喜寿をむかえた男の遊々生活!

喜寿を迎えた老人の日々を日記に・・・

思いつくままに 追憶その6

2018-07-11 08:35:35 | 日記
豪雨明けから 急に暑くなった。被災地の方々は大変だろうと 心配する。

さて今日も取り留めない話を、以前 このブログに書いていたと思うが、私は
大阪市城東区今津町で生れた。 家は活版印刷を行い、家には祖父と、父と
妹の3人で暮らしていた。 妹は高島屋かのデパートに勤めていたらしい。
 当時デパートガールと言われ花形職業で有ったようだ。
祖父は楽隠居をしていて、播州などで所帯を持ったりする息子、嫁いでいる娘の
ところへ よく行っていたようだ。

 昭和14年に祖父は 気管支喘息の発作で自宅2階で亡くなり、その後、太平洋
戦争が勃発、その戦争の雲行きが怪しくなったころに 徳庵の駅前にある
『亀乃屋』と言う料理屋の店主の世話で、父は 母と結婚し、妹は、亀乃屋の
長男である、すなわち店主の息子と、二組のカップルの仲人を行ったようだ。

 私は昭和19年4月1日、病院で夜中0時きっかりに生まれたという。父は喜び当時
今津町の役場へ届出する。 1は縁起が良いと思ったのか 正直に4月1日を出生日
とした。が、役所での年度末は3月31日でなく、4月1日だった。

 戦況は日増しに悪化し、私が生まれたころから 空襲が激しくなってきたらしい。
灯火管制が敷かれ、父母は何度となく、私を抱えて防空壕へ入ったと聞く。

今津町の近隣には近畿車両が有り、ある日、軍の関係者が来て、「近くに近畿車両が
有り、爆撃の的になる恐れがあるので立ち退きされたい、それと印刷機はお国の
為に供出せよとの命令で二束三文で買い取られたらしい。

 父母は疎開先を思案した、母の祖父方の出身は滋賀県伊香郡高月である。
母方の祖父は 片桐源五郎と言う、ゲンゴロウ鮒を連想する名前であった。
祖父は次男坊で、家督相続は長男の市助と言う祖父の兄が継いでいる。
 ちなみに家督相続後、分家した祖父は 大阪船場の糸さん(お嬢さん)と大阪の
野田で所帯を持ち、大阪造幣局に勤めていたらしいが、当然のことながら子供が
生れる。長女は大正9年生まれか?で、母は大正12年に自助として生まれた。

 ところが、長女は虚弱体質で尋常小学校低学年の頃、亡くなったようだ。
母は、姉の事、みっちゃんと呼んでいたが、それ以後、 祖父は悲しさを酒で
紛らわし、造幣局を辞めたようだ。家の暮らしはたちまち苦しくなり、母は
口減らしに奉公に出されたという。

 まぁ母方の伯父の家を頼っていけば 豪農だし食べることは問題ないと思った
ようだが、父は 男の沽券にかかわると思ったのか、当時 播州に嫁いでいた
姉を頼り 疎開する。当時 多可郡日野村市原村と言われるところ、現在は
西脇市市原町になっている。
 市原の姉を頼ってきたのだが、父の姉の婿、すなわち父にとって義兄だが
生業に 馬喰をしており、気性の荒い男だった。
 市原の妙覚寺と言うお寺の前に当時は数件しか家はなく、この義兄の持つ
田の中に 納屋が建っていたらしいが、そこに住むことになる。
 住み始めたころは秋になっていただろう。母は 伯母とともに、田のタニシと
言う貝を拾ったり、芋のツルを拾い集めていたようだ。
ある日、イノシシが納屋の近くの畑に入って 作物を荒らしたようだ。それを見た
義兄が”お前ら 何のために 此処に置いてやってると思っているのだ。
イノシシの番に置いてやっているのに”と罵倒したらしい。
そんなこともあり、数か月後、父にも友人ができたのか?友人の勧めで、後葉山
(現羽安町)へ引越しし、その1年後、野中町の吉田さんと言う家の離れを借り、
その後、また父の友人の勧めで、野中町徳部野(今は1本化して野中町)へ
 小さな平家の家を建て 引っ越しする。私が3歳の頃だった。

 小さいながらも我が家を持った父はどんなに嬉しかったか?想像するに難く
ない。その頃に次女が生まれる。
父は優しく、仕事の絵の合間を見つけては近くの”ぶーさん池)”と呼んでいたが
そこへ野鮒釣りに連れて行ってくれた。お粗末な仕掛けであったが、針に飯粒を
付け、水がきれいなので鮒が居るのを目で確かめ、目の前に餌を持っていくと
釣れた。 私が釣り好きになったのは この時かもしれない。釣りは「鮒釣りに
始まり、鮒釣りに終わる”との格言は 簡単な鮒釣りから晩年はヘラブナなどの
繊細な金の掛かる 動かなくても好い釣りに代わることだと思っている。

 さて、私も昭和24年には幼稚園に通うことになった。日野地区では まだ
幼稚園と言うものがなく、昭和24年開園され、私たちが一回生だった。
幼稚園での思い出はない。ただ入園式の日、母と別れる寂しさから 号泣して
いた覚えだけがある。

 昭和25年、日の小学校へ入学する。入学と言っても、小学校は隣だ。
だが何もかも新鮮だった。
1年生の時の先生は市原町出身の松原先生だった。先生は幼心に 綺麗で
優しい先生だった。 2年生になっても持ち上がりで松原先生だった。
特に 印象に残っているのが学芸会で 題は”おむすびコロリン”だったように
思う。当時 SPの蓄音機が有り、音楽に合わせて踊ったりしていた。
 このころ、先生との記念写真が私のアルバムに今でもあるが、子供の服は
マチマチ、着物姿も居れば、セーターを着ている姿、学生服も着ている子供が
居たが、織屋の息子など 裕福な家の子供たちだけだった。
 履物も、草履やゴム草履、ゴム靴などだった。靴下も履いていない者も
居れば 足袋をはいている者もいた。
 真冬には服の袖は 皆 テカテカと光っていた。あの頃の子供は寒いとき
青鼻を垂らしていた。今のようにテッシュなどなく、服の袖で拭くのだ。
それが干からびて 乾くとテカテカ光る。 それと当時、殆どの子供は霜焼け
をしていた。耳たぶ、手足の柔らかいところ、赤く膨れ上がり、掻くと痒かった。

 3年生になると担任は代わり、笹倉タマミと言う、羽安町の女先生だった。
この先生は厳しかった。ただし、貧乏人の子供に対してのみ、依怙贔屓の強い
ヒステリックな先生だった。 私の幼友達に宮崎君と言うのが居て、何時も
忘れ物をして、家まで取りに帰らされるのだ。 当然、その日の授業を受けて
居ないので、あくる日も忘れ物をする。また取りに戻らされる。
終いに 賢くなって、市原に藤本自転車屋が有ったが、店主が父の友達である
ことをしっていたので 私が”おっちゃん 自転車貸して”と言うと快く貸して
くれた。二人で相乗りして家へ帰るのだ。時間は余る。二人は勉強もせず遊んで
いた。 先日も 小学校卒業の同窓会を開いたが、笹倉タマミ先生の話が出て
女子は一様に”怖い先生だった。よそ見すればチョウクが飛んできたり、竹の
節の根っこ部分で机を叩かれた。と言っていた。 
晩年、友人の選挙運動で 事務所に一緒になった時がある。先生は懐かしそうに
声を掛けてきたが、無視してやった。それが効いたのか? 私の前に二度と
現れなくなった。あれからどうしているのか?地元の友達に聞くと、子供もなく
老人ホームに入っている。と言う事だった。

 4年生は宮下先生、男で中畑出身の方だった。年配の方だったが、教え方は
上手だった。剣道も有段者で 後に日の小学校の校長となられた。
私は この頃から体調が思わしくなく、登校したり休んだりの繰り返しだったが
放課後マンツーマンで教えてもらった。

 5年生は高瀬先生と言う 男の先生、今でいう きざっぽい感じだったが、
余り印象にない。と言うのも 私は このころから休みがちだった。
校医は市原の吉田先生だったが、市原の吉田医院へ通院していた。病名も
『類似結核』と名付けられていたが、おそらく栄養不足によるものだろう。

 6年生は津万から来ておられる森田先生だった。 熱血漢風の先生だった。
その頃、体調も大分ましになってきたが、修学旅行は無理と吉田先生から
言われ、森田先生も その気でいたようだが、父が 頼みこみ、連れて行って
貰った。
当時 定番の奈良京都巡りであったが、行く先々で、吉田先生と、森田先生に
背負って貰った。 当時旅館は京都の「イロハ旅館」で有ったが、夜の外出は
許可が出なかった。

 社会人になって昭和40年頃だったか?我々が小学6年生の頃、A組の担任の
熊本先生、B組の森田先生を招き A・B組合同で同窓会を開いた時があった。
 森田先生と昔話に花が咲き、この先生も酒が好きで、「増田、一緒に飲もう」。と
言われていたが、亡くなられた。

 さて日野小学校の近辺には昔ながらのお店が2店ある。一軒は「ウナギの橋本屋」
もう一軒は「宇野パン屋」さんである。
幼い頃、ハエナワの一種であろう ツケバリと呼んでいたが、私の家の近くに大池が
ある、その下は徳部野川と言う、大池から杉原川に流れ込む小さな水路があるのだが
此処へ ツケバリを漬けるのだ。エサは主にミミズ、明るいうちは小魚が来るので
暗くなるまで待って、何本も針のついた仕掛けを漬けておく。
夏の 早朝 明るくなる5時ころ、仕掛けを引き揚げに行く。すると大半のウナギは
身体を捩って白い腹を見せて死んでいるのだが、中に生きているのが数匹居る。
それを持って、橋本屋へ持っていくのだ。一匹20円か30円で買い取ってくれるの
だった。

 さて宇野パン屋へはよく行った。家は非農家で食べるものは配給であたる乾パン
また米と言えば外米と言われるパサパサした米であった。
だが、これでも買えればよいが、手に入らない。 母は それに麦を加え炊くの
だが、麦は釜の表面に浮く。それをこそいで、アルミの弁当に入れてくれるのだが
弁当箱を開けると表面が麦で黒い、おかずはタクアンくらいで、表面にはかつお節を
乗せたもに、母は時々、私に15円持たせて 宇野パン屋でパンを買うようくれる
のだった。宇野パン屋へ行き、食パン一切れを切ってもらい それを半分に切り、
間にジャムを挟んでくれるのだ。
 友達は羨ましがって、「わしの弁当と替えてくれ」と言い出す。
私は”待ってました”とばかり、交換するのだった。 銀飯がこんなに美味いとは、と
つくづく思った。

 宇野パン屋は昔と今も変わらない。変わったのは周囲だ。その頃、右隣に確か
青木精米所が有り、その南隣に精肉屋が有った。精肉屋は 名前は覚えだせないが
日野派出所勤務だった巡査が 定年後に夫婦で精肉屋を営んでいた。
 ちなみに派出所は昭和の終わりごろか?平成始め頃までは 日の小学校の正門の
前にあった。 大分前、隣に小さな家が有り、そこにはお婆さんが居て 一人暮らしで
三味線などを教えていた。

 その隣、現在 美容院を営んでおられるが 美容院から東は農協購買部が有った。
食料品、日用品、電化製品などを置いていた。 その前、サンパル日野と言われて
いる建物だが、日野農協金融部であった。
日野農協購買部の東隅には貸本屋が有った。 市原の現藤井工芸店のお母さんが
貸本屋を営んでいて、私は よくこの貸本屋へ本を借りに行っていた。
その頃、番号で借りていたが、私の顧客番号は33番だったことを覚えている。
 その交差点向かい側は今でもされているのか理髪店 きっちゃんと呼んでいたが
正式な名前は覚えていない。

 対面の角には朝井食料品店が有った。当時 大きな食料品店と言えば、この西田の
朝井食料品店か、市原の朝井食料品店 店主は姉妹だったと記憶している。
それと市原の”亀さん”と言われる食料品店だった。
 その前には”セーダーさん”と呼ばれる 日用雑貨品店が有り、その下手には
内橋酒屋が有り、 私の従姉の隣には将鶴(字は違っているかもしれない)
と言われる旅館が有った。
 市原にはユーモアたっぷりの人が居た。 今は街の塗料会社が購入していて
豪農の家と銘打って公開しているが、元々 村井茂平?とかの所有で、この方は
頭が良かったらしいが、”天才とキチガイは紙一重”との言葉があるように、モエ
はん(通称)は何時も 着流しで市原橋の橋の上をウロウロされていた。
何時も 顔にはエヘラエヘラと笑みを浮かべ、幼心に気持ち悪かった。
数年後には亡くなられたのか?姿はみかけないようになったが、その後釜なのか?
モエはんよりは若い方だったが、同じように橋の上をウロウロしていた。

 もう一人は旅館将鶴の跡取りで テェキッちゃんと呼んでいたが、会話が上手に
出来ない吃音症だった。
何時もで会えば「キョキョーきょうちゃん」と声を掛けてくる。従妹の家の近くで
幼い頃から よく知っていたし、何も悪気がない人だったので 話には応じていた。
この旅館は城崎温泉の老舗旅館と姻戚関係にあるという。

 まぁ小学校での思い出も数限りなくあるが、運動場は今の半分くらいで堤防側へ
竹藪が連なっていた。 運動場南西側には土俵が有って、よく相撲を取っていた。
当時 コメの消毒に有毒のパラチオンと言うのが撒かれていた。 刺激臭は教室に
まで入ってきた。
今では火葬は当たり前になったが、当時一般の村では土葬が普通であった。
被差別と当時言われていた前島地区では 当時から火葬を行っていてので
運動場で遊んでいると 風向きで毛が焼けたような臭いが漂っていた。
火葬場が有った場所は 現在、前島の天神橋西に公園となっている。
前島には 当時 村の真ん中にお寺が有り、住職は今村と言う人で、娘さんが居て
今村淳子と言い、私たちと同級生だ、いつしか住職は代わり 誰か知らない。
 淳子さんは東京に結婚して住んでおり、同窓会の案内状を送ったが、後日
主人から電話が有り「妻は行きたがっているが、耳が全然聞こえなくて云々」との
行けない返事をしてきた。

 さて今日も取り留めない話をワープロをポンポン打ってしまった。
宅建業に入ったころから、ワープロパソコンを打つのも早くなった。独学で手元を
見なくてもポンポン打てる。 この文章を打つにも1時間掛からない。
当初、日本語ワープロでチトシハマニロレだったか?の順で覚えていたがローマ字
カナだと覚えるのも簡単だ。
ただし、記憶を呼び起こすのに時間が掛かるのと 読み返さないため誤字脱字が
心配される。
誰がこのブログを読むのか分からない。 子供たちは時々見るようだ。感想はと
言うと 娘は「うーん、重いかな? まぁええんと違う」。と言う。
 息子も時々聞くと、「豆やな~」と感心する。
歳をとると 古い事を思い出すようだ。そういえば 世話になった在田章氏も
戦争中の話をよくしていたし、嶋田松次氏も戦争中の話をよくしていた。

 黒田庄福地の村精織物㈱の村上利彦氏など、四国へ昔、宅建を開業したころ
釣りに一緒に出かけたが、土佐高知に「見晴旅館」と言うのが有り、ここの主人や
女将さんに徐行さん集めの際、長い期間逗留し、世話になったと聞いた。
そこへも寄ったのが2月の寒い頃だった。 この辺は旧の正月を祝うとのことで
行くと 旅館は廃業されていたが、歓待された。
 昔居た 仲居さんを呼ぶといい、靭料理や 様々な料理を出していただいた。
いわゆる皿鉢料理である。 その世は ふかふかの羽根布団で寝かせていただいた。
翌朝、西海中泊まで行くのだが、その頃、ツバメ渡船にも 顔が売れていて
ツバメの吉田船長は「増田さん。どこの磯に乗る」。と優先して良い磯に上げて
くれていた。 村精氏も当然 良型グレを釣って帰らせることができた。

 行く道中は その頃、片道8時間はかかったと思う。村精氏は 昭和3年生まれと
言うから16歳上だったか? 若い頃から仕事熱心であったが、遊びも盛んで、
外に愛人も居て、その間には子供も居た。
ゴルフ場は5~6箇所持っていただろう。 だが、バブル崩壊前に織物工場を閉める
決意をしていたので、小野カントリーや西脇カントリーなど残し、他のゴルフ場は
好い条件で手放していた。 彼は何事にもついていたのだろう。

彼は私が運転している車の中で 何度も同じことを話ししてくる。終いに聞き飽きて
「社長 その話 もう4回目でっせ」と失礼と思いながらも言った事が有る。

氏は 昔からの名門で その昔は三草藩の管轄で、庄屋だったらしい。
氏は長男でなく、次男だが、兄が教師をしていて、その兄は親の後 氏に託したらしい。
蔵の中には 刀一振りと 槍1本。丸山応挙が逗留した時に お礼として貰ったと
言う 一幅の掛け軸があった。
 後日、小遣い銭が欲しくなり、この掛け軸を持って 京都美術館へ行ったという。
ところが鑑定士曰く「確かに丸山応挙の絵に間違いなさそうだが、暇を持て余して
描いた物か、あまり評価できない」。と言われ、持ち帰ったそうだ。
その氏も、平成27年に亡くなられた。 また一人また一人とお世話になった方が
この世を去って行ってしまうのは寂しい事である。