喜寿をむかえた男の遊々生活!

喜寿を迎えた老人の日々を日記に・・・

無神論者だが不思議に思った事。

2018-07-04 09:58:16 | 日記
 今週の日曜日、毎日の日課のラジオ体操にWiiでの筋トレ、毎月一日と
父の月命日六日、母の命日十六日には決まって 仏壇に手を合わせ拝む。
真言宗なので 経本を手に 開経偈、懺悔文、三帰、十善戒、発菩提心真言
三摩耶戒真言、十三仏真言、般若心経、光明真言、大師宝号、回向、光明文と
経本に書いてある順序に読経を行うのだが、時間にして僅か5分程度。

 このように仏壇に手を合わせる私だが、宗教心があるのか?と問われれば
全然ない。
仮に願い事を行うとすれば、遠く離れて暮らしている愚息二人と 娘一人の
幸せを願うくらいで、自分の事は このように病気もせずに 元気で暮らして
いる事への感謝の念のみ、

 父は信仰心があつかった。幼い頃 見ていた父は 毎日のように仏壇に手を
合わせていた。
 それが何時頃だったか? 50歳を前にして 喘息が出始めた。気管支
喘息で、発作は冬でなく 夏に出るのだ。
父の父親、私にとっては祖父だが、祖父も又 気管支喘息を患っていたらしい。
昭和16年、父は大阪で印刷屋を営んでいたが、祖父は2階で 書き物をして
いる途中に発作が起きたのか? 父が仕事に一段落したときに1階の作業場から
2階の父を見に行くと 座机の上で うつ伏せ状態で、事切れていたらしい。

 父は 祖父から喘息を引き継いだことで、落胆し、”こんなに苦労して その
上、病気まで・・・こんなことなら仏さまなんか祀らない”と言ったことが
記憶にある。

 父にしてみれば 母、私にとっては祖母だが、妊娠中にお堂で躓いたらい。
それが原因で、臨月になり、産婆さんに取り上げられた父は 身体障害者で
産まれてきたのだった。産婆さんは それを見るなり、祖父に向かって
「きのこカタワや、絞めましょか?」と言ったらしい。
それを聞いた祖父は 「縁あって この世に生を受けて生まれた命、生かして
やって欲しい」。と言って 一命をとりとめたのだった。
 だからなおの事、信仰心が篤かったようだ。

 そんな父を見てきている私だが、妙に信仰心と言うものがない。
創価学会や キリスト教などが 入信を言ってくるが、”イワシの頭も
信心から・・・、道端に落ちている小石も 有り難いと思えば有り難い”と
取り合わない。

 だが、不思議な事に そんな私だが、昭和46年、忘れもしない5月6日
私は夜中に夢を見ていた。 同居している父が 夢枕に”亨二、亨二”と
呼んでいるのだった。
 明け方、早朝 父と一緒の部屋で寝ていた母が”亨ちゃん 大変や”と
叫ぶので 私は”あぁ 親父が亡くなった”と思った。私が26歳の時だった。

 享年58歳となっているが、父は大正4年生まれ、満で言うと56歳だった。
こども好きで 私が翌年 家を建て 嫁を貰う事になっていたので 楽しみに
していただけにショックだった。

 母の時もそうだった。母は大正12年生まれ、90歳で亡くなったが、
平成22年3月16日早朝、夢枕に 何も言わず 出てきたのだった。
単なる偶然、と 私は妻にも言うが、妻は 私よりは信仰心の篤い女。
それを聞き、”お父さんは 何かもっているのだ”と言うが 特別何も
ない。
 だが、そう言えば、若い頃 死に損なった事がある。 まだ18歳と若い
頃 単車に乗って小坂町の狭い道路を走っていると 横から犬が出てきて
巻き込んだ。
 民家のブロック塀に強かに身体を打ち、気を失っていた。気が付けば
病院のベッドの上、レントゲンを撮ったが、骨盤に亀裂が入っているだけで
安静にして居れば手術もしなくても自然に 骨がくっ付くと言われたのだ。

 また若い頃、一人で日本海の浜坂へ 地磯へ釣りに行っていた。
ロープを伝い、急な絶壁を下りて釣をしていた。
場所は通称”エイシャン”と言われる 地元では有名な地磯で、だが、危険な
所で、今までにも数人の人が この場所で亡くなったらしい。

 10時頃に納竿し、ロープをよじ登り、車の置いてある場所まで帰る途中
だった。
どうやら道に迷ったようで、冷静になって眼下を見下ろすと、僅か下5m程が
雑草が生い茂っていた分からなかったが、その下は崖だったのだ。
少しでも足を踏み外せば 滑落し 遥か20mはあろうかと思う下に夜光虫に
よるものか? 白い波が青白く光っている岩場に叩きつけられ即死していた
かと思うと、肝が縮かむ思いだった。

 夜の山道には慣れているはずだったが、だが磯際にはクマザサなどが多く
これと言った目印になる木もなく、ヘッドライトが照らす 木の葉が光で
乱反射して 幾人も通らない山道を消し去り、分かりにくくなるのだった。

 渓流釣りの時もそうだった。矢田川をホームランドとしていた頃、当時
禁漁期間もなく、雪が降り積もった日だった。
早朝に家を出て 遠阪峠も今のように有料トンネルはなく、ひたすら現地へ
午前中に終う予定だったので 食料も持っていない。持っているのは予備の
エサ、イクラのみ。
早朝の雪は 凍てついて表面は固く、歩いて上流へ行くのも足元は沈まず
軽快に釣り上がって行った。
その日も 数十匹のヤマメを釣り、小代渓谷の上流にまで釣り上がった。

 その日は結構暖かかった。10時頃に下山に向かった。 渓谷から山道へ
でると、なんと表面の雪が柔らかくなっていて 朝 足首しか沈まなかった
雪が 股下まで沈むのだった。
”こりゃダメだ”と思い、また渓谷に下りて 川伝いに歩いて麓を目指すの
だが、滝のようなところや段差の大きな所がある。 遠巻きに歩くには
また股下まで雪に埋もれる。
時間を見ると2時、腹は空くし、身体は言う事を聞かない。 じっとして
いると寒い。 それも辛抱して休んでいると 今度は眠気が襲ってくる。
”そうだ、イクラがある”と思い出し、瓶詰めのイクラを頬張った。
”辛い” 飲み物もないので雪を頬張る。

 少し元気が出てきて 麓に向かって下りて行った。一歩づつ一歩づつ
やっと車が見えてきたときに 地元の人が掻いていたのか?雪が少ない。
すると足に羽が生えたような気持ちになった。
時間を見ると4時半、辺りは もう薄暗くなっていた。
 今になって思う。あの時、諦めて 眠気に負けて 1時間でも休んでいれば
今頃どうなっていたのか?

 また昭和62年の1月だった。東播染工の営業をしていた私は 身体が
怠く、今はないが、和田町の水野医院で検査を受けていた。結果の出る土曜日
その日は 産元商社のゴルフコンペがあり、参加する予定でバッグも積んでいた。
水野医院へ行くと、直ぐに名前を呼んでくれた。
先生が”肝臓数値が著しく悪化している。市民病院の紹介状を書くので直ぐに
「行くように”との指示。
仕方なく コンペの欠席を伝え、市民病院へ、行くと 同様の血液検査をする。
「11時に結果がでるので」とナースが言う。 身体は怠いが、退屈なので
野村の大池へ打ちっ放しに行くが、2カゴを買い、打とうとするが力がでない。
”こりゃ ダメか”と思い、隣の人に残りをプレゼントし、時間もまだあるので
病院前の今は無き、”織戸”と言うレストランに入り、食べる気もしないので
ビールを注文したが、運ばれてきたビールが飲めない。

 11時になり病院へ行くと、ナースだけでなく医師も数人出てきて「大丈夫で
すか?」などと言い、寝台車を持ってくる。そして「直ぐに入院を」と言う。

 そんなことを言われても入院の用意をしていない。なんでも肝臓の酵素の値を
示すGPTが通常4若しくは5のところ、1500と言う途方もない数値だった
らしい。
 すぐさま入院、直ぐに点滴が打たれた。夜中になると背中が痛む。付き添いの
妻がナースに言うと「肝臓が腫れているから痛むので横にさせてあげてください」
と言う。
あくる日は 緊急患者が入る部屋に移動。ここには脳梗塞や脳血栓などで緊急
入院した人ばかり、便も その場で採るので臭い。寒い時期なので窓を閉め切って
いる。夜になると鼾が大きい。
 私にナースは”尿を摂ります”と尿瓶を持ってくるのだが、「便も尿も自分で
行きます」。と譲らない。
そして目の前の便所に入り 用を足すのだが、驚いた。 尿の色はチョコレート色
便の色は 白いのだ。
聞けば、胆汁の作用がそうさせているのだと言う。 また この1500の数値は
命に関わる数値と言うのだった。

 それからの毎日は点滴点滴の毎日、2カ月ほど点滴を受けた。幸いA型肝炎で
回復は時間の問題だったが、余りにも当初の数値が高かったので500程数値を
下げるのに1カ月かかり、2カ月目に やっと100まで下がったが、退院の
許可が下りたのは3月も半ばだった。
 その間、色々あった。同室の人が朝方元気だったかと思うと 付き添いの奥さんが
目を離している内、亡くなったり、同じ肝臓病の人が 腹水が溜まり 亡くなったり

 またある時 部屋替えがあった時、一人のがっしりした体格の中年の男性が入って
きた。ナースが言うには 個室が無くて 今晩一晩 相部屋でお願いしたい。と言う

 その男性は どこかの会社の社長か?とも思われ、昼間 ひっきりなしに何か
指示を仰ぎに来るのか 出てくる。
入院の男性は 私に”すんまへんなぁ〜迷惑を掛けて”と謝られる。
しばし世間話もしたのだが、彼の素性は分からないままだった。
 後で判明したのだが、あのダイエーの社長 中内功氏だったのだ。 晩年の中内氏は
細くなっていたが、その時代の中内氏は ふっくらとしていた。
 その後、伊川谷の流通大学で出会う事があり、そのことを話すと ”そうでしたか”と
懐かしがられて居られたが

 話は横道に逸れたが、妻は私と違い信心深く”お父さんは幸せ者だ。午先祖様が
見守ってくださっている”と 羨ましがり 言うのだが・・・果たして。