喜寿をむかえた男の遊々生活!

喜寿を迎えた老人の日々を日記に・・・

思いつくままに 追憶その6

2018-07-11 08:35:35 | 日記
豪雨明けから 急に暑くなった。被災地の方々は大変だろうと 心配する。

さて今日も取り留めない話を、以前 このブログに書いていたと思うが、私は
大阪市城東区今津町で生れた。 家は活版印刷を行い、家には祖父と、父と
妹の3人で暮らしていた。 妹は高島屋かのデパートに勤めていたらしい。
 当時デパートガールと言われ花形職業で有ったようだ。
祖父は楽隠居をしていて、播州などで所帯を持ったりする息子、嫁いでいる娘の
ところへ よく行っていたようだ。

 昭和14年に祖父は 気管支喘息の発作で自宅2階で亡くなり、その後、太平洋
戦争が勃発、その戦争の雲行きが怪しくなったころに 徳庵の駅前にある
『亀乃屋』と言う料理屋の店主の世話で、父は 母と結婚し、妹は、亀乃屋の
長男である、すなわち店主の息子と、二組のカップルの仲人を行ったようだ。

 私は昭和19年4月1日、病院で夜中0時きっかりに生まれたという。父は喜び当時
今津町の役場へ届出する。 1は縁起が良いと思ったのか 正直に4月1日を出生日
とした。が、役所での年度末は3月31日でなく、4月1日だった。

 戦況は日増しに悪化し、私が生まれたころから 空襲が激しくなってきたらしい。
灯火管制が敷かれ、父母は何度となく、私を抱えて防空壕へ入ったと聞く。

今津町の近隣には近畿車両が有り、ある日、軍の関係者が来て、「近くに近畿車両が
有り、爆撃の的になる恐れがあるので立ち退きされたい、それと印刷機はお国の
為に供出せよとの命令で二束三文で買い取られたらしい。

 父母は疎開先を思案した、母の祖父方の出身は滋賀県伊香郡高月である。
母方の祖父は 片桐源五郎と言う、ゲンゴロウ鮒を連想する名前であった。
祖父は次男坊で、家督相続は長男の市助と言う祖父の兄が継いでいる。
 ちなみに家督相続後、分家した祖父は 大阪船場の糸さん(お嬢さん)と大阪の
野田で所帯を持ち、大阪造幣局に勤めていたらしいが、当然のことながら子供が
生れる。長女は大正9年生まれか?で、母は大正12年に自助として生まれた。

 ところが、長女は虚弱体質で尋常小学校低学年の頃、亡くなったようだ。
母は、姉の事、みっちゃんと呼んでいたが、それ以後、 祖父は悲しさを酒で
紛らわし、造幣局を辞めたようだ。家の暮らしはたちまち苦しくなり、母は
口減らしに奉公に出されたという。

 まぁ母方の伯父の家を頼っていけば 豪農だし食べることは問題ないと思った
ようだが、父は 男の沽券にかかわると思ったのか、当時 播州に嫁いでいた
姉を頼り 疎開する。当時 多可郡日野村市原村と言われるところ、現在は
西脇市市原町になっている。
 市原の姉を頼ってきたのだが、父の姉の婿、すなわち父にとって義兄だが
生業に 馬喰をしており、気性の荒い男だった。
 市原の妙覚寺と言うお寺の前に当時は数件しか家はなく、この義兄の持つ
田の中に 納屋が建っていたらしいが、そこに住むことになる。
 住み始めたころは秋になっていただろう。母は 伯母とともに、田のタニシと
言う貝を拾ったり、芋のツルを拾い集めていたようだ。
ある日、イノシシが納屋の近くの畑に入って 作物を荒らしたようだ。それを見た
義兄が”お前ら 何のために 此処に置いてやってると思っているのだ。
イノシシの番に置いてやっているのに”と罵倒したらしい。
そんなこともあり、数か月後、父にも友人ができたのか?友人の勧めで、後葉山
(現羽安町)へ引越しし、その1年後、野中町の吉田さんと言う家の離れを借り、
その後、また父の友人の勧めで、野中町徳部野(今は1本化して野中町)へ
 小さな平家の家を建て 引っ越しする。私が3歳の頃だった。

 小さいながらも我が家を持った父はどんなに嬉しかったか?想像するに難く
ない。その頃に次女が生まれる。
父は優しく、仕事の絵の合間を見つけては近くの”ぶーさん池)”と呼んでいたが
そこへ野鮒釣りに連れて行ってくれた。お粗末な仕掛けであったが、針に飯粒を
付け、水がきれいなので鮒が居るのを目で確かめ、目の前に餌を持っていくと
釣れた。 私が釣り好きになったのは この時かもしれない。釣りは「鮒釣りに
始まり、鮒釣りに終わる”との格言は 簡単な鮒釣りから晩年はヘラブナなどの
繊細な金の掛かる 動かなくても好い釣りに代わることだと思っている。

 さて、私も昭和24年には幼稚園に通うことになった。日野地区では まだ
幼稚園と言うものがなく、昭和24年開園され、私たちが一回生だった。
幼稚園での思い出はない。ただ入園式の日、母と別れる寂しさから 号泣して
いた覚えだけがある。

 昭和25年、日の小学校へ入学する。入学と言っても、小学校は隣だ。
だが何もかも新鮮だった。
1年生の時の先生は市原町出身の松原先生だった。先生は幼心に 綺麗で
優しい先生だった。 2年生になっても持ち上がりで松原先生だった。
特に 印象に残っているのが学芸会で 題は”おむすびコロリン”だったように
思う。当時 SPの蓄音機が有り、音楽に合わせて踊ったりしていた。
 このころ、先生との記念写真が私のアルバムに今でもあるが、子供の服は
マチマチ、着物姿も居れば、セーターを着ている姿、学生服も着ている子供が
居たが、織屋の息子など 裕福な家の子供たちだけだった。
 履物も、草履やゴム草履、ゴム靴などだった。靴下も履いていない者も
居れば 足袋をはいている者もいた。
 真冬には服の袖は 皆 テカテカと光っていた。あの頃の子供は寒いとき
青鼻を垂らしていた。今のようにテッシュなどなく、服の袖で拭くのだ。
それが干からびて 乾くとテカテカ光る。 それと当時、殆どの子供は霜焼け
をしていた。耳たぶ、手足の柔らかいところ、赤く膨れ上がり、掻くと痒かった。

 3年生になると担任は代わり、笹倉タマミと言う、羽安町の女先生だった。
この先生は厳しかった。ただし、貧乏人の子供に対してのみ、依怙贔屓の強い
ヒステリックな先生だった。 私の幼友達に宮崎君と言うのが居て、何時も
忘れ物をして、家まで取りに帰らされるのだ。 当然、その日の授業を受けて
居ないので、あくる日も忘れ物をする。また取りに戻らされる。
終いに 賢くなって、市原に藤本自転車屋が有ったが、店主が父の友達である
ことをしっていたので 私が”おっちゃん 自転車貸して”と言うと快く貸して
くれた。二人で相乗りして家へ帰るのだ。時間は余る。二人は勉強もせず遊んで
いた。 先日も 小学校卒業の同窓会を開いたが、笹倉タマミ先生の話が出て
女子は一様に”怖い先生だった。よそ見すればチョウクが飛んできたり、竹の
節の根っこ部分で机を叩かれた。と言っていた。 
晩年、友人の選挙運動で 事務所に一緒になった時がある。先生は懐かしそうに
声を掛けてきたが、無視してやった。それが効いたのか? 私の前に二度と
現れなくなった。あれからどうしているのか?地元の友達に聞くと、子供もなく
老人ホームに入っている。と言う事だった。

 4年生は宮下先生、男で中畑出身の方だった。年配の方だったが、教え方は
上手だった。剣道も有段者で 後に日の小学校の校長となられた。
私は この頃から体調が思わしくなく、登校したり休んだりの繰り返しだったが
放課後マンツーマンで教えてもらった。

 5年生は高瀬先生と言う 男の先生、今でいう きざっぽい感じだったが、
余り印象にない。と言うのも 私は このころから休みがちだった。
校医は市原の吉田先生だったが、市原の吉田医院へ通院していた。病名も
『類似結核』と名付けられていたが、おそらく栄養不足によるものだろう。

 6年生は津万から来ておられる森田先生だった。 熱血漢風の先生だった。
その頃、体調も大分ましになってきたが、修学旅行は無理と吉田先生から
言われ、森田先生も その気でいたようだが、父が 頼みこみ、連れて行って
貰った。
当時 定番の奈良京都巡りであったが、行く先々で、吉田先生と、森田先生に
背負って貰った。 当時旅館は京都の「イロハ旅館」で有ったが、夜の外出は
許可が出なかった。

 社会人になって昭和40年頃だったか?我々が小学6年生の頃、A組の担任の
熊本先生、B組の森田先生を招き A・B組合同で同窓会を開いた時があった。
 森田先生と昔話に花が咲き、この先生も酒が好きで、「増田、一緒に飲もう」。と
言われていたが、亡くなられた。

 さて日野小学校の近辺には昔ながらのお店が2店ある。一軒は「ウナギの橋本屋」
もう一軒は「宇野パン屋」さんである。
幼い頃、ハエナワの一種であろう ツケバリと呼んでいたが、私の家の近くに大池が
ある、その下は徳部野川と言う、大池から杉原川に流れ込む小さな水路があるのだが
此処へ ツケバリを漬けるのだ。エサは主にミミズ、明るいうちは小魚が来るので
暗くなるまで待って、何本も針のついた仕掛けを漬けておく。
夏の 早朝 明るくなる5時ころ、仕掛けを引き揚げに行く。すると大半のウナギは
身体を捩って白い腹を見せて死んでいるのだが、中に生きているのが数匹居る。
それを持って、橋本屋へ持っていくのだ。一匹20円か30円で買い取ってくれるの
だった。

 さて宇野パン屋へはよく行った。家は非農家で食べるものは配給であたる乾パン
また米と言えば外米と言われるパサパサした米であった。
だが、これでも買えればよいが、手に入らない。 母は それに麦を加え炊くの
だが、麦は釜の表面に浮く。それをこそいで、アルミの弁当に入れてくれるのだが
弁当箱を開けると表面が麦で黒い、おかずはタクアンくらいで、表面にはかつお節を
乗せたもに、母は時々、私に15円持たせて 宇野パン屋でパンを買うようくれる
のだった。宇野パン屋へ行き、食パン一切れを切ってもらい それを半分に切り、
間にジャムを挟んでくれるのだ。
 友達は羨ましがって、「わしの弁当と替えてくれ」と言い出す。
私は”待ってました”とばかり、交換するのだった。 銀飯がこんなに美味いとは、と
つくづく思った。

 宇野パン屋は昔と今も変わらない。変わったのは周囲だ。その頃、右隣に確か
青木精米所が有り、その南隣に精肉屋が有った。精肉屋は 名前は覚えだせないが
日野派出所勤務だった巡査が 定年後に夫婦で精肉屋を営んでいた。
 ちなみに派出所は昭和の終わりごろか?平成始め頃までは 日の小学校の正門の
前にあった。 大分前、隣に小さな家が有り、そこにはお婆さんが居て 一人暮らしで
三味線などを教えていた。

 その隣、現在 美容院を営んでおられるが 美容院から東は農協購買部が有った。
食料品、日用品、電化製品などを置いていた。 その前、サンパル日野と言われて
いる建物だが、日野農協金融部であった。
日野農協購買部の東隅には貸本屋が有った。 市原の現藤井工芸店のお母さんが
貸本屋を営んでいて、私は よくこの貸本屋へ本を借りに行っていた。
その頃、番号で借りていたが、私の顧客番号は33番だったことを覚えている。
 その交差点向かい側は今でもされているのか理髪店 きっちゃんと呼んでいたが
正式な名前は覚えていない。

 対面の角には朝井食料品店が有った。当時 大きな食料品店と言えば、この西田の
朝井食料品店か、市原の朝井食料品店 店主は姉妹だったと記憶している。
それと市原の”亀さん”と言われる食料品店だった。
 その前には”セーダーさん”と呼ばれる 日用雑貨品店が有り、その下手には
内橋酒屋が有り、 私の従姉の隣には将鶴(字は違っているかもしれない)
と言われる旅館が有った。
 市原にはユーモアたっぷりの人が居た。 今は街の塗料会社が購入していて
豪農の家と銘打って公開しているが、元々 村井茂平?とかの所有で、この方は
頭が良かったらしいが、”天才とキチガイは紙一重”との言葉があるように、モエ
はん(通称)は何時も 着流しで市原橋の橋の上をウロウロされていた。
何時も 顔にはエヘラエヘラと笑みを浮かべ、幼心に気持ち悪かった。
数年後には亡くなられたのか?姿はみかけないようになったが、その後釜なのか?
モエはんよりは若い方だったが、同じように橋の上をウロウロしていた。

 もう一人は旅館将鶴の跡取りで テェキッちゃんと呼んでいたが、会話が上手に
出来ない吃音症だった。
何時もで会えば「キョキョーきょうちゃん」と声を掛けてくる。従妹の家の近くで
幼い頃から よく知っていたし、何も悪気がない人だったので 話には応じていた。
この旅館は城崎温泉の老舗旅館と姻戚関係にあるという。

 まぁ小学校での思い出も数限りなくあるが、運動場は今の半分くらいで堤防側へ
竹藪が連なっていた。 運動場南西側には土俵が有って、よく相撲を取っていた。
当時 コメの消毒に有毒のパラチオンと言うのが撒かれていた。 刺激臭は教室に
まで入ってきた。
今では火葬は当たり前になったが、当時一般の村では土葬が普通であった。
被差別と当時言われていた前島地区では 当時から火葬を行っていてので
運動場で遊んでいると 風向きで毛が焼けたような臭いが漂っていた。
火葬場が有った場所は 現在、前島の天神橋西に公園となっている。
前島には 当時 村の真ん中にお寺が有り、住職は今村と言う人で、娘さんが居て
今村淳子と言い、私たちと同級生だ、いつしか住職は代わり 誰か知らない。
 淳子さんは東京に結婚して住んでおり、同窓会の案内状を送ったが、後日
主人から電話が有り「妻は行きたがっているが、耳が全然聞こえなくて云々」との
行けない返事をしてきた。

 さて今日も取り留めない話をワープロをポンポン打ってしまった。
宅建業に入ったころから、ワープロパソコンを打つのも早くなった。独学で手元を
見なくてもポンポン打てる。 この文章を打つにも1時間掛からない。
当初、日本語ワープロでチトシハマニロレだったか?の順で覚えていたがローマ字
カナだと覚えるのも簡単だ。
ただし、記憶を呼び起こすのに時間が掛かるのと 読み返さないため誤字脱字が
心配される。
誰がこのブログを読むのか分からない。 子供たちは時々見るようだ。感想はと
言うと 娘は「うーん、重いかな? まぁええんと違う」。と言う。
 息子も時々聞くと、「豆やな~」と感心する。
歳をとると 古い事を思い出すようだ。そういえば 世話になった在田章氏も
戦争中の話をよくしていたし、嶋田松次氏も戦争中の話をよくしていた。

 黒田庄福地の村精織物㈱の村上利彦氏など、四国へ昔、宅建を開業したころ
釣りに一緒に出かけたが、土佐高知に「見晴旅館」と言うのが有り、ここの主人や
女将さんに徐行さん集めの際、長い期間逗留し、世話になったと聞いた。
そこへも寄ったのが2月の寒い頃だった。 この辺は旧の正月を祝うとのことで
行くと 旅館は廃業されていたが、歓待された。
 昔居た 仲居さんを呼ぶといい、靭料理や 様々な料理を出していただいた。
いわゆる皿鉢料理である。 その世は ふかふかの羽根布団で寝かせていただいた。
翌朝、西海中泊まで行くのだが、その頃、ツバメ渡船にも 顔が売れていて
ツバメの吉田船長は「増田さん。どこの磯に乗る」。と優先して良い磯に上げて
くれていた。 村精氏も当然 良型グレを釣って帰らせることができた。

 行く道中は その頃、片道8時間はかかったと思う。村精氏は 昭和3年生まれと
言うから16歳上だったか? 若い頃から仕事熱心であったが、遊びも盛んで、
外に愛人も居て、その間には子供も居た。
ゴルフ場は5~6箇所持っていただろう。 だが、バブル崩壊前に織物工場を閉める
決意をしていたので、小野カントリーや西脇カントリーなど残し、他のゴルフ場は
好い条件で手放していた。 彼は何事にもついていたのだろう。

彼は私が運転している車の中で 何度も同じことを話ししてくる。終いに聞き飽きて
「社長 その話 もう4回目でっせ」と失礼と思いながらも言った事が有る。

氏は 昔からの名門で その昔は三草藩の管轄で、庄屋だったらしい。
氏は長男でなく、次男だが、兄が教師をしていて、その兄は親の後 氏に託したらしい。
蔵の中には 刀一振りと 槍1本。丸山応挙が逗留した時に お礼として貰ったと
言う 一幅の掛け軸があった。
 後日、小遣い銭が欲しくなり、この掛け軸を持って 京都美術館へ行ったという。
ところが鑑定士曰く「確かに丸山応挙の絵に間違いなさそうだが、暇を持て余して
描いた物か、あまり評価できない」。と言われ、持ち帰ったそうだ。
その氏も、平成27年に亡くなられた。 また一人また一人とお世話になった方が
この世を去って行ってしまうのは寂しい事である。








思いつくままに、追憶その5。

2018-07-09 08:30:59 | 日記
 さて関西地方を襲った豪雨は 多数の死者を出しているようだ。
我が家の 裏は山で、この一帯 土砂災害警戒区域に指定されているが、
私の家の裏山は 標高も低く、谷あいでないことから危険度は低いと
思っている。

 さて、しばらくの間、ブログは 過去の出来事を書いてみたいと思う。
凸版に勤め始めたころ、同じパート社員に 大学進学を目指している
浪人している若者が居た。
私が、先行き目指していると宅建業が 果たして正解か不正解か?
相談と言う 大袈裟なものではなかったが、 彼は「増田さん。『思考は
現実化する』と言う本を読んでみないか?と言う。 
この辺の書店に置いていなかったので、休日に梅田の駅前の本屋まで探し
に行った。 有った。著者はナポレオンヒルと言う男性で、翻訳は田中某氏
だった。

 3巻ほど有ったと思う。分厚い本だった。 ナポレオンヒルと言うのは
19世紀はじめ 成功者の哲学と言うものを探求している人物だった。
彼は父を子供の頃 亡くしていたのか? 母と二人暮らしだったが、新しい
父が来たらしい。 その父はナポレオンを可愛がった。しかし、優しいだけ
で 他に取り柄はなかったらしい。
その義父は手先が器用で、母が虫歯で歯を失ったとき、義父は入れ歯を
作ったらしい。母は感激して「あなたは素晴らしい人だ。きっと素晴らしい
歯科技師になれるだろう」。と褒めたという。
 義父は これに気を好くしたのか 近所周りの入れ歯を必要とする人に
その人に合う義歯を作り、それが好評で あっという間に 歯科医よろしく
患者を診て回った。 ところが、当時も 医師免許がないと開業できなかった
らしく 歯科医は諦めたが、この母親が義父を上手に褒めて やる気を
ださせていたようだ。
 日本の 山之内一豊の妻 千代のようなものだ。 一豊は武功を上げる
事に邁進したが、いま一つ 世渡りが下手だったようだ。
賢妻の千代は 嫌味を見せず、夫 一豊が やる気を出させるように
仕向けて行き、長浜城主になり、掛川城主にもなっているが、千代の
アドバイスがなければ そうなっていなかっただろう。
後に 北政所側につき、徳川家康になびき、土佐一国の主になった。

 さてナポレオンヒルは 貧乏人の子供はなぜ高い確率で貧乏人に
なっていくのか? 成功者は どんな気持ちをもって成功するのか?
それには きっと訳があると気付き、彼は年頃になったとき、鉄鋼王
カーネギーとか、石油王ロックフェラー、発明王エジソンなどに近づい
たらしい。
 その会社の従業員になるのに無償で働いたとも書いてあった。

 そこで成功者に共通するのは「確固たる意志を持っている」と言う事を
結論付けた。
すなわち金持ちになる者は はっきりと「金持ちになる」と言う固い意志を
持っている。貧乏人と言うのは 大概の場合、”金は欲しい”と言う願望が
あっても、その金を手に入れる術を知らないのだ。漠然と指をくわえて
”成功したい。金持ちになりたい”と思っても、思うだけでは 成功もなく
金が入ってくることはない。

 成功者の全てが 『願望を達成するために、思考し、確固たる意志を持って
いる』と結論付けた。

 戦国武将に例えれば織田信長は”天下を取る”との固い決意を持っていた
だろう。天下を取るためにはどうすればよいか?試行錯誤しただろう。
 秀吉は織田信長が本能寺で明智光秀に討たれたと聞き、敵には一切情報を
漏らさず、高松城の城主を自害させることで和睦し、 世に言う 中国大返し
と言う離れ技をやってのけた。
彼は火縄銃は雨にぬれると使い物にならないので油紙で火縄を包み、
街道筋の百姓などに 飯を炊かせ、草鞋を作らせ、兵馬も足軽たちも 
腹を空かせることなく、京都まで一気に戻ってくる。
これも秀吉が、信長の跡を継ぎ、天下を取ると 固い決意を秘めていた
だろう。
 運否天賦などと言い、時の運もあると思うが、努力する者に光は当たるのが
世の常だ。

明智光秀も こんなに早く 秀吉が戻ってくるとは予想もしなかっただろう。
また光秀は優秀な人間であったようだが、秀吉のように家臣以外には
人望はなかったようだ。
また光秀には大義がなかったように思う。知将だったようだが、残ったのは逆臣、
三日天下、残党狩りに遭った惨めな将と後々言われ続けることになる。

 まぁそんなわけで、この本は私を勇気づけた。そして不動産業開業に向かって
躊躇することなく、邁進していった。



 

充実した日々・追憶その4

2018-07-08 09:20:00 | 日記
 先週から降り始めた雨は 西日本に大変な被害の爪痕を残して行ったようだ。
年々 地球温暖化によるものか? 地球はおかしくなっていくようだ。

 また昨今 各国の指導者に変な人物が現れてきて 先行き不透明になってきた。

 変な人物とは 米のトランプ大統領、中国の習近平国家主席、ロシアの
プーチン大統領、北朝鮮の金正恩委員長。
特にトランプ大統領は保護貿易政策を打ち出し、中国製品に高関税を、知的
財産権を犯しているとの理由で中国製品に高関税を課し、方や中国も報復関税を
行い、農作物に同額になる高関税を掛けると報復合戦。
対イスラエル政策では 中東の火種になっているエルサレムに大使館を置くと言い
出し、これに反対するパレスチナ人の暴動が起き、メキシコに対しては移民入国を
遮るのに国境にメキシコの費用を持って壁を造ると言い出したり、先日は北朝鮮の
金正恩氏と非核化のための会談を行ったりしたが、会談を行う前には 威勢の好い
ことを言っていたが 中身は どうも骨抜きにされたかのような感じを受ける。
 アメリカを代表するオートバイメーカーのハーレーラビットソンは、いち早く
ヨーロッパに生産拠点を移すという。

 まぁ こんな世界の事を論じても仕方がない。 ここ数日は しばし昔の
記憶を辿り、回顧してみたい。


 宅建業を開業した私は 順風満帆の船出であった。 当時 地元の不動産屋は
チラシを打つということをしなかった。 それを尻目に 私はリソグラフを
リースで導入し、依頼された物件などを入れて 広告を刷りまくった。
そして新聞折込広告を入れた。 当然 売ってほしいとの依頼主は 速やかに
依頼した物件を速やかに売ることを願っている。だから喜んでくれた。 
また家が欲しい、土地が欲しい。と、言う連中は 情報が欲しい。当然の事、
チラシの反響は出てきた。

 商売も軌道に乗った。一度 気のすむまで釣りをしたいと思い、妻に告げ
四国愛媛の西海に行ったことがある。
当時 瀬戸大橋が開通したばかりだった。 私はその頃、ダイハツの軽4の
乗用車に乗っていた。 パワーハンドル機能もなく、ハンドルは重かった。
その日 瀬戸大橋は快晴。少し景色の好い所で車を停めたが、パトカーが行き来し
するので持っていたカメラで風景を写真に撮り 香川県に入った。

 便利になったものだ。以前なら 岡山の宇野港まで行き、フェリーで1時間程度
掛けて高松港へ渡り、国道55号線を南下、松山 大洲を通って12時間掛かる。
行楽シーズンに入れば、フェリー乗船待ちで2時間3時間掛かるのはザラだった。
明石、岩屋間もそうだ。長時間フェリー乗船するのに待たされたが、明石海峡
大橋が掛かると 解消された。泣いたのはフェリー会社だろう。

大橋を通り、高知自動車道を通ると高知の南国まで高速道はついていた。
南国から 高知市内 ”はりまや橋”を右手に見て 国道電車が走る 市内を通り過ぎ
須崎、土佐高知、宿毛などを経て、愛媛県西海町まで行くのだった。
現在 高知自動車道は須崎まで開通したと聞き及ぶ。 今では津島高田まで開通した
高松道を通っているので 高知道がどこまで延びたか?解らないが、近い将来、四国
外周を回る縦貫道路ができるかもしれない。

西海は武者泊り、中泊、内泊などが有り、半島になっている。向かうは中泊だった。
半島についている道は 自衛隊がつけたものだと聞いている。
かつて、笹倉釣り具を中心に 中泊など 大物釣りに行っていたが 今回の釣行は
グレ釣りと言う 繊細な釣りを求めたものだった。

 私はうかつにも、半島を武者泊方面に向かってしまった。
中泊へ行くには遠回りだった。当時ナビなどない。黙々と自衛隊がつけたという
狭い道路を伝っていった。ようやく目指す”ツバメ渡船”の民宿に辿りついてのが
10時を回っていた。
 翌朝、鹿島と言う目の前の島に降ろされた。 私は以前行ったことのある、
松島とかクロバエとか外磯に出たかったのだが、だめだった。
常連などは好い所に渡してもらえるが、初めての客など 好い所に降ろして貰え
ない。
グレ釣りは面白い。(学名はメジナと言う) 1.5号の細い竿と、2号くらいの
道糸にハリス、引きは強引で竿は満月のように曲がるのだ。
またこの魚は食しても美味しい。
このグレの外道に アイゴと言う 背びれに毒を持った魚が釣れるのだが、これも
また美味しい。

グレは夏場、海藻などを食するため、磯臭く、猫マタギと言われるくらい不味いのだが
冬になると 油が乗って本当に美味しいい。
4日ほど釣りにでた。 ツバメの吉田船長が「増田さん。明日も釣るのか?」と
尋ねられる。 私は家に”1週間ほど釣りに行く”と言って 出たものの、やはり
貧乏性か? 釣った魚もクーラーにいるが、傷んではいけないと思い”帰ります。”
と言って帰途についた。

 その頃、西脇工業高校を卒業した長男は 京都府乙訓郡大山崎町にある
㈱トーセへ勤めていた。 この会社は ゲーム開発会社で 開発したソフトを
カブコムとか任天堂などに提供する会社であった。東証1部に上場していた。
 しかし、不安だった。入社試験を受け、面接があった。我々 夫婦も長男と
ともに会社へ行った。
会長は斎藤氏、社長もその息子 斎藤氏だった。二人が面接に立ち会った。
息子が希望にデザインを所望していたらしい。
会長・社長いわく「デザインは掃いて捨てるほど居る。どうしてもデザインと言う
なら正社員として入ってもらえない。とりあえず貴方のキャラクターを提出して
欲しい。お父さん、お母さんの前ではっきり言っておくが、会社の一歯車として
なら正規雇用するが、ご子息が希望しているデザイン部は、しばらく様子をみる
ためにも 寮は提供するが、正社員の保証はない」。とはっきり言われた。
 息子を一社員として働くよう 言うが 誰に似たのか?頑固にうんと言わない。
1年後には寮を明け渡すよう求められ、JR神足駅前にアパートを借りて過ごして
いた。
 この息子には 心配し、何度 京都へ行ったことか、高速を通らずいつも
社町から嬉野をとおり今田町 古市、亀岡を通り 息子に出会いに行っていた。
当時 古市から亀岡へ出る間は 両脇に民家のある狭い道を通っていたが
何年後かには バイパスができた。
その後、東京に先に出ていた 同級生に誘われ 東京に行くことを決意した
ようだ。誘いの言葉は”お前のような人材を埋もれさせるのは勿体ない。東京へ
きて独立すれば”と言ったという。 この友達は藤原と言い、奇異な巡りあわせで
同じ職場で働いたこともある藤原孝道と言う男性の息子だった。
少し おっちょこちょいでもあり、息子は見たこともないが、”そんな友達の
言う事を真に受けて”と忠告したが、言うことは聞かず、決意は固かったので
引っ越しの前日には、妻と娘を連れ、神足のアパートへ行き、荷造りを手伝って
やった。
 息子は東京の調布市にアパートを借り そこで漫画を描くことになったようだ。

 私は兼ねてから 芸術家の道で食べていけるのは難しいと思っている。その道で
飯を食べられる人は 一握りの人だと・・・
 父もまた絵描きであった。大阪で印刷屋を営む傍ら、夜は肖像画の師匠について
肖像画を習っていたらしい。 そして水月と言う揮毫と言うのか?貰っている。
父は その名を嫌い、自らは”蘇石”と名乗っていた。
疎開してきた当時 苦しかった生活が、少しよくなった。と、言うのも戦地で
亡くなった兵隊さんの肖像画を描き始めたからだった。
当時、写真の技術は発展していない。軍服を羽織・袴に変えたり、戦死した
兵士の写真を元に 生前のように描いたり、終戦後は 店も増え、それに伴い
開店を祝う”開店ビラ”と言う、A0程度の大きな白い用紙に、筆で一気に
右端に熨斗を赤の絵の具で描き、店名を青色だったかで描き、祝開店と大きな
文字を いとも簡単に描くのだ。子供心に”うちの父は凄いなぁ~”と思った
ものだった。
 小学校時代でも、学芸会でお面が必要になる子がいると 鯛やヒラメの絵を
描いていた。だが、数年後は写真の技術も発達し、仕事は減り、私が小学校
高学年になるころには 貧乏に戻り、私をはじめ 4人の子供たちは毎日ひもじい
生活に戻るのだった。
 だから猛烈に反対したが 息子は聞き入れなかった。
それから数年は 同人誌とか何とかで 年に1、2度 自分の描いた漫画を
自費で印刷し、あてがわれた会場で 売るらしいのだが、結構売れて 時々
帰ってきては”儲かった”などと言い、妹にお土産を買ってきていた。


 話はまた飛んでしまった。開業当時、誰も導入していなかったパソコンを
導入した。星電社で買い求めたものだが、メーカーはIBMで CPUも容量も少なく、
すぐにビジー状態になると言う代物だった。 だが、この道に詳しい男性を
紹介してもらい、いち早くホームページを立ち上げた。
当時は まだホームビルダーのようなソフトがなく、手探りで更新して、
難しい箇所は業者に頼んだ。
街のほうでは わからないが、この近辺で ホームページを立ち上げたのは私
くらいだろう。 当時 ヤフーなどがジャンル別に地域に1社 無料ですぐに
不動産を検索できるシステムに入っていた。

 その頃、事務所に居てると、桑村繊維の前田部長と言う、私より歳は一回り
上であろう。 自宅は加古川で 加古川から曽我井の桑村繊維に通っていたが
その前田氏が出入りしていた。 

前田氏は 元 神戸銀行尼崎支店の支店長を最後に桑村繊維に銀行より斡旋され
て来ていた人で、銀行業務以外の知識は皆無であった。
 桑村繊維と言えば繊維を取り扱う大手産元商社であったが、ここの社長は
マルチ商法主義で すでにクワムラハムなど食品製造もおこなっていた。
 桑村社長曰く 「前田さん。社の方針は 何でも好い、儲けてさえ
貰えば」との事だったらしい。

 前田氏は 当然銀行出身であることから当時 さくら銀行に名称は変わって
いたが、西脇の当銀行の課長であった  小林氏に近づき相談したらしい。
この先輩の前田氏の相談に 小林氏は即座に「部長、当然の事 不動産業で
すよ」。とアドバイスしたらしい。

 桑村繊維にも不動産部門はあった。 しかし、実務経験はゼロ、土地を多く
所有する 当時の産元商社は 自社の土地を売買するとき、不動産免許を持って
いる事は 反復継続して土地売買を禁止する業法違反を逃れるためであった。
桑村繊維以外に宅建免許を持っていたのは他にも 丸萬商店、幸洋綿業等が
有った。

 前田氏は「小林君、当社にも不動産部門があるが、実務経験はゼロ、どこか
ノウハウを得るためにもタイアップできる不動産屋はないか? 
大手なら食われてしまうリスクがあるし そこそこ中程度の不動産屋を紹介して
ほしい」。と頼んだらしい。

 当時 この小林課長は富田産業に出入りしていて 内藤君とは親しくして
いたようで、すぐに富田産業を紹介したのだった。
内藤君は前述でも紹介したが、ちょこっと付き合いは好いが、深く付き合って
いるうちに平気で人を裏切る 狡猾さと猜疑心の塊のような男だった。

 大手繊維産元商社と手を組むことで、富田産業は絶頂期を迎えることになった。
私は まだその頃、東播染工で悶々として働いていたころであった。
前述のように PTA役員を退任した後は 私は富田産業によく出入りしており、
この前田部長とは 顔見知りになり、スナックへも何度も一緒になったことが
ある。

 その後、桑村繊維と富田産業の関係は、桑村繊維が資金を提供し、富田産業が
土地の購入、建物の建築、販売と受け持っていたらしい。
儲けは桑村が70%、富田が30%と聞く。 富田産業は桑村繊維の資金で
土地を購入する際にも 仲介料を取り 建物建築は自社が受け持ち、その利益も
取り、分譲住宅を販売した時にも仲介料を桑村に求めていたというから虫の好い
条件で桑村繊維と手を結んでいたと思う。

 私は東播での仕事が定時に終われば よく富田産業に出入りしていたので
内情は手に取るようにわかっている。
当初は用心深く、下滝野に2区画程度土地を購入し、そこに建売住宅を建築
する。バブルの絶頂期だったから直ぐに売却できた。   これに気を好くし、
今度は上滝野で広い土地を購入した。 そして12区画かに区画割し、分譲
住宅を建てた。 12区画と言えば当然の事、500平米を超えるわけで
開発許可を得なければならない。 基準に沿った道路、側溝、上下水引き込み
区画内に入る道路も4m未満の道幅のものは地権者にお願いして買い取り、
拡幅工事をしなければならない。その他にも いろいろな制約があり、建物を
建築し販売にこぎつけるまでに時間が掛かるものだった。

 ついで社町の藤田地区、そして黒田庄町岡にも大きな土地を桑村繊維に購入
させた。
 その間、野村の某会計士などと知り合い、相続対策とやらの相談事に
のり、上滝野にマンション1棟、西脇の南旭町にあった壽座映画館の跡地に
マンションを建設するのだった。 人の噂に塀は立てられない。
その資金は すべて桑村繊維から資金を流用していたと建設仲間から聞く。

 儲かって当然だろう。銀行で借りれば金利が要るが、桑村からだと一銭も
金利は要らない。
その金が 他に流用されていても 文句を言えない弱い立場に置かれていた。
私には 信じられない関係が続いていた。
そのうえ、桑村繊維から 一人 業務を覚えるためとの名目で出向させていた。

 私が開業し始めてから この以前面識のあった前田部長が 私が事務所に
何度となく尋ねてきた。富田産業からの帰り道は 私の事務所の前を必ず
通らなければならないし、私の車が有れば 立ち寄ってこられた。
開口一番「まっさん。腹がたちますわ。今日も内藤の事務所へ行ったんだが
早く 売れ残っている郷瀬の分譲住宅も片づけたい」。と相談をすると
ソファに座り、片足を組んで 顔を背けたまま 煙草をくゆらせてまんねや」と
憤慨されていた。
「まっさんが もっと早く 宅建業を開業していたら云々」。と悔やまれるの
だが、どうにもしてあげられない。

 「まっさん。郷瀬に売れ残っている分譲 売ってくれまへんか?隣は3500
万円で購入してもらったが、バブルも崩壊した昨今、利益が出なくてもいい、
原価の2800万円で売ってほしい。ただし、くれぐれも内藤に知られないよう
に頼む」。と依頼された。
 後日、私は尼崎から西脇に来て 物件を探していた方に 紹介、売却した。
前田部長も小躍りして喜び、「もうこれで内藤との縁は切りたい。残っている
7区画の分譲地と黒田庄岡に 一区画だけ場所の好い所に残しているが まっさんに
頼む」。と帰って行った。

 数日後、前田部長が事務所に入ってきた 憔悴しきったようすであった。
「どうされました」。と聞くと、「実は あれから内藤に あの残っていた
分譲住宅は うちで処分売却した。儲けもなく売却したので 報酬は辛抱して
欲しい」。と言うと、内藤は「あんたとこの力で売ったのでないだろう。誰かに
売って貰ったのは間違いない」。と言い、「約束通り 当然申し合わせた価格で
売却すれば700万円の益がでるのだから その30%を貰う」。と言ったという。
何という破廉恥な男と蔑まずに居られなかった。

 それからは桑村繊維 前田部長との繋がりは深くなっていったが如何せん
バブルは弾け、郷瀬の7区画、黒田庄岡の1区画は分譲住宅で売却したが
 1棟当たり土地の価格は平均原価800万円、建築費原価1350万円、
販促費用は50万円 諸経費50万円、当時売却価格は2600万円程度に
設定したと思う。粗利350万円、私は 強欲でないので 売却価格に定め
られた報酬額しか取らなかった。すなわち2600×3%プラス6万円と
消費税 約100万円程度しか桑村から貰わなかった。
とてもとても3500万円などと言う 分譲住宅価格は設定できなかった。
なぜなら、その頃から アイフルホームと言う 強敵が表れてきたからだ。


 その後も 商売は順調であった。平成7年1月17日 神戸・淡路大震災が
起きる。 当時はひっきりなしに”借家はないか?アパートはないか?”との
問い合わせがあった。

 余談だが、あの震災の影響は凄まじかった。 死者を荼毘するにも火葬場も
混雑していた。当時 西脇市の火葬場は八日町と言う 小高い山の上にあった。
そこへ ひっきりなしに霊きゅう車などが出入りするのである。
当時の火葬場は効率の悪い 重油などを使っていたので 時間が掛かったようだ。
この後、数年後に 火葬場は寺内に移転した。 斎場も大広間2間、家族葬用
部屋が1室を備えた 近代的で衛生的な火葬場が出来上がった。
西脇の斎場は安い。 西脇の一つだけの取り柄だと思う。私も母を見送ったが
斎場利用料は確か30万か50万円までだったと思う。
 街の親戚の葬儀に行くこともあるが、最低でも150万円は掛かると聞く。

 さて 大震災のその年に 信用を得るのと 金銭の授受を明瞭にするため
法人組織を行った。
当時、株式会社設立には1000万円が必要、有限会社ならば300万円で
あった。 従業員も雇っていないので有限会社にした。
今なら1円で株式会社を立ち上げられるのだが、 このころ、支部の役員に
なってほしいとの要請があった。
当時、支部は 野村の七福建設の2階事務所から 旧西脇駅前の商工会議所
7階の一室を借りて移転していた。
支部長は西脇支部4代目の村岡實氏だった。 彼は 良い意味で言えば豪傑
悪い意味で言えばヤクザ顔負けの人だった。
姫路に居た頃、姫路のヤクザ 竹中組の若い衆と渡り合ったというから
恐ろしい。
彼は50歳の時に支部長を拝命したようで、私より一回り年上だった。
 酒豪で、腰を据えて飲めばビール大瓶1箱(20本)を平らげる人だった。
ちなみに西脇支部の初代支部長は西脇でも資産家の西面要次氏、2代目は
西脇不動産と不動産業を営んでいた森野氏、3代目は 野村の有力者だった
神戸氏である。
 西脇支部は織物で隆盛を極めているとき、氷上の業者がお零れを貰うため
西脇支部に加入させてほしいと 支部設立から西脇支部会員として加入して
いた。 そのように会員の範囲は広く、西脇市を中心に多可郡(現多可町)
氷上郡(現丹波市)とに広がり 会員数は120社を超えていたように思う。

 支部役員と言っても 支部内で総務部・財政部・広報部・研修部・相談業務
公取綱紀部などが有り、どれかの部に属し、月に2~3回の会合を持つくらい
と、年一回の不動産フエアの日には どこかスーパーの片隅を借り、それに
2日間程度張り付くのと、年に一回 宅建主任試験が有り、各支部から監督員
として数名派遣されるのだが、半日張り付いていて 15000円の報酬を
貰うのだった。

 そして平成12年の年だったか? 20年も支部長に居座り続けている
村岡支部長に 批判が殺到していたようだが、本人も潮時と思っていたのか?
歳も70歳となり、支部長職を辞す覚悟をしたようだった。
その春、支部総会を1泊2日泊りで三朝温泉へ行ったのだ。1日目は島根の
大根島へ行き、ボタンを楽しみ、足立美術館へ行き、菓子城を見学した。
旅館に着いてすぐに大広間を会場に使わせてもらい、総会が行われた。
 現支部長の意向で 我々も押していた議長は加美町の森安木材店の森安氏に
託された。
審議は始まり、議題は順調に進んでいった。そして支部長選出が始まった。
会場は一時 荒れた。が、朝田木材社長の朝田氏が選ばれた。
 あくる日は 当時 開業し始めた”鳥取花回廊”などを見て帰った。
 
 総会が終わり、ゴールデンウィークに入った。私は釣り仲間とともに日本海へ
向かっていた。その時、携帯に電話が鳴るのである。

出ると氷上の役員で、「増田さん あんた聞いてるか?」私は「えぇ何の事?」と
問い直すと、「村岡支部長が 朝田氏を選出したことで 立腹、もう一回
臨時総会を開いて選出しなおせと言っている」。 
 私には寝耳に水で事情が分からず、”帰宅すれば出会おう”と電話を切る。

 さて西脇支部へ役員連中が集まった。どうやら村岡氏は自分の退任にあったって
上比延町の弘和観光の長井義輝や森安製材所の森安氏に”自分より若い者を選べ、
支部長になるのは氷上や多可でなく、西脇の会員を選べ”と支持を受けていたらしい。
 それを両人は見事 裏切ったようだ。
まぁ森安氏は 議長として座っていたので会員の採決をとるのに自分が異議を
出すことはできない。

 私たち役員は 村岡氏宅へ呼ばれた。 それより少し前には長井義輝氏も来ていた
と聞いた。
村岡氏は長井氏を一括し、「今すぐ 朝田に支部長の座を受けないとの約束を取り付
けてこい。それができなければ承知しないぞ。」と恫喝したらしい。
氏は この剣幕に恐れおののき すぐに朝田氏の元へ駆けつけ、本人から「辞退
する」。との確約を取り付けたらしい。
 
 こんなことを言うのは憚るが、長井氏も なかなかの隅に置けない人間である。
 しかしこの村岡氏にだけは歯が立たず、頭が上がらなかったらしい。
こんなエピソードを聞いた事が有る。 当時 神戸理事会や委員会には支部長と
長井副支部長が行っていた。 
ある日 淡河町の手前まで来たとき、何か二人 口論をしたのか? 村岡氏が
”ちょっと車を降りろ”と長井氏に言ったという。
二人は飲んでいたのか? 長井氏は ビビり、何かされると思ってか?
その場から逃げ去ったと聞く。 それほどに この支部長に恐怖を抱いていた
のだろう。
 彼がまた そのような淡河町の山中から 夜中に自宅へ帰ったかは分らない。

 さて そのあと、我々が呼び出された。 村岡支部長は「増田、お前が支部長に
なれ、ネーブル吉田は 増田を補助しろ」と言うのだ。
吃驚した。思いもしないことである。 だが、総会で一度決まった事を覆すというのは
前代未聞である。
臨時総会をアピカホテルで開いた。 私は頭が真っ白になっていて私を指名したのは
その時だれだったか覚えていないが、”一度選んだ者を覆すとは”と怒りの声も上が
ったが、誰も村岡氏に逆らう者は結局居なく、満場一致で私が選ばれた。

 さてそれからが大変である。 支部長職を預かったが、前支部長は相談役として
置くことになった。すなわち院政を敷くことである。
しかし私が引き継ぐことで 不明な預金通帳が出てきた。私は意を決して 詰問した。
それは”兵政連”との名義であった通帳だった。残り金額は確か100万円は切って
いたが、問い詰めると 開き直って「その通帳をわしの名義にしてくれ」と言うのだ。
押し問答が続いた。
 聞けば 本部の今村会長の頃に 政治向きに使うなら 適当に使ってよいと預かった
金員だという。 兵庫政治連盟の略で、バブル当時 支部運営を行いやすくするために
政治家に献金など行う目的で置いていた金だという。
 いかに どのような理由があるにしろ、総会を通し、会員の了解を得てからにする。
と言い、押し通した。

 後日、この金は きれいに処分するため、政治家と食事を共にするとの名目で
会員の中から参加者を募り 神戸市三宮の料亭に、三木の鷲尾氏、多可の内藤道成氏
氷上の石川憲行氏など県会議員んを招待して議員を囲み、食事代とマイクロバス代に使った。
国会議員の谷氏や 井上氏も招待したが 日程の調整がつかないとのことで欠席された。
他には 司法書士の吉田康男氏も招待した。

 やはり院政を敷くといっても 地位を離れれば 次第に力は及ばなくなる。
私は 西脇支部の5代目支部長として 本部からも選任状を受けることになる。

 受けて2年目だった。当時 会長は今西氏から高砂市の実力者でもあり、不動産鑑定士
でもある陰山卓司に代わる。
 陰山卓司氏が公約で目指したのは”支部統廃合”だった。 このころ、小泉純一郎の
時代になり、不良債権処理や自治体の統廃合を進めていたころだ。
それを真似て 県下、27支部だったか?あるものを14支部にすると言う 大胆なものだった。

 当然 地域の支部は反対する。特に反対したのは龍野支部と赤穂支部だった。
龍野支部は了解したが、赤穂支部の石原支部長は気骨者と言うか、断固として受け
入れず、 同級生だったという龍野支部の支部長にも反論し、とうとう それが元で
体調を壊し、龍野の支部長は他界された。

 他にも神戸西区や垂水支部など反対が多かった。 そんな中、西脇支部は手ごわいと
思われたのが私が支部長になり 中央は”取り組みやすい”と安心したのか? 三木支部
(三木市・吉川町)、播磨中央支部(小野市・加西市・加東郡社・滝野)西脇支部(西脇市
・多可郡・氷上郡)に統廃合するよう求めてきた。

 私は奔走した。三木支部や播磨中央支部などは、言っても同じ県民局管内。西脇支部は
氷上郡を抱えている。氷上は柏原土木局管轄だ。
何回となく ”丹波年輪の里”へも行った。 今後も同様に西脇支部として歩もうと
言う者、氷上で支部を作ろうと言い出すもの、いや武庫の流れに沿って三田、宝塚と言う者も居た。
なかなか纏まらない。 4度目に氷上会員全員 再度 年輪の里に寄ってもらった。
会員の中には 「氷上支部を立ち上げるべし」と叫ぶ者もあったが、本部は支部を減らそう
としているのを逆に増やす事は考えていない。
ここは 三田支部と統合するしか手はないと説明、 結局 賛否両論で結論が出ないので
西脇支部で残っている2000万円程度の金員は全会員 平等に分かることを前提に
どちらに行くか?投票にした。
 僅差だったが、三田支部に行く票が多かった。私としては 予定通り、胸を撫で
降ろした。
 当時、三木支部長は野津氏、元刑事上がりの老人だった。播磨中央支部は高橋昇一氏。

 とりあえず3支部統合するということで 誓約書を作成し、3支部長が署名・押印した。
この時期、富田産業の内藤君が 擦り寄ってくるので役員に加えてやった。
まぁ この道に入ったきっかけも彼が示してくれたものと 思っていたからだった。
しかし、それは獅子身中の虫を抱え込むことに等しく、後日 裏切りと言う形で現れた。
一応、調印式と言うことで、会場は 滝野の”滝寺荘”で行うことになる。

 後は支部を何処に置くか? 色々検討したが 北播磨県民局に最も近い、播磨中央支部が
最善だろうとの結論に至った。

 さて事務局員は誰を置くか?と言うことだったが、播磨中央支部の事務局員が一番しっかり
していたので これともう一人 事務局員を置くことにした。

 西脇支部には 豪華な支部長の机や椅子、それに豪奢なソファが有った。
私は それを西脇支部会員に知らしめたうえで、競売風に売却にかけた。違法かどうか
分からない。
それとともに 新しい支部発足の為にも 必要かと思い、競売に新支部も参加させた。
思い通り、一番 指値の高い指値を入れた新しい北播磨支部に買い取られることになった。

 残るは支部の財産である。この2000万円余りの財産は 昔 緑風台を分譲した際、
工事を請け負っていた 建設業大手、長谷川工から迷惑料として預かった金員と
聞いていた。
 当時 社団法人であった支部・本部は 法的には財産を会員が受けてはならないらしい。
しかし、それでは会員は納得しない。
私の一存で 責任を持つといいうことで、名目を”親睦会費”とし、会員が積み立てた
金として 旧西脇支部会員に振り込んだ。

 このことを本部は目をつぶっていたようだが、嘘か誠か知らないが、後で聞くと
「支部長の采配でしていることをとやかく言う事も出来ないし、肝を冷やす思いだった」。
と本部は思っていたという。

 このころも商売は順調で 新しい北播磨支部では副支部長として 神戸の理事会や
委員会に週1~2回通っていた。
何時も神戸へは東条を通り、吉川を抜け、三木市淡河町を通り、鈴蘭台を抜け
長田に出て、再度山の下を通り、県庁の脇を通って、県庁下の長狭通りに所在する
兵庫宅建本部に執務しに行っていた。
7年ほど通ったことで、不動産会館へは目をつぶっていてもいけるようになっていた。

 委員会が終わった後は よく飲み会にも参加した。 アクセスのよい、姫路支部や
尼崎支部などは 飲んでも電車があるので好いが、私は車である。
飲んだ後は 決まって 三宮サウナに行き、最上階のジャグジーに入り、サウナに入り
そしてカプセルで寝たものだった。カプセルでの睡眠は快適だった。
そして、翌朝早く、自宅へ帰る、そのような活動を6年続けた。
そのようにしていても 仕事は順調で、当時 加西市の鶉町に ある機械メーカーの
会社の お偉いさんで 河野氏と言う方が、縁あって知り合う。この方はもともと
高砂の人だが、加古川の日岡神社の近くに住んでおられた。

 新野辺に沢山土地を持っているのだが、急がないので売却してほしいと依頼された。
この方は、義理堅く、地元の悪質業者が直接 売却をさせてもらうよう、訪ねてきても 
”マスダ不動産を通じてきてくれ”と断っていたと聞く。
6年掛かって処分させて頂いた。 残念なことに病にに倒れ、亡くなられたが、この
奥様がまた 義理堅く ”続けて処分は続けて任せる”と 私に依頼されてきた。
 
 本当に私は ついていたと言うか、恵まれていた。奥さんはその後、自宅も私に
売却を依頼され、ご自身は神戸の再度山に住まわれていたので、不動産会館へ行った際に
報告しなければならないときは、県庁のレストランで時間を合わせ、報告していた。
 その後、加古川の自宅が売却できて、安心されたのか、芦屋にマンションを購入し
住まわれている。
 
 奥さんは絵が趣味で、油絵を描かれていた。神戸に住まわれているある日、北野坂の
物件を借りて個展を開かれた。
招待を受けたわけではないが、妻と行き、拝見させてもらった事が有る。
 彼女は この個展を開くことで 何か心の区切りをつけたかったのだろうか?
どんな家庭にも事情があるが、主人が亡くなり、奥様に後程聞いたことだが。ご夫婦の
間には二人娘さんが居て、その内の一人に他人にも言えない事情があった事を後日
 知ることになる。



未知の分野へトラバーユ、追憶その3。

2018-07-07 11:22:36 | 日記
 さて今週は毎日のように雨、雨、雨、テレビでは何十年に一度の豪雨と言う。
この土曜日は 本来なら 会員権を持っている妙見富士CCの開場記念に行くはずで
あったのだが、洪水警報が出ているのに行けるはずはないだろう。
 案の定、朝早く 同伴する予定だった連れから”今日はクローズするはずだから
止めよう”との電話。
 それにしても ゴルフ場から”取りやめる”との一報がなければならないのに
木曜日に フロントに尋ねた時には”分かりませんが 今では行う予定です”。とか
言ったようだ。
 年々 開場記念杯と言っても お粗末なものになってきたが、それでも料理人や
料理の材料を仕入れて用意していただろうと思うと 気の毒にとも思う。

 さて東播染工㈱での勤めは 内勤になってからストレスが溜まる一方だった。
女性の扱いは難しい。 例えば 巻き取り機械など故障するときがある。保全を呼べば
よいのだが、すぐに来ない場合がある。 そんな時 ”自分で治せるなら・・・”と
その女性が使用している機械を治しに行くのだが、 ”増田さんは 自分の好みの
人は大事にしている”。と陰で囁かれているのを それとなしに耳に入る。
 自分では分け隔てなく接していると思うのだが・・・
また、夏季の盆休みや、冬季の正月休みに入るときは、掃除を行うのだが、終わると
部署の者だけ 隣の中華料理店”たまゆら”などに 自分の自腹で 連れて行くのだが、
 これまた”弁当を持ってきている”と言って 参加しない へそ曲がりが2~3人居て
気分が悪くなることがあった。

 平成2年、会社を辞めることを決意した。家の借金は残っているし、長男が高校生
次男が中学校、長女は小学生で 今から子供にも金が掛かる。だが妻に言うと 
大きな反対はせず”私も 勤める”と言い、兵庫銀行にパート社員として勤めてくれた。
総務部長は”アホやな~ 今辞めると一番損する。今から正味 退職金が増えてくる
のに 今辞めると少ない”。と言われたが決心は固かった。

後日談であるが、竹内謙三氏は 早稲田大卒と言うだけで 頭はよかった。
私が辞めた1年後、その頃 弱体化していた組合を尻目に、従業員を一旦解雇し
再雇用しだしたのだ。当然 途中で退職金を支払えば安く上がる。
そして再雇用は すべてに条件が悪くなっていた。 当時 大手の加工場と言えば
播州織加工組合、東洋染色、第一染工であるが、現在残っているのは組合である
播州織加工組合と東播染工だけである。 東洋染色は東洋紡の100%資本であったが
閉鎖、第一染工も倒産した。

 富田産業の内藤君からは 早くから”辞めて うちに来てほしい”と言われていた。
だが、彼は 付き合うほどに 周囲から疎まれ憎まれしている男と分かってきた。
とあるスナックへ行った時だ。ある程度酔っていたのか?カウンターの中のママさんに
向かって ”お前とこの息子、万引き癖は治ったか”などと言うのである。
 これにはママさんは怒るし、私も閉口した。
 またあるスナックへ行くと、材木卸業の男だったが、二人で飲んでいるところを
この男性が割込み ”内藤、お前 えぐい事さらして云々”と絡んでくるのだった。


 また ある時 ”まっさん。ちょっと作業場見に行くのに付き合わないか?”と
言って 彼の車に誘われ乗り込む、行先は 自分が仕事を依頼している大工さんの
仕事場だった。勝手になかに入り、柱の本数を数えたりするのだ。
”何をしてるのか?”と尋ねると”材木のチョロマカシがないか 確認している”。
と言うのだ。
そんなに他人が信用できないのか?と疑問に思った。
 ”まっさん。象の尻尾より、ネズミの頭や”言うに 小さくてもよい、頭になら
なければとの例えを言う。 そして”うちへ来てくれて家を売ってくれたら50万円
手数料を払う”。と最初のうちは言っていた。
それが何度か会って 同じような話ばかりだが、だんだん手数料が当初50万から
40万、30万と下がっていくのだ。
 このころから 彼は信用できな男だと感じ始めた。案の定、PTA仲間からも
疎まれ始めていた。
 まぁ 約束で会社を辞めれば富田産業へ行くと口約束をしていたので 失業保険の
手続きをしながら、事務所へ行った。
そして”内藤君、宅建主任者の資格もないし、知識もないし、悪いが辞めさせて
貰う”と言うと、答えは”勝手にし”との返事。

 まぁ会社を辞めても当時46歳、どこでも使ってもらえると思っていたが、考えは
甘かった。声をかけてくれるのは東播染工時代の下請け会社ばかりだった。
40歳も過ぎると よい就職口はなかった。 
やはり独立開業をして独り立ちをするには宅建業しかないかと思い始めた。

 ある日、求人広告が新聞折込に入っていた。滝野の工業団地にある凸版印刷工場の
求人募集で、期間社員を募っており、特定の期間務めることで毎月45万円支払うと
載っている。 このころ、私は坂本真一郎氏がギフトショップ店を経営していたので
社支店の店長として働いていたが、店長とは名ばかりで、支店に不幸が起きた家の
住所電話番号をファックスで送付してくる。 その住所を頼りに 不幸のあった
家へ行き、香料のお返しなどの注文を取りに行く、まるでハイエナ商法だった。
給与も25万円と安く そのうえ、真一郎氏はこの頃、PTA時代の暴飲暴食が原因か?
肝硬変を患っていたと聞き、病院で腹を切って肝臓を調べたが、医師が手遅れだと
言われたという事を 斎藤商店の斎藤君に聞いていたので、亡くなってから辞めれば
不義理と言われても・・・と 思い、真一郎氏に 何事も知らないふりして辞めさせて
貰った。

 早速 履歴書を書き、当時 凸版の総務部は福崎にあったので福崎工場へ行った。
一発で”来てほしい”との返事。 そして”期間社員でなく、長期務めてもらえますか?”と
言われた。
 早速 滝野工場へ行った。そこには大きな加工場にあったシルケット機や樹脂機と
変わらない、いやそれよりも大きなドラムのついた印刷機械が作動していた。

 私はここでも付いていた。 凸版には大阪紙業と言う、いわゆる派遣会社が入っていた
のだ。この大阪紙業を通じて入っている社員は 当然 派遣会社に給料を搾取されるので
手取りは20万円程度だったらしい。
私はと言うと、凸版の制服も支給され、給与はチラシに書いてあった45万円ではなか
ったが、てどり40万円以上は有り、一息ついた。

 さて凸版と言う会社に生涯使ってもらおうと思い、その旨 伝えると、”正社員で
来てもらっても良い”との返事があった。
しかし、喜びの束の間、正社員になると一時金の対象にもなり、厚生年金、社会保険等
入ってもらえるが、給与はダウンし、20万円になるという返事だった。
即座に 正社員は断った。

 当時凸版の仕事は朝8時から夜8時、これが二日続き三日目は昼間仮眠して夜8時
から明け方8時と二日続き、そして翌朝から二日休めるというものだった。
若い者は良いかもしれない。しかし当時45歳だったかの私には きつかった。
また親子ほどに歳が離れている若者と仕事するのは面白くなかった。
やはり独立開業と思い、机にしまっていた”宅地建物の取引の知識”を持ち出し、
大きなロットで順調に機械が回っているときに勉強するのだった。
 妻も関心するくらい、家では食事中にも本を広げて勉強した。

平成3年10月 西明石高校で行われる宅建主任者試験会場へ行った。このころ、宅建
主任者試験は人気試験で どの会場も人が溢れんばかり会場に詰め掛けていた。
正直、前年にも明石高校へ行ったのだが、平成2年の試験は出題者も後から設問を
読むと解らないほど難問で、私は時間内に問題が解けず 早々に匙を投げた。
この年は 普通50問中36問以上で合格ラインと言われていたが、20問程度で
合格したらい。諦めずに 最後まで・・・と思ったが後の祭りだった。

 西明石での試験は 冷静に解くことができた。 ”こんどこそ間違いなく受かった”。
と自信があった。
翌年2月だったか?合格通知が来た。 しかし、不動産業開業には実務経験が3年以上
もしくは建設大臣(現国交大臣)が指定する 通信教育を半年受けなければ開業できな
かった。
 すぐさま通信教育を受けた。凸版へ通いながら、そして半年が過ぎ、最後は神戸国際
会館で行われる講義を3日間受け、最後に簡単な試験が出され、そして晴れて宅建主任者
証を手に入れることができた。

だが、残る道のりも厳しかった。 宅建西脇支部と県民局へ何度足を運んだか、私が
住んでいるところは調整区域だ。 普通 調整区域では店舗等営んではならない。
市街化区域で店舗を持てと言うのだ。
色んな難関を突破して 晴れて不動産業を開業したのは忘れもしない平成4年12月
4日だった。
 開業した事務所へは 支部の調査員が来る。通信機器(電話・ファクシミリ)は
設置しているか、報酬表は掲示しているか、一般応対する部屋と取引を行う部屋と
別々にしているか等々、
 このころ、支部の調査員は和布の大杉氏だったが、冷やかされた。
いわく”あんた今から開業してのかいな、皆 辞めようとしているときに、元気者やなぁ”
なぜなら 平成4年と言えば バブルが崩壊した年だったのだ。

 だから保険をかける意味で 違法ではあるが この年も凸版に通っていた。
当時、携帯電話と言ったものは一般に持てず、家に電話が入れば 相手の電話の表示が
分かるポケベルを身に着けていた。

 西脇には当然の事、色々な知り合いが居て、私が開業したことを知って ”ワシが
持っている緑風台の土地を売ってほしい”とか ”土地を探している”とか相談して
来る人が居た。
また その頃 購入していたリソグラフとか言う 印刷機でチラシを刷り、高校生に
なったばかりの次男坊と小6だった娘を連れて 社・滝野・西脇市内のアパート
マンションなどへ入れて回った。
 その甲斐があったのか? 凸版に努めていても ひっきりなしにポケベルが鳴り、
敷地内にあった公衆電話から相手へ電話するのであった。

 東京三菱銀行に勤めている男性が居た。私の従兄の妻の弟で、自分は山南町、妻は
宝塚、間をとって三田市で家を探してほしいとの依頼を受けた。
当時、彼は 大船の社宅に住んでいて、通うのに2時間、夜は10時までは仕事をし
寝に帰るだけの生活なので関西に部署替えを頼むのだが、彼はやり手で なかなか
戻してくれない。そこで既成事実を作って・・・との事だった。
早速 休みには三田市へ行ったが、ここはバブルが崩壊したというのに その名残が
残っていて、空き地が有れば すべて建築条件付きだった。

 最後は 狭間が丘で物件を見つけ、気に入ってくれたが、その物件の持ち主は
建築士で 買い替える物件はウッディタウンと言うところで、1億を超える豪邸を
建てると言うことだった。
彼は、その後、三田市に家を持ったことで大阪の三菱銀行難波支店・支店長として
戻ることができ、数年務めたのち 今は楽隠居をしている。


 何はともあれ、仕事は忙しくなり、凸版には大分引き留められ、迷惑もかけたが
宅建業法では別の職業に就いてはいけないとの縛りがあり、違法になるとのことを
上司に告げ、平成5年 5月に退社させてもらった。

 ここでの勤めも 無駄ではなかった。一緒に働いていた 大阪から来て家を
滝野に建てていた男性から、「増田さん。今持っている家を売ってほしい」。と
言う依頼だった。 なぜ?と聞くと、「田舎の付き合いはかなわん。葬式ができ
たりすると二日でなければいけないし、溝普請や道普請と言えば 日曜日には
休まなければならない。それで三奈木台で土地を見つけたのだが、この家を処分
しなければ契約できない」。というのだ。 これも処分させてもらった。
 また この会社の部長級の人から「家を探してほしい」と依頼を受けた。
当時の私は 何事も背水の陣で臨んでいたので 必死の思いが伝わったのか?
 同業者はバブル崩壊で 困っている中、私の商売は順調に運んで行った。

 
 

 

 

平成の始まりのころ、追憶その2

2018-07-06 10:11:40 | 日記
 さて台風7号の影響で 長雨が続き 毎日が退屈、学校での仕事も 草刈りも
出来ず、もっぱら 持参しているディスクグラインダーに これまた自腹で購入した
特殊合金でできたディスク型研磨を取り付け、草刈り機の歯を研いだり、
校舎裏口に 金属や可燃物・不燃物・洗い粉の入っていた容器、それに壊れた
ビニール傘、物置小屋へ持ち帰り、金属部分と可燃物とに分別作業、時間が余れば
Pタイルなどもはがれている箇所があり、張り替えたいが、以前から置いてあった
100枚程度のPタイルはすべて廊下など張り替え、低学年の教室のPタイルが
剥がれていたので 50枚ほど学校が購入したが、すべて張り替えて もう材料は
ないということを報告しているが?

 さて昨日の続きだが、昭和64年1月8日は昭和から平成に元号が変わる日だった。
その日は 昨日の二人と福井県の若狭本郷へメバル釣りに行っていた。
その頃、若狭本郷との半島を結ぶ橋は 立派な橋にかけ変わっていた。
また漁師の家は 殆どが新築で 漁船なども新しい船に買い替えていた。
 そう、その当時から原発を設置し始めたのだった。 若狭の町は潤っていた。

 メバルも新しいテトラや石垣につくという、私たちが使用する渡船屋は庄司渡船か
福島渡船だった。
 その渡船屋は原発を設置してある波止に我々をあげてくれるのだ。当然 そこは
立ち入り禁止となっているのだが漁師は無視、関電のガードマンがやってきて
”ここは立ち入りだ。直ぐに出ていくように”と警告するが、一旦 波止におろすと
迎えに来るまでは動けない。 関電のガードマンも地元の漁師に弱いようで 上から
地元とのトラブルを避けるよう言われているのだろう。そのまま引き下がっていった。

 その日は大漁だった、イサザ(シロウオ)を餌にするのだが、薄暗くなるとテトラ
から素早く餌を食べに出て来るのだった。大きさにして30センチはあろうかと言う
黒メバル。

 さてそのような事はさておき、帰りの車の中で 昭和から平成になったニュースは
車のラジオで知った。当時 官房長官だった小渕氏が何度もニュースで繰り返して
いたのを思い出す。

 私は平成を機に 煙草を止めてやろうと決意した。 
今までの生涯のなかで、”自分で自分を褒めてやりたい”と思ったのは このこと
くらいか? 私はヘビースモーカーだった。
1日に2箱は吸っていただろう。 止めようとしたこともあったが、同僚などに
”まっさん。タバコは一服の清涼剤だ。吸ったら”とわざと差し出すのである。

 当時、営業として産元商社まわりをしていた者としては、お客さんとの話し合いが
仕事だ。 煙草がないと手持ち無沙汰になり 話が続かない。

 それが、A型肝炎を患い 内勤になったことで止められてのだった。
だが、それはそれは苦しいもので、止めてから7年経っていても 夢に吸っている
自分を見るのであった。 ”あぁ しまった。とうとう吸ってしまった”と
夢に見る。後悔しても遅い、”エエィ 1本吸うのも2本吸うのも”と思ったところで
目が覚めると、”あぁ~夢で好かった”と胸を撫でおろすのだった。

 仕事は相変わらず、今まで 外で羽を伸ばしていたかのような仕事をしていた
私にとって 部署の責任を押し付けられ 部下を持つことは苦痛だった。
それに平成元年など 繊維産業以外はバブル絶頂期であった。

 当時 プラザ合意などで1ドル360円の固定レートから 変動相場制に変わり
確か 1ドル116円前後だったと思う。
そりゃ 採算は合わなくなる。 仮に1ヤード織って、今まで360円も懐に入って
いたのが半値以下になったのだから ガチャマン時代(ガチャンと横糸が走れば
万の金が入る例え)は過ぎ去ったのだった。

 その頃、日の小学校の校長でも会った 細田氏が持っている旭本町の細田ビルを
借り受けて PTA時代の内藤君が ”フォルテ”と言う  今のコンビニの走りの
ようなやっていた。
 彼とPTA活動が終わっても 小学校の際のPTAも一緒だったことから意気投合し
彼の事務所へ 会社が終わった後 よく訪ねて行った。

 彼は行くと 気前よく”まっさん。今から三宮へ行こうか?”と誘うのだ。
私は 内藤君に ”西脇なら折半で払えるが、神戸はペェペェだし”と言うと
”みんな わしが持つ”と言って、彼の乗っているクラウンで 神戸のラウンジへ
くりだし、明け方まで飲んで帰るのだった。
帰り際 明細書が渡され サインをして帰るのだが、横目に見ると10万円
以上の明細書だった。

 ある日、内藤君に ”内藤君、店はそんなに儲かるのか?”と尋ねると
”あんなもん 儲かるかいな。あのなわしは宅建で儲けているんや”と言う。
私は 当時 無知で、宅建の意味が分からなかった。 彼は”へべたく言うと
不動産屋だ。まっさんは不動産屋向きの顔をしている。繊維のような細い糸に
頼らず 不動産屋を目指したらどうだ。”と誘いがあり、”どのようにすれば不動産が
開業できるのか?”尋ねると、”住宅新報社が出している〈宅地建物取引の知識〉と
言う本を買い、それを全部覚えれば 宅建主任の試験が年に1回あるのでそれに合格
すれば不動産業を開業できる。”と聞き、分厚い その本を買った。
600ページはあろうか?分厚い本だった。 そこには民法・法令・税法・業法
業務等など書かれてあった。
買ったものの、今更 あほらしくて勉強などと思い、机の中にしまっていた。