喜寿をむかえた男の遊々生活!

喜寿を迎えた老人の日々を日記に・・・

未知の分野へトラバーユ、追憶その3。

2018-07-07 11:22:36 | 日記
 さて今週は毎日のように雨、雨、雨、テレビでは何十年に一度の豪雨と言う。
この土曜日は 本来なら 会員権を持っている妙見富士CCの開場記念に行くはずで
あったのだが、洪水警報が出ているのに行けるはずはないだろう。
 案の定、朝早く 同伴する予定だった連れから”今日はクローズするはずだから
止めよう”との電話。
 それにしても ゴルフ場から”取りやめる”との一報がなければならないのに
木曜日に フロントに尋ねた時には”分かりませんが 今では行う予定です”。とか
言ったようだ。
 年々 開場記念杯と言っても お粗末なものになってきたが、それでも料理人や
料理の材料を仕入れて用意していただろうと思うと 気の毒にとも思う。

 さて東播染工㈱での勤めは 内勤になってからストレスが溜まる一方だった。
女性の扱いは難しい。 例えば 巻き取り機械など故障するときがある。保全を呼べば
よいのだが、すぐに来ない場合がある。 そんな時 ”自分で治せるなら・・・”と
その女性が使用している機械を治しに行くのだが、 ”増田さんは 自分の好みの
人は大事にしている”。と陰で囁かれているのを それとなしに耳に入る。
 自分では分け隔てなく接していると思うのだが・・・
また、夏季の盆休みや、冬季の正月休みに入るときは、掃除を行うのだが、終わると
部署の者だけ 隣の中華料理店”たまゆら”などに 自分の自腹で 連れて行くのだが、
 これまた”弁当を持ってきている”と言って 参加しない へそ曲がりが2~3人居て
気分が悪くなることがあった。

 平成2年、会社を辞めることを決意した。家の借金は残っているし、長男が高校生
次男が中学校、長女は小学生で 今から子供にも金が掛かる。だが妻に言うと 
大きな反対はせず”私も 勤める”と言い、兵庫銀行にパート社員として勤めてくれた。
総務部長は”アホやな~ 今辞めると一番損する。今から正味 退職金が増えてくる
のに 今辞めると少ない”。と言われたが決心は固かった。

後日談であるが、竹内謙三氏は 早稲田大卒と言うだけで 頭はよかった。
私が辞めた1年後、その頃 弱体化していた組合を尻目に、従業員を一旦解雇し
再雇用しだしたのだ。当然 途中で退職金を支払えば安く上がる。
そして再雇用は すべてに条件が悪くなっていた。 当時 大手の加工場と言えば
播州織加工組合、東洋染色、第一染工であるが、現在残っているのは組合である
播州織加工組合と東播染工だけである。 東洋染色は東洋紡の100%資本であったが
閉鎖、第一染工も倒産した。

 富田産業の内藤君からは 早くから”辞めて うちに来てほしい”と言われていた。
だが、彼は 付き合うほどに 周囲から疎まれ憎まれしている男と分かってきた。
とあるスナックへ行った時だ。ある程度酔っていたのか?カウンターの中のママさんに
向かって ”お前とこの息子、万引き癖は治ったか”などと言うのである。
 これにはママさんは怒るし、私も閉口した。
 またあるスナックへ行くと、材木卸業の男だったが、二人で飲んでいるところを
この男性が割込み ”内藤、お前 えぐい事さらして云々”と絡んでくるのだった。


 また ある時 ”まっさん。ちょっと作業場見に行くのに付き合わないか?”と
言って 彼の車に誘われ乗り込む、行先は 自分が仕事を依頼している大工さんの
仕事場だった。勝手になかに入り、柱の本数を数えたりするのだ。
”何をしてるのか?”と尋ねると”材木のチョロマカシがないか 確認している”。
と言うのだ。
そんなに他人が信用できないのか?と疑問に思った。
 ”まっさん。象の尻尾より、ネズミの頭や”言うに 小さくてもよい、頭になら
なければとの例えを言う。 そして”うちへ来てくれて家を売ってくれたら50万円
手数料を払う”。と最初のうちは言っていた。
それが何度か会って 同じような話ばかりだが、だんだん手数料が当初50万から
40万、30万と下がっていくのだ。
 このころから 彼は信用できな男だと感じ始めた。案の定、PTA仲間からも
疎まれ始めていた。
 まぁ 約束で会社を辞めれば富田産業へ行くと口約束をしていたので 失業保険の
手続きをしながら、事務所へ行った。
そして”内藤君、宅建主任者の資格もないし、知識もないし、悪いが辞めさせて
貰う”と言うと、答えは”勝手にし”との返事。

 まぁ会社を辞めても当時46歳、どこでも使ってもらえると思っていたが、考えは
甘かった。声をかけてくれるのは東播染工時代の下請け会社ばかりだった。
40歳も過ぎると よい就職口はなかった。 
やはり独立開業をして独り立ちをするには宅建業しかないかと思い始めた。

 ある日、求人広告が新聞折込に入っていた。滝野の工業団地にある凸版印刷工場の
求人募集で、期間社員を募っており、特定の期間務めることで毎月45万円支払うと
載っている。 このころ、私は坂本真一郎氏がギフトショップ店を経営していたので
社支店の店長として働いていたが、店長とは名ばかりで、支店に不幸が起きた家の
住所電話番号をファックスで送付してくる。 その住所を頼りに 不幸のあった
家へ行き、香料のお返しなどの注文を取りに行く、まるでハイエナ商法だった。
給与も25万円と安く そのうえ、真一郎氏はこの頃、PTA時代の暴飲暴食が原因か?
肝硬変を患っていたと聞き、病院で腹を切って肝臓を調べたが、医師が手遅れだと
言われたという事を 斎藤商店の斎藤君に聞いていたので、亡くなってから辞めれば
不義理と言われても・・・と 思い、真一郎氏に 何事も知らないふりして辞めさせて
貰った。

 早速 履歴書を書き、当時 凸版の総務部は福崎にあったので福崎工場へ行った。
一発で”来てほしい”との返事。 そして”期間社員でなく、長期務めてもらえますか?”と
言われた。
 早速 滝野工場へ行った。そこには大きな加工場にあったシルケット機や樹脂機と
変わらない、いやそれよりも大きなドラムのついた印刷機械が作動していた。

 私はここでも付いていた。 凸版には大阪紙業と言う、いわゆる派遣会社が入っていた
のだ。この大阪紙業を通じて入っている社員は 当然 派遣会社に給料を搾取されるので
手取りは20万円程度だったらしい。
私はと言うと、凸版の制服も支給され、給与はチラシに書いてあった45万円ではなか
ったが、てどり40万円以上は有り、一息ついた。

 さて凸版と言う会社に生涯使ってもらおうと思い、その旨 伝えると、”正社員で
来てもらっても良い”との返事があった。
しかし、喜びの束の間、正社員になると一時金の対象にもなり、厚生年金、社会保険等
入ってもらえるが、給与はダウンし、20万円になるという返事だった。
即座に 正社員は断った。

 当時凸版の仕事は朝8時から夜8時、これが二日続き三日目は昼間仮眠して夜8時
から明け方8時と二日続き、そして翌朝から二日休めるというものだった。
若い者は良いかもしれない。しかし当時45歳だったかの私には きつかった。
また親子ほどに歳が離れている若者と仕事するのは面白くなかった。
やはり独立開業と思い、机にしまっていた”宅地建物の取引の知識”を持ち出し、
大きなロットで順調に機械が回っているときに勉強するのだった。
 妻も関心するくらい、家では食事中にも本を広げて勉強した。

平成3年10月 西明石高校で行われる宅建主任者試験会場へ行った。このころ、宅建
主任者試験は人気試験で どの会場も人が溢れんばかり会場に詰め掛けていた。
正直、前年にも明石高校へ行ったのだが、平成2年の試験は出題者も後から設問を
読むと解らないほど難問で、私は時間内に問題が解けず 早々に匙を投げた。
この年は 普通50問中36問以上で合格ラインと言われていたが、20問程度で
合格したらい。諦めずに 最後まで・・・と思ったが後の祭りだった。

 西明石での試験は 冷静に解くことができた。 ”こんどこそ間違いなく受かった”。
と自信があった。
翌年2月だったか?合格通知が来た。 しかし、不動産業開業には実務経験が3年以上
もしくは建設大臣(現国交大臣)が指定する 通信教育を半年受けなければ開業できな
かった。
 すぐさま通信教育を受けた。凸版へ通いながら、そして半年が過ぎ、最後は神戸国際
会館で行われる講義を3日間受け、最後に簡単な試験が出され、そして晴れて宅建主任者
証を手に入れることができた。

だが、残る道のりも厳しかった。 宅建西脇支部と県民局へ何度足を運んだか、私が
住んでいるところは調整区域だ。 普通 調整区域では店舗等営んではならない。
市街化区域で店舗を持てと言うのだ。
色んな難関を突破して 晴れて不動産業を開業したのは忘れもしない平成4年12月
4日だった。
 開業した事務所へは 支部の調査員が来る。通信機器(電話・ファクシミリ)は
設置しているか、報酬表は掲示しているか、一般応対する部屋と取引を行う部屋と
別々にしているか等々、
 このころ、支部の調査員は和布の大杉氏だったが、冷やかされた。
いわく”あんた今から開業してのかいな、皆 辞めようとしているときに、元気者やなぁ”
なぜなら 平成4年と言えば バブルが崩壊した年だったのだ。

 だから保険をかける意味で 違法ではあるが この年も凸版に通っていた。
当時、携帯電話と言ったものは一般に持てず、家に電話が入れば 相手の電話の表示が
分かるポケベルを身に着けていた。

 西脇には当然の事、色々な知り合いが居て、私が開業したことを知って ”ワシが
持っている緑風台の土地を売ってほしい”とか ”土地を探している”とか相談して
来る人が居た。
また その頃 購入していたリソグラフとか言う 印刷機でチラシを刷り、高校生に
なったばかりの次男坊と小6だった娘を連れて 社・滝野・西脇市内のアパート
マンションなどへ入れて回った。
 その甲斐があったのか? 凸版に努めていても ひっきりなしにポケベルが鳴り、
敷地内にあった公衆電話から相手へ電話するのであった。

 東京三菱銀行に勤めている男性が居た。私の従兄の妻の弟で、自分は山南町、妻は
宝塚、間をとって三田市で家を探してほしいとの依頼を受けた。
当時、彼は 大船の社宅に住んでいて、通うのに2時間、夜は10時までは仕事をし
寝に帰るだけの生活なので関西に部署替えを頼むのだが、彼はやり手で なかなか
戻してくれない。そこで既成事実を作って・・・との事だった。
早速 休みには三田市へ行ったが、ここはバブルが崩壊したというのに その名残が
残っていて、空き地が有れば すべて建築条件付きだった。

 最後は 狭間が丘で物件を見つけ、気に入ってくれたが、その物件の持ち主は
建築士で 買い替える物件はウッディタウンと言うところで、1億を超える豪邸を
建てると言うことだった。
彼は、その後、三田市に家を持ったことで大阪の三菱銀行難波支店・支店長として
戻ることができ、数年務めたのち 今は楽隠居をしている。


 何はともあれ、仕事は忙しくなり、凸版には大分引き留められ、迷惑もかけたが
宅建業法では別の職業に就いてはいけないとの縛りがあり、違法になるとのことを
上司に告げ、平成5年 5月に退社させてもらった。

 ここでの勤めも 無駄ではなかった。一緒に働いていた 大阪から来て家を
滝野に建てていた男性から、「増田さん。今持っている家を売ってほしい」。と
言う依頼だった。 なぜ?と聞くと、「田舎の付き合いはかなわん。葬式ができ
たりすると二日でなければいけないし、溝普請や道普請と言えば 日曜日には
休まなければならない。それで三奈木台で土地を見つけたのだが、この家を処分
しなければ契約できない」。というのだ。 これも処分させてもらった。
 また この会社の部長級の人から「家を探してほしい」と依頼を受けた。
当時の私は 何事も背水の陣で臨んでいたので 必死の思いが伝わったのか?
 同業者はバブル崩壊で 困っている中、私の商売は順調に運んで行った。