能もなく、ハンドルは重かった。
その日 瀬戸大橋は快晴。少し景色の好い所で車を停めたが、パトカーが行き来し
するので持っていたカメラで風景を写真に撮り 香川県に入った。

 便利になったものだ。以前なら 岡山の宇野港まで行き、フェリーで1時間程度
掛けて高松港へ渡り、国道55号線を南下、松山 大洲を通って12時間掛かる。
行楽シーズンに入れば、フェリー乗船待ちで2時間3時間掛かるのはザラだった。
明石、岩屋間もそうだ。長時間フェリー乗船するのに待たされたが、明石海峡
大橋が掛かると 解消された。泣いたのはフェリー会社だろう。

大橋を通り、高知自動車道を通ると高知の南国まで高速道はついていた。
南国から 高知市内 ”はりまや橋”を右手に見て 国道電車が走る 市内を通り過ぎ
須崎、土佐高知、宿毛などを経て、愛媛県西海町まで行くのだった。
現在 高知自動車道は須崎まで開通したと聞き及ぶ。 今では津島高田まで開通した
高松道を通っているので 高知道がどこまで延びたか?解らないが、近い将来、四国
外周を回る縦貫道路ができるかもしれない。

西海は武者泊り、中泊、内泊などが有り、半島になっている。向かうは中泊だった。
半島についている道は 自衛隊がつけたものだと聞いている。
かつて、笹倉釣り具を中心に 中泊など 大物釣りに行っていたが 今回の釣行は
グレ釣りと言う 繊細な釣りを求めたものだった。

 私はうかつにも、半島を武者泊方面に向かってしまった。
中泊へ行くには遠回りだった。当時ナビなどない。黙々と自衛隊がつけたという
狭い道路を伝っていった。ようやく目指す”ツバメ渡船”の民宿に辿りついてのが
10時を回っていた。
 翌朝、鹿島と言う目の前の島に降ろされた。 私は以前行ったことのある、
松島とかクロバエとか外磯に出たかったのだが、だめだった。
常連などは好い所に渡してもらえるが、初めての客など 好い所に降ろして貰え
ない。
グレ釣りは面白い。(学名はメジナと言う) 1.5号の細い竿と、2号くらいの
道糸にハリス、引きは強引で竿は満月のように曲がるのだ。
またこの魚は食しても美味しい。
このグレの外道に アイゴと言う 背びれに毒を持った魚が釣れるのだが、これも
また美味しい。

グレは夏場、海藻などを食するため、磯臭く、猫マタギと言われるくらい不味いのだが
冬になると 油が乗って本当に美味しいい。
4日ほど釣りにでた。 ツバメの吉田船長が「増田さん。明日も釣るのか?」と
尋ねられる。 私は家に”1週間ほど釣りに行く”と言って 出たものの、やはり
貧乏性か? 釣った魚もクーラーにいるが、傷んではいけないと思い”帰ります。”
と言って帰途についた。

 その頃、西脇工業高校を卒業した長男は 京都府乙訓郡大山崎町にある
㈱トーセへ勤めていた。 この会社は ゲーム開発会社で 開発したソフトを
カブコムとか任天堂などに提供する会社であった。東証1部に上場していた。
 しかし、不安だった。入社試験を受け、面接があった。我々 夫婦も長男と
ともに会社へ行った。
会長は斎藤氏、社長もその息子 斎藤氏だった。二人が面接に立ち会った。
息子が希望にデザインを所望していたらしい。
会長・社長いわく「デザインは掃いて捨てるほど居る。どうしてもデザインと言う
なら正社員として入ってもらえない。とりあえず貴方のキャラクターを提出して
欲しい。お父さん、お母さんの前ではっきり言っておくが、会社の一歯車として
なら正規雇用するが、ご子息が希望しているデザイン部は、しばらく様子をみる
ためにも 寮は提供するが、正社員の保証はない」。とはっきり言われた。
 息子を一社員として働くよう 言うが 誰に似たのか?頑固にうんと言わない。
1年後には寮を明け渡すよう求められ、JR神足駅前にアパートを借りて過ごして
いた。
 この息子には 心配し、何度 京都へ行ったことか、高速を通らずいつも
社町から嬉野をとおり今田町 古市、亀岡を通り 息子に出会いに行っていた。
当時 古市から亀岡へ出る間は 両脇に民家のある狭い道を通っていたが
何年後かには バイパスができた。
その後、東京に先に出ていた 同級生に誘われ 東京に行くことを決意した
ようだ。誘いの言葉は”お前のような人材を埋もれさせるのは勿体ない。東京へ
きて独立すれば”と言ったという。 この友達は藤原と言い、奇異な巡りあわせで
同じ職場で働いたこともある藤原孝道と言う男性の息子だった。
少し おっちょこちょいでもあり、息子は見たこともないが、”そんな友達の
言う事を真に受けて”と忠告したが、言うことは聞かず、決意は固かったので
引っ越しの前日には、妻と娘を連れ、神足のアパートへ行き、荷造りを手伝って
やった。
 息子は東京の調布市にアパートを借り そこで漫画を描くことになったようだ。

 私は兼ねてから 芸術家の道で食べていけるのは難しいと思っている。その道で
飯を食べられる人は 一握りの人だと・・・
 父もまた絵描きであった。大阪で印刷屋を営む傍ら、夜は肖像画の師匠について
肖像画を習っていたらしい。 そして水月と言う揮毫と言うのか?貰っている。
父は その名を嫌い、自らは”蘇石”と名乗っていた。
疎開してきた当時 苦しかった生活が、少しよくなった。と、言うのも戦地で
亡くなった兵隊さんの肖像画を描き始めたからだった。
当時、写真の技術は発展していない。軍服を羽織・袴に変えたり、戦死した
兵士の写真を元に 生前のように描いたり、終戦後は 店も増え、それに伴い
開店を祝う”開店ビラ”と言う、A0程度の大きな白い用紙に、筆で一気に
右端に熨斗を赤の絵の具で描き、店名を青色だったかで描き、祝開店と大きな
文字を いとも簡単に描くのだ。子供心に”うちの父は凄いなぁ~”と思った
ものだった。
 小学校時代でも、学芸会でお面が必要になる子がいると 鯛やヒラメの絵を
描いていた。だが、数年後は写真の技術も発達し、仕事は減り、私が小学校
高学年になるころには 貧乏に戻り、私をはじめ 4人の子供たちは毎日ひもじい
生活に戻るのだった。
 だから猛烈に反対したが 息子は聞き入れなかった。
それから数年は 同人誌とか何とかで 年に1、2度 自分の描いた漫画を
自費で印刷し、あてがわれた会場で 売るらしいのだが、結構売れて 時々
帰ってきては”儲かった”などと言い、妹にお土産を買ってきていた。


 話はまた飛んでしまった。開業当時、誰も導入していなかったパソコンを
導入した。星電社で買い求めたものだが、メーカーはIBMで CPUも容量も少なく、
すぐにビジー状態になると言う代物だった。 だが、この道に詳しい男性を
紹介してもらい、いち早くホームページを立ち上げた。
当時は まだホームビルダーのようなソフトがなく、手探りで更新して、
難しい箇所は業者に頼んだ。
街のほうでは わからないが、この近辺で ホームページを立ち上げたのは私
くらいだろう。 当時 ヤフーなどがジャンル別に地域に1社 無料ですぐに
不動産を検索できるシステムに入っていた。

 その頃、事務所に居てると、桑村繊維の前田部長と言う、私より歳は一回り
上であろう。 自宅は加古川で 加古川から曽我井の桑村繊維に通っていたが
その前田氏が出入りしていた。 

前田氏は 元 神戸銀行尼崎支店の支店長を最後に桑村繊維に銀行より斡旋され
て来ていた人で、銀行業務以外の知識は皆無であった。
 桑村繊維と言えば繊維を取り扱う大手産元商社であったが、ここの社長は
マルチ商法主義で すでにクワムラハムなど食品製造もおこなっていた。
 桑村社長曰く 「前田さん。社の方針は 何でも好い、儲けてさえ
貰えば」との事だったらしい。

 前田氏は 当然銀行出身であることから当時 さくら銀行に名称は変わって
いたが、西脇の当銀行の課長であった  小林氏に近づき相談したらしい。
この先輩の前田氏の相談に 小林氏は即座に「部長、当然の事 不動産業で
すよ」。とアドバイスしたらしい。

 桑村繊維にも不動産部門はあった。 しかし、実務経験はゼロ、土地を多く
所有する 当時の産元商社は 自社の土地を売買するとき、不動産免許を持って
いる事は 反復継続して土地売買を禁止する業法違反を逃れるためであった。
桑村繊維以外に宅建免許を持っていたのは他にも 丸萬商店、幸洋綿業等が
有った。

 前田氏は「小林君、当社にも不動産部門があるが、実務経験はゼロ、どこか
ノウハウを得るためにもタイアップできる不動産屋はないか? 
大手なら食われてしまうリスクがあるし そこそこ中程度の不動産屋を紹介して
ほしい」。と頼んだらしい。

 当時 この小林課長は富田産業に出入りしていて 内藤君とは親しくして
いたようで、すぐに富田産業を紹介したのだった。
内藤君は前述でも紹介したが、ちょこっと付き合いは好いが、深く付き合って
いるうちに平気で人を裏切る 狡猾さと猜疑心の塊のような男だった。

 大手繊維産元商社と手を組むことで、富田産業は絶頂期を迎えることになった。
私は まだその頃、東播染工で悶々として働いていたころであった。
前述のように PTA役員を退任した後は 私は富田産業によく出入りしており、
この前田部長とは 顔見知りになり、スナックへも何度も一緒になったことが
ある。

 その後、桑村繊維と富田産業の関係は、桑村繊維が資金を提供し、富田産業が
土地の購入、建物の建築、販売と受け持っていたらしい。
儲けは桑村が70%、富田が30%と聞く。 富田産業は桑村繊維の資金で
土地を購入する際にも 仲介料を取り 建物建築は自社が受け持ち、その利益も
取り、分譲住宅を販売した時にも仲介料を桑村に求めていたというから虫の好い
条件で桑村繊維と手を結んでいたと思う。

 私は東播での仕事が定時に終われば よく富田産業に出入りしていたので
内情は手に取るようにわかっている。
当初は用心深く、下滝野に2区画程度土地を購入し、そこに建売住宅を建築
する。バブルの絶頂期だったから直ぐに売却できた。   これに気を好くし、
今度は上滝野で広い土地を購入した。 そして12区画かに区画割し、分譲
住宅を建てた。 12区画と言えば当然の事、500平米を超えるわけで
開発許可を得なければならない。 基準に沿った道路、側溝、上下水引き込み
区画内に入る道路も4m未満の道幅のものは地権者にお願いして買い取り、
拡幅工事をしなければならない。その他にも いろいろな制約があり、建物を
建築し販売にこぎつけるまでに時間が掛かるものだった。

 ついで社町の藤田地区、そして黒田庄町岡にも大きな土地を桑村繊維に購入
させた。
 その間、野村の某会計士などと知り合い、相続対策とやらの相談事に
のり、上滝野にマンション1棟、西脇の南旭町にあった壽座映画館の跡地に
マンションを建設するのだった。 人の噂に塀は立てられない。
その資金は すべて桑村繊維から資金を流用していたと建設仲間から聞く。

 儲かって当然だろう。銀行で借りれば金利が要るが、桑村からだと一銭も
金利は要らない。
その金が 他に流用されていても 文句を言えない弱い立場に置かれていた。
私には 信じられない関係が続いていた。
そのうえ、桑村繊維から 一人 業務を覚えるためとの名目で出向させていた。

 私が開業し始めてから この以前面識のあった前田部長が 私が事務所に
何度となく尋ねてきた。富田産業からの帰り道は 私の事務所の前を必ず
通らなければならないし、私の車が有れば 立ち寄ってこられた。
開口一番「まっさん。腹がたちますわ。今日も内藤の事務所へ行ったんだが
早く 売れ残っている郷瀬の分譲住宅も片づけたい」。と相談をすると
ソファに座り、片足を組んで 顔を背けたまま 煙草をくゆらせてまんねや」と
憤慨されていた。
「まっさんが もっと早く 宅建業を開業していたら云々」。と悔やまれるの
だが、どうにもしてあげられない。

 「まっさん。郷瀬に売れ残っている分譲 売ってくれまへんか?隣は3500
万円で購入してもらったが、バブルも崩壊した昨今、利益が出なくてもいい、
原価の2800万円で売ってほしい。ただし、くれぐれも内藤に知られないよう
に頼む」。と依頼された。
 後日、私は尼崎から西脇に来て 物件を探していた方に 紹介、売却した。
前田部長も小躍りして喜び、「もうこれで内藤との縁は切りたい。残っている
7区画の分譲地と黒田庄岡に 一区画だけ場所の好い所に残しているが まっさんに
頼む」。と帰って行った。

 数日後、前田部長が事務所に入ってきた 憔悴しきったようすであった。
「どうされました」。と聞くと、「実は あれから内藤に あの残っていた
分譲住宅は うちで処分売却した。儲けもなく売却したので 報酬は辛抱して
欲しい」。と言うと、内藤は「あんたとこの力で売ったのでないだろう。誰かに
売って貰ったのは間違いない」。と言い、「約束通り 当然申し合わせた価格で
売却すれば700万円の益がでるのだから その30%を貰う」。と言ったという。
何という破廉恥な男と蔑まずに居られなかった。

 それからは桑村繊維 前田部長との繋がりは深くなっていったが如何せん
バブルは弾け、郷瀬の7区画、黒田庄岡の1区画は分譲住宅で売却したが
 1棟当たり土地の価格は平均原価800万円、建築費原価1350万円、
販促費用は50万円 諸経費50万円、当時売却価格は2600万円程度に
設定したと思う。粗利350万円、私は 強欲でないので 売却価格に定め
られた報酬額しか取らなかった。すなわち2600×3%プラス6万円と
消費税 約100万円程度しか桑村から貰わなかった。
とてもとても3500万円などと言う 分譲住宅価格は設定できなかった。
なぜなら、その頃から アイフルホームと言う 強敵が表れてきたからだ。


 その後も 商売は順調であった。平成7年1月17日 神戸・淡路大震災が
起きる。 当時はひっきりなしに”借家はないか?アパートはないか?”との
問い合わせがあった。

 余談だが、あの震災の影響は凄まじかった。 死者を荼毘するにも火葬場も
混雑していた。当時 西脇市の火葬場は八日町と言う 小高い山の上にあった。
そこへ ひっきりなしに霊きゅう車などが出入りするのである。
当時の火葬場は効率の悪い 重油などを使っていたので 時間が掛かったようだ。
この後、数年後に 火葬場は寺内に移転した。 斎場も大広間2間、家族葬用
部屋が1室を備えた 近代的で衛生的な火葬場が出来上がった。
西脇の斎場は安い。 西脇の一つだけの取り柄だと思う。私も母を見送ったが
斎場利用料は確か30万か50万円までだったと思う。
 街の親戚の葬儀に行くこともあるが、最低でも150万円は掛かると聞く。

 さて 大震災のその年に 信用を得るのと 金銭の授受を明瞭にするため
法人組織を行った。
当時、株式会社設立には1000万円が必要、有限会社ならば300万円で
あった。 従業員も雇っていないので有限会社にした。
今なら1円で株式会社を立ち上げられるのだが、 このころ、支部の役員に
なってほしいとの要請があった。
当時、支部は 野村の七福建設の2階事務所から 旧西脇駅前の商工会議所
7階の一室を借りて移転していた。
支部長は西脇支部4代目の村岡實氏だった。 彼は 良い意味で言えば豪傑
悪い意味で言えばヤクザ顔負けの人だった。
姫路に居た頃、姫路のヤクザ 竹中組の若い衆と渡り合ったというから
恐ろしい。
彼は50歳の時に支部長を拝命したようで、私より一回り年上だった。
 酒豪で、腰を据えて飲めばビール大瓶1箱(20本)を平らげる人だった。
ちなみに西脇支部の初代支部長は西脇でも資産家の西面要次氏、2代目は
西脇不動産と不動産業を営んでいた森野氏、3代目は 野村の有力者だった
神戸氏である。
 西脇支部は織物で隆盛を極めているとき、氷上の業者がお零れを貰うため
西脇支部に加入させてほしいと 支部設立から西脇支部会員として加入して
いた。 そのように会員の範囲は広く、西脇市を中心に多可郡(現多可町)
氷上郡(現丹波市)とに広がり 会員数は120社を超えていたように思う。

 支部役員と言っても 支部内で総務部・財政部・広報部・研修部・相談業務
公取綱紀部などが有り、どれかの部に属し、月に2~3回の会合を持つくらい
と、年一回の不動産フエアの日には どこかスーパーの片隅を借り、それに
2日間程度張り付くのと、年に一回 宅建主任試験が有り、各支部から監督員
として数名派遣されるのだが、半日張り付いていて 15000円の報酬を
貰うのだった。

 そして平成12年の年だったか? 20年も支部長に居座り続けている
村岡支部長に 批判が殺到していたようだが、本人も潮時と思っていたのか?
歳も70歳となり、支部長職を辞す覚悟をしたようだった。
その春、支部総会を1泊2日泊りで三朝温泉へ行ったのだ。1日目は島根の
大根島へ行き、ボタンを楽しみ、足立美術館へ行き、菓子城を見学した。
旅館に着いてすぐに大広間を会場に使わせてもらい、総会が行われた。
 現支部長の意向で 我々も押していた議長は加美町の森安木材店の森安氏に
託された。
審議は始まり、議題は順調に進んでいった。そして支部長選出が始まった。
会場は一時 荒れた。が、朝田木材社長の朝田氏が選ばれた。
 あくる日は 当時 開業し始めた”鳥取花回廊”などを見て帰った。
 
 総会が終わり、ゴールデンウィークに入った。私は釣り仲間とともに日本海へ
向かっていた。その時、携帯に電話が鳴るのである。

出ると氷上の役員で、「増田さん あんた聞いてるか?」私は「えぇ何の事?」と
問い直すと、「村岡支部長が 朝田氏を選出したことで 立腹、もう一回
臨時総会を開いて選出しなおせと言っている」。 
 私には寝耳に水で事情が分からず、”帰宅すれば出会おう”と電話を切る。

 さて西脇支部へ役員連中が集まった。どうやら村岡氏は自分の退任にあったって
上比延町の弘和観光の長井義輝や森安製材所の森安氏に”自分より若い者を選べ、
支部長になるのは氷上や多可でなく、西脇の会員を選べ”と支持を受けていたらしい。
 それを両人は見事 裏切ったようだ。
まぁ森安氏は 議長として座っていたので会員の採決をとるのに自分が異議を
出すことはできない。

 私たち役員は 村岡氏宅へ呼ばれた。 それより少し前には長井義輝氏も来ていた
と聞いた。
村岡氏は長井氏を一括し、「今すぐ 朝田に支部長の座を受けないとの約束を取り付
けてこい。それができなければ承知しないぞ。」と恫喝したらしい。
氏は この剣幕に恐れおののき すぐに朝田氏の元へ駆けつけ、本人から「辞退
する」。との確約を取り付けたらしい。
 
 こんなことを言うのは憚るが、長井氏も なかなかの隅に置けない人間である。
 しかしこの村岡氏にだけは歯が立たず、頭が上がらなかったらしい。
こんなエピソードを聞いた事が有る。 当時 神戸理事会や委員会には支部長と
長井副支部長が行っていた。 
ある日 淡河町の手前まで来たとき、何か二人 口論をしたのか? 村岡氏が
”ちょっと車を降りろ”と長井氏に言ったという。
二人は飲んでいたのか? 長井氏は ビビり、何かされると思ってか?
その場から逃げ去ったと聞く。 それほどに この支部長に恐怖を抱いていた
のだろう。
 彼がまた そのような淡河町の山中から 夜中に自宅へ帰ったかは分らない。

 さて そのあと、我々が呼び出された。 村岡支部長は「増田、お前が支部長に
なれ、ネーブル吉田は 増田を補助しろ」と言うのだ。
吃驚した。思いもしないことである。 だが、総会で一度決まった事を覆すというのは
前代未聞である。
臨時総会をアピカホテルで開いた。 私は頭が真っ白になっていて私を指名したのは
その時だれだったか覚えていないが、”一度選んだ者を覆すとは”と怒りの声も上が
ったが、誰も村岡氏に逆らう者は結局居なく、満場一致で私が選ばれた。

 さてそれからが大変である。 支部長職を預かったが、前支部長は相談役として
置くことになった。すなわち院政を敷くことである。
しかし私が引き継ぐことで 不明な預金通帳が出てきた。私は意を決して 詰問した。
それは”兵政連”との名義であった通帳だった。残り金額は確か100万円は切って
いたが、問い詰めると 開き直って「その通帳をわしの名義にしてくれ」と言うのだ。
押し問答が続いた。
 聞けば 本部の今村会長の頃に 政治向きに使うなら 適当に使ってよいと預かった
金員だという。 兵庫政治連盟の略で、バブル当時 支部運営を行いやすくするために
政治家に献金など行う目的で置いていた金だという。
 いかに どのような理由があるにしろ、総会を通し、会員の了解を得てからにする。
と言い、押し通した。

 後日、この金は きれいに処分するため、政治家と食事を共にするとの名目で
会員の中から参加者を募り 神戸市三宮の料亭に、三木の鷲尾氏、多可の内藤道成氏
氷上の石川憲行氏など県会議員んを招待して議員を囲み、食事代とマイクロバス代に使った。
国会議員の谷氏や 井上氏も招待したが 日程の調整がつかないとのことで欠席された。
他には 司法書士の吉田康男氏も招待した。

 やはり院政を敷くといっても 地位を離れれば 次第に力は及ばなくなる。
私は 西脇支部の5代目支部長として 本部からも選任状を受けることになる。

 受けて2年目だった。当時 会長は今西氏から高砂市の実力者でもあり、不動産鑑定士
でもある陰山卓司に代わる。
 陰山卓司氏が公約で目指したのは”支部統廃合”だった。 このころ、小泉純一郎の
時代になり、不良債権処理や自治体の統廃合を進めていたころだ。
それを真似て 県下、27支部だったか?あるものを14支部にすると言う 大胆なものだった。

 当然 地域の支部は反対する。特に反対したのは龍野支部と赤穂支部だった。
龍野支部は了解したが、赤穂支部の石原支部長は気骨者と言うか、断固として受け
入れず、 同級生だったという龍野支部の支部長にも反論し、とうとう それが元で
体調を壊し、龍野の支部長は他界された。

 他にも神戸西区や垂水支部など反対が多かった。 そんな中、西脇支部は手ごわいと
思われたのが私が支部長になり 中央は”取り組みやすい”と安心したのか? 三木支部
(三木市・吉川町)、播磨中央支部(小野市・加西市・加東郡社・滝野)西脇支部(西脇市
・多可郡・氷上郡)に統廃合するよう求めてきた。

 私は奔走した。三木支部や播磨中央支部などは、言っても同じ県民局管内。西脇支部は
氷上郡を抱えている。氷上は柏原土木局管轄だ。
何回となく ”丹波年輪の里”へも行った。 今後も同様に西脇支部として歩もうと
言う者、氷上で支部を作ろうと言い出すもの、いや武庫の流れに沿って三田、宝塚と言う者も居た。
なかなか纏まらない。 4度目に氷上会員全員 再度 年輪の里に寄ってもらった。
会員の中には 「氷上支部を立ち上げるべし」と叫ぶ者もあったが、本部は支部を減らそう
としているのを逆に増やす事は考えていない。
ここは 三田支部と統合するしか手はないと説明、 結局 賛否両論で結論が出ないので
西脇支部で残っている2000万円程度の金員は全会員 平等に分かることを前提に
どちらに行くか?投票にした。
 僅差だったが、三田支部に行く票が多かった。私としては 予定通り、胸を撫で
降ろした。
 当時、三木支部長は野津氏、元刑事上がりの老人だった。播磨中央支部は高橋昇一氏。

 とりあえず3支部統合するということで 誓約書を作成し、3支部長が署名・押印した。
この時期、富田産業の内藤君が 擦り寄ってくるので役員に加えてやった。
まぁ この道に入ったきっかけも彼が示してくれたものと 思っていたからだった。
しかし、それは獅子身中の虫を抱え込むことに等しく、後日 裏切りと言う形で現れた。
一応、調印式と言うことで、会場は 滝野の”滝寺荘”で行うことになる。

 後は支部を何処に置くか? 色々検討したが 北播磨県民局に最も近い、播磨中央支部が
最善だろうとの結論に至った。

 さて事務局員は誰を置くか?と言うことだったが、播磨中央支部の事務局員が一番しっかり
していたので これともう一人 事務局員を置くことにした。

 西脇支部には 豪華な支部長の机や椅子、それに豪奢なソファが有った。
私は それを西脇支部会員に知らしめたうえで、競売風に売却にかけた。違法かどうか
分からない。
それとともに 新しい支部発足の為にも 必要かと思い、競売に新支部も参加させた。
思い通り、一番 指値の高い指値を入れた新しい北播磨支部に買い取られることになった。

 残るは支部の財産である。この2000万円余りの財産は 昔 緑風台を分譲した際、
工事を請け負っていた 建設業大手、長谷川工から迷惑料として預かった金員と
聞いていた。
 当時 社団法人であった支部・本部は 法的には財産を会員が受けてはならないらしい。
しかし、それでは会員は納得しない。
私の一存で 責任を持つといいうことで、名目を”親睦会費”とし、会員が積み立てた
金として 旧西脇支部会員に振り込んだ。

 このことを本部は目をつぶっていたようだが、嘘か誠か知らないが、後で聞くと
「支部長の采配でしていることをとやかく言う事も出来ないし、肝を冷やす思いだった」。
と本部は思っていたという。

 このころも商売は順調で 新しい北播磨支部では副支部長として 神戸の理事会や
委員会に週1~2回通っていた。
何時も神戸へは東条を通り、吉川を抜け、三木市淡河町を通り、鈴蘭台を抜け
長田に出て、再度山の下を通り、県庁の脇を通って、県庁下の長狭通りに所在する
兵庫宅建本部に執務しに行っていた。
7年ほど通ったことで、不動産会館へは目をつぶっていてもいけるようになっていた。

 委員会が終わった後は よく飲み会にも参加した。 アクセスのよい、姫路支部や
尼崎支部などは 飲んでも電車があるので好いが、私は車である。
飲んだ後は 決まって 三宮サウナに行き、最上階のジャグジーに入り、サウナに入り
そしてカプセルで寝たものだった。カプセルでの睡眠は快適だった。
そして、翌朝早く、自宅へ帰る、そのような活動を6年続けた。
そのようにしていても 仕事は順調で、当時 加西市の鶉町に ある機械メーカーの
会社の お偉いさんで 河野氏と言う方が、縁あって知り合う。この方はもともと
高砂の人だが、加古川の日岡神社の近くに住んでおられた。

 新野辺に沢山土地を持っているのだが、急がないので売却してほしいと依頼された。
この方は、義理堅く、地元の悪質業者が直接 売却をさせてもらうよう、訪ねてきても 
”マスダ不動産を通じてきてくれ”と断っていたと聞く。
6年掛かって処分させて頂いた。 残念なことに病にに倒れ、亡くなられたが、この
奥様がまた 義理堅く ”続けて処分は続けて任せる”と 私に依頼されてきた。
 
 本当に私は ついていたと言うか、恵まれていた。奥さんはその後、自宅も私に
売却を依頼され、ご自身は神戸の再度山に住まわれていたので、不動産会館へ行った際に
報告しなければならないときは、県庁のレストランで時間を合わせ、報告していた。
 その後、加古川の自宅が売却できて、安心されたのか、芦屋にマンションを購入し
住まわれている。
 
 奥さんは絵が趣味で、油絵を描かれていた。神戸に住まわれているある日、北野坂の
物件を借りて個展を開かれた。
招待を受けたわけではないが、妻と行き、拝見させてもらった事が有る。
 彼女は この個展を開くことで 何か心の区切りをつけたかったのだろうか?
どんな家庭にも事情があるが、主人が亡くなり、奥様に後程聞いたことだが。ご夫婦の
間には二人娘さんが居て、その内の一人に他人にも言えない事情があった事を後日
 知ることになる。