喜寿をむかえた男の遊々生活!

喜寿を迎えた老人の日々を日記に・・・

一生幸せで居たかったら・・・

2019-01-26 10:39:06 | 日記
 私宅では神戸新聞をとっていますが、この月の
初めころだったと思います。
読者発言欄に 神戸在住の方で 今年定年を迎えた
とかで、余生は釣りをされるようです。
何故なら幼い頃、父に教わったようで、その時
格言のような言葉を父から聞いたそうです。
「一生 幸せで居たかったら 釣りを覚えなさい」。
と。

 歳を取って趣味がないと言う事は寂しい事です。
かのドイツの文豪でもあり、政治家でもあった
 ゲーテも”経験のない者には、人生の本当の
味はわからない。”と言っています。

 私の周囲にも働く事しか能のないような方も
居られたし、実際に居られる。
近くに養鶏場を営む ご夫婦がいらっしゃいま
したが、朝から晩まで働き詰めで、恐らく夫婦
揃って旅行などされたことはなかったと思います。
そして 数年前にご夫婦ともお亡くなりになった。

また私の友達にも働き者が居ます。
田もあり、行商もやっていて 還暦までは
朝2時ころには冷凍車で姫路や明石の市場へ行き
仕入れてきて売り歩いていました。
既に大型の冷凍車は手放していますが、小型の
冷凍車に買い替え、今でも 昔馴染みのお得意先に
商品を納めているようです。

 働く事が趣味と言う人も 有るかもしれません。
また先祖から預かった田の守をすることは大切。
しかし 私ごとき凡人には 出来よう筈がない。
私は若い頃から 遊ぶことが大好き人間でした。

 幼い頃から遊び大好き人間、野山を駆け回り
中学生になったころに5球スーパーラジオの
組み立てにはまり、社会人になった頃は
社交ダンスを習ったり、詩吟、長唄などを
教わり、夜になれば西脇市内のスナック街を
徘徊し、麻雀もし、土日祭日になればゴルフ。
昭和40年から50年代に行ったゴルフ場は
兵庫県下なら殆どと言っていいくらい

 釣りも土日に空いている日が有れば磯釣り
に、私が30歳代の頃、日本海でヒラマサブーム
が巻き起こりました。
折から南氷洋で取れるオキアミと言う餌が
出回り、このエサがありとあらゆる魚に万能で
それまでの釣りの常識を変えたほど。
釣り具屋の店主と 当然心安くなり、東シナ海
や四国は愛媛の西海などにも遠征。
徳島の牟岐や室戸岬、甲浦 高知の沖ノ島
鵜来島でのグレ(学名メジナ)釣り。
釣りとゴルフでいくら使ったか? 会社の
交際費も使わせてもらったが、私の財布から
も大きなお金が、その額は おそらく家が
1戸や2戸分くらい。

 最近は実入りも少ないので遊ぶことも
スケールが小さくなりました。
でも何時までも健康で 釣りやゴルフに
行きたいとの思いでウオーキング。
 近くの曽我井山がホームコースです。

曽我井山の登り口

そして今朝は朝から雪がチラついている
ので杉原川の堤防道を歩きました。
川にはカモが飛来してきています。

川面で遊ぶ水鳥

 さて今週の学校での作業は校舎中庭に
木製のベンチなどが有りますが、木が
腐っていて鋭いタッピングネジの先が
飛びでて危険なので除去作業。
恐らく設置して40年以上は経っている
ものと思われますが、除去するにも手間、
設置するにも手間と かなりの費用が・・

朽ち果てようとしているベンチ

 運動場西側のサツキの木の中には
笹が沢山生えていて、これを除去したり
校舎周りの側溝には落ち葉が詰まって
いるので除去したり、やろうと思えば
いくらでも行うことが有ります。

 さてこの月8日から取り掛かった
幼稚園の解体作業、2週間以上経ちまし
たが、大部分壊されたものの まだまだ
掛かりそう。入札だと思われるので
採算が合うのかどうか?
まぁ私ごときの知った事ではありませんが

1月25日時点での幼稚園解体。



学校での作業は先週の続き。

2019-01-21 17:39:23 | 日記
 休み前に 行っていた作業を引き続き行い
ました。
もう何年も手を入れていないのか?側枝の
太い木が数本出ているのを切りました。

側枝を切り落とした状態。

 次いで切り取った枝を、太い物はプール
脇の小屋横へ、細い枝は生ごみ袋に入れる
べく分類しました。

分類した側枝。

 桜の木の幹に絡みついた蔦、今日は脚立
を掛けて取り除きましたが、届くのは精々
下から4m程度、とても上まで届きません。

残った蔦のツルや葉。

 根元からツルを切りましたが太い物は
まるで自然薯のように見え、そして毛の
ような根に似たものが幹に張り付いて、
まるで幹の養分を摂るかのように思える
のですが、でも少し上の葉が萎れている
ように思えるので このまま様子を見よ
うかと・・・

自然薯ににた蔦の木。

 さて釣りに行きたいが、釣り物はと
釣り船のブログを見ますが、メバルや
ガシラとかの底物。
食すると美味しいのですが、やはり
鯛とかハマチなどを釣りたい。
 ゴルフも行きたいが寒いし、だが
今年も年会費の振り込み案内が来ました。
月に1回のペースとまでも行かないのに
年会費を払うのは馬鹿らしいのですが、
さりとて会員権の買取価格は数万円と
安いし・・・子供や甥・姪にと思っても
ゴルフをする者は誰も居ない。
さてどうするか???

運動場周辺の側枝の伐採。

2019-01-20 17:45:25 | 日記
 1月8日に取り掛かった 幼稚園の解体作業ですが 
周囲を防音シートで養生し、15日から本格的に重機が
入り 取り壊しに掛かったようです。
まぁ 平家建なので 後 数日で終えると思います。
園があった頃は、子供の声が聞こえてくるような錯覚に
陥る事も当初有りましたが、更地になれば そのような
事もなくなるでしょう。

1月18日時点での解体作業。

 先週の学校での作業は 剪定ばさみで植木の枯れ枝を
除いたり、運動場西の1本の桜にはツタが絡まり、その
ツルが生き物のように桜の木に巻き付いているのを手の
届く範囲で取り除いたり、サツキの中に笹が生えている
のを除いたり、冬場でも行うことが沢山あります。

 また運動場西側はフェンスに囲まれているのですが、
1か所 出入り口が有り、丁度その頭上には太い桜の
枝が出ており、その枝は根元近くで腐っている。
まさか頭上に折れて子供に直撃するとは思われないので
すが、まさかの坂は絶対にないとは限らず、脚立を持ち
出しチェンソーで切ることにしました。

出入り口の頭上に出ている桜の枝

 今回 学校に置いてあるチェンソーを使いました。
潤滑油のオイルがないので自宅から持参して入れ、
歯も研いで使用しましたが、歯の焼きが戻っている
のか? 何度も研がなくては直ぐ切れ止みます。
桜の木枝は太いが半分腐っているので何とか伐採。

根元から出ていた枝を伐採。

 切り落とした枝は、市の焼却場が受け付けて
くれるサイズに切り落とし、プール脇に
片付けました。

50センチの長さに切り分けた枝。

 さて土曜日は裏の側溝工事、日曜日は雨が降るとの
天気予報、6m程U字溝を入れ 行いましたが、レベル
片手に掘った穴に砂とセメントを混ぜてU字溝を入れる
て行くのですが、真っすぐ直線に平行を保ち入れる事は
予想外に難しい難作業。



あれから早や24年経ちました。

2019-01-18 08:54:27 | 日記
 17日午後、何時も通り 小学校へ入りました。
先日 治した剪定ばさみを持ち、校内の植木を見て
周り、枯れ枝や 何処からか運ばれてきたであろう
自生した木や、運動場西側のサツキの中に笹が生え
ているのを切ったり、北西隅に大きな木を切って
いるのが株元から 新しい新芽が出ているのを
切ったり、 それらを生ごみとして取ってもらう
為に50センチ内に切り、生ゴミ袋の詰め込んだり
の作業。

 一段落して、校舎の中庭に揚げてある校旗を見る
と半旗になっている。
”あぁ 今日は神戸・淡路大震災の日だった”。
学校では午前中に 避難訓練が行わる日でもあった。

半旗で掲げられた校旗。

 当時を思い起こしました。
あれは確か 早朝6時前、私の自宅裏は山ですが
ゴオーと言う 山鳴りがして床で目を覚まして
いた私は”これは大きな地震がくるな”と思う
まもなくガタガタと大きな揺れ、 当時家には
 妻と高校生だった娘と 今は亡き母親でした。
その頃、長男は京都の㈱トーセに勤め、次男坊は
大阪の福島から学校へ通っていました。

 母が「何処が震源地やろ」と言うのでテレビを
付けるもののNHKの放送局内が写されるだけ、
7時になると神戸駅周辺を映し出しました。

 私は その頃 宅建業にトラバーユしてから
3年目、何とか軌道に乗り、これから本格的に
・・・と言う矢先でした。

 それからのテレビ番組は 何処の局も地震
ニュースばかりでした。


 私の事務所へは毎日のように被災者が立ち寄っ
たり、ひっきりなしに電話が掛かってきたり。
”貸家がないか?アパートはないか?”との
問い合わせでした。
その頃、私は 大東建託と提携したりしていた
ので 今のように大東建託は西脇に事務所はなく
加古川、姫路にしかなかったので 沢山の被災
者に斡旋し契約を取り交わしました。
また当時、”あんな怖い所に住みたくない。
家を探してほしい」。と言われ お世話した
ものですが、 それから10年も経つ頃には
”やはり田舎は住み難い。街へ帰りたい”。
との事で、家を売り払い、神戸へ殆どの方が
帰られました。

 不幸にも大勢の方が亡くなった大震災でし
たが、私の仕事は、開業して以来 毎日が忙し
かったのを思い出します。
既に その頃、当然の事、西脇市や多可郡
南は三木市、小野市、加古川、三田市をエリアに
仕事をしていた私は走り回っていました。

 震災が落ち着きを取り戻したときも、神戸の
芦屋で商売をしましたが、園田競馬場の横を
通り、門戸大橋とか言う陸橋が崩れていたのを
尻目に何度か羽衣町の同業者と共同仲介で商売を
行ったものです。
また吉田司法書士の吉田康男先生ともに何度も
取引に立ち会ってもらうため、ご一緒しました。

当時 あの大塚薬品の社長の豪邸が 地震に
見舞われ崩れていたのを思い出します。

 当時は私も50歳そこそこ 油も乗りに乗り
この年、私は個人から法人に切り替え 支部は
当時 西脇商工会議所7階に有ったのですが 
役員に加わって欲しいとの要請もあり、商工会
議所の下には証券会社や、お越安の姉妹店で
”さくら”と言うレストランもあり、 そこで
何度となく会合を持ったことを思い出します。

 

小学校北隣の幼稚園の解体作業が始まりました。

2019-01-16 10:29:29 | 日記
 今年1月8日から着手し出した 小学校北隣の
昨年廃園になった幼稚園の解体作業が始まりました。

 この園は 私たち年代(昭和18年4月2日~
から19年4月1日生まれ)が一期生(一期園児?)
となります。
 だが幼稚園字児だった頃の思い出は有りません。
あるとすれば生れて始めて親から離れたことで
皆 泣きじゃくっていたことくらいしかありません。
私が入園したのは5歳の時、昭和24年。
 中途半端ですが創立69年を以て廃園したことに
なります。

周囲を養生し、解体が始まった様子。

 先日6日の日曜日、グラウンドゴルフの練習日の
時 その事を世間話を交しているうちに話をすると
私より一回り以上 歳上の方が、「そうか 解体
するのか。あそこに園ができるまでは あの場所は
隔離病棟が建っていた」。との事。
歴史の変遷を辿って行けば 色々と知らなかった
事が出てきます。
 そういえば私もこの地へ来たのが終戦前の19年
9月、転々と住まいを変わり 落ち着いた先が
現在の野中町。
今では30数件建っている民家も 私が3歳の頃
現在の地へ定住するようになってから 今年で
72年目を迎えようとしています。
その間、日本全体 大きく変わってきたし、地域も
変わって行きました。
日野小学校周りも私が小学生時代の頃を思い出すと
大きく変わっています。

 さて今日も朝食後は曽我井山へと上がります。
山道には色々な木々やシダ類などが生えており
余り私は そういうものに関心はないのですが、
綺麗な赤い実を付けている木を見つけました。
図鑑で調べると 千両、もしくは万両と呼ばれる
木のようです。
カラスが実を食べて持ってきたのか?
そういえば 私が所有している野中の山裾の土地
にも このように赤い実を付けた同様の木や
黄色い実を付けた木が有ります。
他にも 正月の”ゆずり葉”なども自生しており
正月の飾りには しめ縄を買ってくるだけで事
終わります。

自生している万両?の木