喜寿をむかえた男の遊々生活!

喜寿を迎えた老人の日々を日記に・・・

思いつくままに 追憶その9

2018-07-25 10:38:09 | 日記
 休み明けからの学校での作業は もっぱら草対策、月曜日は学校南側の
歩道に 除草剤撒き、ところが雑草にかけると 厳しい日照りと、乾燥して
いるので、噴霧しても 直ぐに乾く状態。
サンフーロンの注意書きには 散布後 7時間 雨が降らない事を効果が効く
条件になっているが、乾燥時の事は書いていない。ネットで調べると、やはり
乾燥していると 葉から吸収しないため、効果が薄いので 早朝涼しい間に
散布するとしてある。
 まぁ 散布して水分が蒸発しても 薬剤は葉に付着しているはずだし、夜露に
あたって吸収するかもしれない。 しばらく様子を見ることにする。
火曜日はプール北側の法面に生えている雑草を草刈り機で刈るが、直射日光が
あたり、30分も作業をすれば汗だく。
熱中症になっても・・・と思い、木陰で水分補給、休憩するが、汗は止まらない。

 さて、先日は小学校時代から中学校時代にかけて 粗方 書いてみた。
中学校時代はクラスは11クラスであった。小学校時代の友達とは 殆ど一緒の
クラスになることはなかった。

 大木町の杉岡織布 杉岡巧国君は岡山の柏陵へ行ったようだし、宮六織物の
宮田礼彰君や、富田の後藤織物㈱の後藤国彦君なども西中以外に進学したようだ。
郷瀬の阿江勉君(通称トンちゃん)も多分他の学校へ進学しただろう。

 西脇では戦後 2~3年してガチャマン時代に突入した。
1ドル365円の固定レートは 多分に 地場産である繊維業界に恩恵を齎す。
野中町も例外でなく、三弘織布㈱、大弘織物㈱、宮六織物㈱と大手 織物会社が
有った。したがって村の会計は潤っていて、それは新しく布団太鼓の購入や
 公会堂建設、神社の補修など この織物会社が多分に高額の金を寄進し
村人の負担を軽減する。 一般の家庭はまだまだ経済的に苦しい時代、この野中町
在住の大手織物会社は沢山寄付をして 我々 貧乏人を助けた。

 近年どうだろう。先日も村では神社の境内の屋根が傷んでいると言い 修理、
鳥居が傷んでいると言って建て替え、太鼓蔵が傷んでいると言って建て替え、
その額 2000万円近いだろう。 私は太鼓を置くことに反対したが、殆ど
内心で思っていても口に出さないのだ。
 野中町の協議費は西脇市いや兵庫県下の町村でも一番高いと推察される。
私宅で半期21500円、年43000円を納めている。 その上に妙覚寺の
寺割が3000円だったかで有るが、寺が古く、いつ建て替えも迫っていると
言い、プラス4000円ほど積み立てている。合計5万円強となる。
 あの協議費が高いと言われる大木町が半期18000円、安いところでは富吉南
ゼロ円、焼却炉が有るからだろう。日野町が1万円と聞いている。
 このままでは高齢者が増える中、厚生年金を貰っている者は何とか支払えるが
国民年金で7、8万貰っている者は 支払えなくなることは間違いないし
 現に 今の役員連中に聞くと 支払えない者が続出しているという。
 太鼓なんて担ぎ手も居ないし、乗子も居ない。 無用の長物と思われるし
保存したいと思うなら 隣村と相談し 2村で1台にするなど工夫できると思うの
だが・・・
 

 元に戻り、昭和49年50年を境に 様変わりしてしまうことになる。目先の
走ったものは 大手織機会社に勧められ、力織機から革新織機(レピア・エアー
ジェット織機)に入れ替えた。投資金額は数千万円掛ったと思われる。
しかし、ドルショック、オイルショック後にベトナム戦争が昭和50年に勃発。
西脇の繊維業界で革新織機を導入した織物会社は 再び 息を吹き返す。
私も 当時 東播染工㈱の営業をしていたので この昔ながらの力織機にから
脱出せずに この波に乗れなかった織屋さんは衰退の一途を辿っていった。

 西脇での織物月産数量は後染めも含め、3000万ヤードを下回ることは
なかった。 インサイダーと呼ばれる産元商社は内外・斎藤・桑村・丸萬、高龍など
50社は有っただろう。またアウトサイダーと呼ばれる小さい産元商社を含めると
100社はくだらなかったと思う。
今では生き残った存在する産元商社は20社もないだろう。月間生産数量も
繊維業界の知り合いに聞いてみたが、200万ヤード有るか無いかと言う。

 氷河期でマンモスのような大きな動物が 変動について行けず、滅んでいった
ように西脇の大手織物会社など、野中町で言えば 三弘、宮六、大弘、富田町では
後藤職布などは衰退していった。
一方、革新織機を導入した織物会社は 大口ロットを受注し、栄えていった。

 だが、それも長く続かなかった。大手織機メーカーなどは国内での販売が頭打ち
すると判断したのか? 豊田織機や津田駒など大手メーカーは 内乱が一服した
韓国や、台湾へ この革新織機(エァジェットやレピア織機)を輸出するのだった。

 後進国は国がバックで乗り出す。当時 視察名目で 韓国、台湾と行ったが
加工場たるや 東播染工の何倍もの大きさで、かつて西脇で加工していたであろう
ギンガムやポプリンなど数万単位のロットが これら加工場でごうごうと音を立て
加工されていた。

昭和58年頃だっただろう。 当時 中国からの視察団が 織物工場や染工場
加工場と視察に来ていた。
西脇の染色・加工場では”熱烈歓迎”と玄関にのぼりを挙げて歓待していた。
 そして腹の中では ”西脇の機織り技術についてこれるだけの技術がない。
西脇の水は軟水で 大陸の水は硬水、染色加工ともについてこれない。”と
嘲笑っていたのだ。
 そんな甘いものではなかった。大手織機メーカーが 技術者を派遣し、技術も
染色・加工技術も すべて後進国へ持って行ったのだ。
正に 甘いとしか言いようがない。西脇は衰退の一途を辿ることになる。
また革新織機を入れていた織屋も、投資額をペイできず、倒産の道を辿ることに
なる。

 さて話は変わり、西脇市郷瀬町には”一本桜”とか言い、早咲きの桜が有る。
これが植えられたきっかけは? さかのぼること57年前、あの場所で同級生の
大西巧君が職場へ向かう途中 交通事故のため亡くなった。家の近くである。
ご両親が嘆き悲しみ、地蔵さんを建立、そして菩提を弔うため植樹されたのだ。
 この桜はソメイヨシノではなく、この地方では一番早く咲く桜である。
巧君は小学校の頃から一緒で よく知っているが、背は高く、寡黙な子供で
有った。 お父さんは大工さんをしていて、その頃、景気が好かったのか?
日野小学校へは 遊具など多く贈呈されていた。






 

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