喜寿をむかえた男の遊々生活!

喜寿を迎えた老人の日々を日記に・・・

思いつくままに 追憶その8

2018-07-15 16:03:04 | 日記
 豪雨明けから 厳しい 殺人的な 暑さが続きます。被災地では さぞかし
暑いうえに 水も不足し 大変だろうと思います。私が50歳前後なら ボラン
ティア活動に行くかも知れませんが・・・

 さて学校での仕事は相変わらず この暑さの中、外での作業、金曜日は金属
引き取りの日、北校舎の裏口に 空き缶やスプレー缶、クレンザー(磨き粉)缶
コーヒー缶、ホースリールなどが残置されている。

 スプレー缶など 可燃部分がついているので外さなければ持ち帰らないだろう
と思い、プラスチック部分を取り除き、ガスも抜かなくては・・・と思い、金槌の
尖った部分で穴あけ、ブシューとガスが抜けるが まだ使用できるのでは?と
思うものも有ったが、すべて廃棄に、またクレンザーを入れている容器の上下は
金属なので これも切り外し、空き缶も嵩が高いので 踏んで小さくコンパクトに
 そういえば、先日 コーヒー缶をヘシャがらせていると、煙草の吸殻が出てくる。
生徒でない、普段なので父兄でもないだろう。マナーの悪い奴がいる。
 その後は 酷暑の中、西側水路に張り巡らされているフェンスに絡みついたツル系の
雑草を取り除く。 昨年 このツル系の中に 大きくなるとトゲトゲの鋭い奴を
見つけたので 今後も小さなうちに取り除かなければと思う次第。

金属廃棄物

 さて、昭和30年に 昭和18年4月2日生れ~昭和19年4月1日生れは
小学校を卒業した。 この年、人数はかなり多く、2クラスで100名近く居たと
思う。
18年、19年は国民皆兵で、兵隊にとられることにより、子供が多かったと
推察する。 その後、復員して帰ってきて 平和になったことにより、子供は
増えていった。 昭和22年~24年にかけての団塊の世代と言われる時代だ。

 私たちは西脇中学校に入学した。 西脇中学校は家から5kmほどあるので
自転車通学となる。
父は新品は買えないので、当時 心安くしていた南朝日町の 山下商会と言う
今でも存在するが自転車店で中古自転車を買ってきた。

 その自転車はリムもフォークもカバーも錆びついていた。 だが、私は古いのは
承知の上だし、それはそれでよかったのだが、しかし、父はリムに銀色のペンキ、
カバーに黒いペンキを塗り、まるで鋳物のようだった。

 父は 好かろうと思い、塗ったのだろう。 親心が分かるので文句も言えない。
その自転車で学校へ通った。
案の定、前島に石井巌と言う、大柄の同級生が居て、部活などなく早く帰る時
あの長手の堤防の林に隠れていて 待ち伏せするのである。
当時、小坂町のあの長い堤防に家はなく、あるのは竹藪だけだった。
日に日に 石井の乱暴な行為はエスカレートしていった。 

 そんなある日だった。 郷瀬町の旧の春日橋を渡っていたところで石井は
待ち伏せしていた。無視するのだが、執拗に寄ってきて”鋳物・鋳物”と言って
蹴りを入れてくる。何時もながら”困った 体力的に劣るし”と 過ぎ去るのを
辛抱しているのだったが、その場所を通り掛かる自転車が有り、その自転車に乗った
若い男性が、”巌”と言い、胸倉を掴んで 顔をボコボコに殴るのだった。
確か”お前みたいな 奴が居るから 村が差別されるのだ”と言っていた。
巌は”兄ちゃん 堪忍”と必死に叫んでいた。 
後から聞いてのだが、その兄と言うのは 姫路かの塩野義製薬所に就てめていて
たまたま休みが取れて帰ってきていたという。
 それ以後、巌の暴力はなくなった。

 さて1年生の担任は来住先生であった。髭面の人だった。国語を教えて貰ったと
思う。中学校になれば担任の先生は居ても、専門教科を教えるから幾人もの先生に
教えてもらうことになる。 長谷川先生と言い、農業の先生だったか?渾名は
山賊と言われていた。
 面白い先生だった。当時、西中では豚を飼っており、残飯を貰いに生徒数人2輪車を
引いて 当番で貰いに行っていた。
 思い出に残っているのは 隣の席に徳岡リエコと言う女の子が居た。色白で大人しい
上品な女性だった。 英語がよくできるようで、私が英語を読まされていて 詰まった
時は 小声で教えてくれた。
彼女は 西脇の蓬莱橋西詰に当時 厚生堂とかいう化粧品店が有ったが、そこの
一人娘だった。
その他にも クラスにはよくできる男が居た。 竹内染料店の息子の竹内泰彦氏だ。

 彼は 高校を卒業後 早稲田大学に入学した。 彼も英語が堪能だったようだ。
私たちは ヨレヨレの木綿の学生服を着ているが、彼はポリエステルなどの黒い色の
鮮やかな制服を着ていた。

 2年生になった。担任は 中町鍛冶屋から来ている丸岡先生で有った。物静から
大人しい先生だった。 当時 私は5級スーパーヘテロダインと言う SP真空管を
使った ラジヲを組み立てていた。 月々の少ない小遣いの中から、秋葉原の電気店に
シャシーとか、ベークライトのソケット、真空管、トランス、バリコン、コンデンサー
抵抗など部品を 少しづつ買い集め、半田コテで配線し 組み立てていた。
もう少し、と思い、朝まで寝ずに組み立てていた。 ダイナミックスピーカーなど
高く手が出ないので、マグネットスピーカーだったが、スイッチを入れ、真空管を
温め始める独特のブーンと鳴る ハムと言うのだが、それが聞こえ、バリコンで周波数を
合わせると 確か美空ひばりだったかの歌がスピーカーから流れた時は感動的だった。

 さて その頃、同級生の中に 当時 和田町で開業していた田野眼科が有り、そこの
御曹司で田野(下の名前は忘れた)君が居た。 彼は 秀才だった。 しかし変人と
言うか?休み時間になれば図書室へ行く。 誰ともあまり喋らない。
だが、彼は その後、灘高からか? 東大に入学した。
私の同級生で 知る限りでは 二人 東大に入学している。一人は郷瀬町の阿江(日野
地区ではアイエと言う)勉と言う男だった。 小学校時代は”トンちゃんトンちゃん”と
呼んでいた。 父親は土建業をしていて、阿江善太郎だったか”善さん、善さん”と
呼ばれていた。

 さて、3年生は 山南町井原の広瀬先生だった。数学と理科を教えて居られたと思う。
口数の少ない 温厚な先生だった。
同級生には 松尾凡平と言う 当時 東本町に有った、松尾内科医院の息子さんだった。
彼とは馬が合い、家にも よく遊びに行った。 ある日、レントゲン室に入って遊んで
いて 先生である お母さんに叱られた事が有る。 でも優しい綺麗な先生で、おやつに
パイナップルの缶詰を頂いた事がある。 当時 私の貧乏な家庭では手に入らないもの
だった。
後年、松尾君のお母さんは 八坂町にある、老人ホーム”みぎわ園”だったかの理事町だ
たっかで就任されていた。

 松尾君とは修学旅行へ行くときもバスも隣に座り、当時 確か神姫バスで明石港へ行き、
客船で高松港に行っていたと思う。 客船と言っても 戦後の事、貨物船に少し手を加え
たような代物だった。
 女子は甲板より上の部屋、男子は機関室の横だった。 船の丸窓に波が見える。
機関室は隣にあり、”ロンロンロン”とエンジンの音がする。 当時 乗り物に弱かった
私は”こりゃ てっきり船酔いする”と思ったが、松尾君が私に 睡眠導入剤をくれた。
おかげで高松港へ着くまで ぐっすり眠れた。

 朝つくと 琴平バスと言う観光バスが待っていた。当時の四国道は舗装などしていない。
道路幅も狭い。ガイドさんが”惚れて、惚れて”と春日八郎の歌だったか、三橋美智也か
分からないが、”掘れて、掘れて”と替え歌をうたっていた。

数年後、四国は大平首相を輩出し、みるみる四国の道路事情は好くなっていった。
そして凸凹道を揺られ、屋島へ行き、讃岐の金毘羅山へ行き、松山の道後温泉 とらや旅館に
泊まった。

 あくる日に金毘羅山へ行ったのかもしれない。 旅の終わりは栗林公園だった。

松尾凡平君は この修学旅行後、母親の仕事を継ぐため、神戸医大に入学するため、進学校へ
変わることになった。

当時、西中は荒れており、不良が多かった。 同級生には 何度も警察の世話になったという
男もいた。身体に無数の喧嘩傷があり、大柄で 先生も見て見ぬふりだった。
ある日、私に”ジャックナイフを貸してやろう”と言うのだ。まぁ断って気を悪くさせても
と、思い、数日預かったが、返しておいた。

 進学シーズンになった。私は 家が貧乏であることで、進学を断念。昼間働き定時制に
行こうと心に決めていたし、父母も 私が働きに出ることを願っていた。
しかし、広瀬先生は「増田君、昼間行くように、せめて工業化学科へ行くように、何なら
私が親御さんにお願いしてみる」。と言われ、家に来ていただいた事が有る。
両親も 先生に説得され その気になったようだが、私は先生の期待を裏切り、”定時制に
行く”と言った。

 そして定時制に行く傍ら、小坂町の篠原縫工所㈱へ勤めることになる。昭和33年だった。
この会社は社長が篠原重雄氏と言い、何時も頭に日本手ぬぐいを被り、自ら現場に入り
働いて居られた。
学校へ行くことも 了承し、5時になれば”亨さん。仕事を終えよ”と言ってくださるのだった。
会社の社員の人数は80人位だったか? 殆どが寮住まいだった。
 社長の奥さんが、加美町箸荷の出身ということもあり、加美町から女工さんが多く来ていた。
その他、四国、九州も多かった。
 私など、中学校を出て 異性などに余り関心もない頃だったので相手のお姉さんも 優しく
してくれた。

 当時、小坂町は「愛と死をみつめて」と言う本が売れ、主人公の大島道子さんが小坂町で
あることから映画化されたときは、吉永小百合さんや 浜田光男さんが来ていた。
その後も、色々な俳優が墓参りに来られていた。

 この頃、篠原縫工所㈱は隆盛を極めており、バスを2台連ねて 豪勢な慰安旅行をして
いた。
この頃、名神高速の一部が開通し、京都から高速道を乗り、愛知県方面へ旅行したことがある。
トヨタ自動車工場など見学した。 自動車工場のあのスケールの大きさに 仰天したもので
ある。
 その頃、1万円札が出始めた。 社長が「亨さん。これでビールを1箱買ってきてくれ」と
1万円札を預かったが、手にするのは これが初めてだった。

 仕事中でも社長が「亨さん。終業ベルを鳴らしてくれ」と言われるので 何か?と思いながら
ベルを鳴らすと。女工さんたちが一斉 ミシンを止めて、こちらに注目をする。
社長が「今から 駅前の三閣へ行って 食事して映画を観に行きます」。と言うのだ。
この頃、土日に休みはない。社長の気持ち次第であった。

 そしてゾロゾロと1個大隊が駅前まで歩き、当時 駅前に三閣と言うレストランが有ったのだが
屋上のビヤガーデンでビールを飲みながら食事をするのだった。

 そのあと、西脇劇場や大劇では日活の映画を取り扱っており、小林旭などの”渡り鳥シリーズ”が
流行っていた。
 この頃、1ドルは固定レートでの360円時代。 縫製工場は輸出物を扱っており、殆どが
アメリカ向けだった。キャバナセットとか言われる物もあった。
西脇は織物工場だけでなく、縫製工場も儲かっていたのだ。後日、私たちの父母も この
篠原縫工所の下請け的な事をさせていただく。

 篠原縫工所は、従業員だけではなく、下請け会社にも秋になれば松茸狩りに三田へ行ったり
近くでは加美町豊部と言うところへ行ってた。テントを張り、すき焼きなどをして豪勢だった。