静かな読経が流れて来るのを聞きながら、兵衛佐は、紅梅から梨花の身に起こった出来事を聞かされた。てっきり、紅梅の家にもう移動しているだろうとそちらへ行ってみて、もぬけの殻だったので、まだ、三条の中納言の別邸にいるのかとようすを見に来た彼を待っていた紅梅が、なるべく感情的にならずに、見聞きしたことを淡々と話す。
聞き終わって、兵衛佐は、重苦しい心を、落ち着かせるために、辺りに漂っている静謐な香に意識を向ける。寝殿の西向きの廊下に座っているのだけれども、北向きの部屋から流れて来る読経の声が、波立たせずにはいられない感情を落ち着かせていく。
「・・まさか、そんなことがあったとは・・。」
紅梅が気にしていた、女五の宮のいなくなった乳母の容疑が晴れてしまった。かといって、犯人が誰とも知れないので、どうどうと人に否定することもできないけれど・・。
あとから駆けつけた、梨花の養母に確認をしたけれど、事件のことはわからず、知っているはずの親類の女に、確認をとるには、彼女が今、地方へ行っているので、時間がかかるということだった。預かった時、親戚の女が彼女がある事件の生き残りで、なるべく、過去がわからないように育ててくれるならと言われていた。何でそんなややこしい子を?と訊かれれば、顔を合わせたその子がとてもかわいくて、守ってやりたいとその時思ってしまったからだと、その養母は、語った。
梨花の様子から、両親が尋常な状態で亡くなったのではないことは感じていた。梨花の持っていた扇は、親の形見と聞いていたから、京では、盗賊に押し入られて、一家全員亡くなって・・という話は聞くことなので、そんなところだろうと思っていた。盗賊の顔を見ているから、前の家のことは、わからないようにしないといけないのかもしれない・・と勝手に思い込んでいたのだった。
もっと詳しく訊いていれば、父親のもとへこっそり引き合わせる手立てを考えたのに。苦労させることはなかったのに・・と言った養母の言葉を思い出し、紅梅は、少しばかり苦い思いを噛みしめながら、しみじみといった表情でいる。
「私、明日、女五の宮さまのもとへ参ります。女五の宮さまは、乳母どののことをずっと信じるとおっしゃってこられましたけれど・・・同時にお心も痛めておられましたもの。こっそりお耳にいれて、少しでも気が晴れるようにいたしたいと思いますの。」
「そうですか・・梨花どのの身は、ひとまず危険はなくなったから・・。それにしても、三条の中納言が父君だったとは・・。」
言いながら、ずっと隣で、無言で書きつけられた名を見ている満春に、目を移す。満春が顔を上げる。
「・・名を記したものならともかく、役職名だけで省略してあるのは、さすがに、見当つかない。当時のままではないはずだろう・・。それに、・・何かひっかかる。紅梅どののように、二人にとって思いでの場所というなら、貴船明神云々・・の言葉の説明はつくだろうが、さすがに、女御がそこへ赴くことはないだろうし・・・。互いに誓い合ったとか、そんなのではないだろう?」
勝手に思いを募らせて、拒否されたから、狂行に及んだのではないかと、満春が言う。
「裏切られた感・・・?でも、押し入って、思いを遂げてはいるんだよなあ・・・。女御の口から事が露見することを恐れて?自分の立場が悪くなるようなこと言いはしないよなあ・・。」
「そうなんだ。だから、もしかして、文か何か・・やっぱり以前に一度きりでも、接触があったのではないかと・・・。」
満春と兵衛佐が、同時に、紅梅に注目する。紅梅は、うろたえながら、首を横に振る。
「人から見れば、ささいな出来事かもしれない。」
「・・・ささいな・・?思い出してみますわ。昔の女房仲間にも、確かめてはみますが、すぐには、無理ですわ。」
ふいに、人の気配が近づいてきたので、三人が、そちらへ視線を向けると、三条の中納言と梨花だ。いつのまにか、読経はおわっていて、法師は帰って行ったようだ。
三条の中納言は、梨花をまず、危険から遠ざけようとしてくれたことに対し、三人に礼をのべた。兵衛佐が。
「いえ、昨日は、事情がわからなかったとはいえ、三条の中納言どのを一時は疑ってしまったわけですから・・避けるようなことをして、事実から遠ざかってしまったことは、申し訳なかったです。梨花どのも、父君のもとなら、人目につかず、これから安心して過ごせるでしょう。」
「・・そのことなのだが・・・。」
三条の中納言が、心底不服そうに告げた。梨花が、どうしても、女房勤めを辞めず、今までの生活を続けると言い張ったので、ひとまず、女五の宮が、宮中から退出したら、戻っても良いというところで折り合いがついた。
「ここへ、戻ると言っても、普段は私もここにいるわけではないから、不用心だ。女五の宮さまのもとなら、出入りするものも限られている。気をつけていれば、顔を見られることも少ないだろうから、承知することにした。」
屋敷を見回して、顔を曇らせたあと。
「ここに戻してやりたかったが・・さすがに、ここに戻ってきたとあっては、梨花のことに気付かれるかもしれない。別の場所を用意して、ひとつふたつ年をごまかして、娘を引き取ったことにしておくことにしよう。その気になれば、梨花は、そこへ、帰って来るといい。」
兵衛佐としては、出入りしにくい、父親のもとに居られるよりも、その方が、好都合だ。自分がそばについていれば、安全は確保できると思っているので、反対はしなかった。
紅梅が、心配そうに、胸に手を充てている。
「わかりましたわ・・・。私も、梨花さんには、気をくばってみます。女五の宮さまは、そばに戻っていただけるなら、喜ばれるでしょうが・・。」
とりあえず、少し事情を知っている雪柳や、摂津、小馬などにも、話しておくことの許可をもらう。犯人を見つけるといっても、今更、公にして罰することも出来ないだろうから、ともかく、梨花をどの視線から守ればいいのかだけは、知りたいところだったが。兵衛佐が、紅梅に昔の仲間たちに通っていた男のことを訊き出して欲しいと頼んだが、「訊いてみます。」とは頷いたものの、女五の宮のもとへ戻った彼女は、忙しさに取り紛れて、なかなか思うような事実が出て来ることがなかった。
聞き終わって、兵衛佐は、重苦しい心を、落ち着かせるために、辺りに漂っている静謐な香に意識を向ける。寝殿の西向きの廊下に座っているのだけれども、北向きの部屋から流れて来る読経の声が、波立たせずにはいられない感情を落ち着かせていく。
「・・まさか、そんなことがあったとは・・。」
紅梅が気にしていた、女五の宮のいなくなった乳母の容疑が晴れてしまった。かといって、犯人が誰とも知れないので、どうどうと人に否定することもできないけれど・・。
あとから駆けつけた、梨花の養母に確認をしたけれど、事件のことはわからず、知っているはずの親類の女に、確認をとるには、彼女が今、地方へ行っているので、時間がかかるということだった。預かった時、親戚の女が彼女がある事件の生き残りで、なるべく、過去がわからないように育ててくれるならと言われていた。何でそんなややこしい子を?と訊かれれば、顔を合わせたその子がとてもかわいくて、守ってやりたいとその時思ってしまったからだと、その養母は、語った。
梨花の様子から、両親が尋常な状態で亡くなったのではないことは感じていた。梨花の持っていた扇は、親の形見と聞いていたから、京では、盗賊に押し入られて、一家全員亡くなって・・という話は聞くことなので、そんなところだろうと思っていた。盗賊の顔を見ているから、前の家のことは、わからないようにしないといけないのかもしれない・・と勝手に思い込んでいたのだった。
もっと詳しく訊いていれば、父親のもとへこっそり引き合わせる手立てを考えたのに。苦労させることはなかったのに・・と言った養母の言葉を思い出し、紅梅は、少しばかり苦い思いを噛みしめながら、しみじみといった表情でいる。
「私、明日、女五の宮さまのもとへ参ります。女五の宮さまは、乳母どののことをずっと信じるとおっしゃってこられましたけれど・・・同時にお心も痛めておられましたもの。こっそりお耳にいれて、少しでも気が晴れるようにいたしたいと思いますの。」
「そうですか・・梨花どのの身は、ひとまず危険はなくなったから・・。それにしても、三条の中納言が父君だったとは・・。」
言いながら、ずっと隣で、無言で書きつけられた名を見ている満春に、目を移す。満春が顔を上げる。
「・・名を記したものならともかく、役職名だけで省略してあるのは、さすがに、見当つかない。当時のままではないはずだろう・・。それに、・・何かひっかかる。紅梅どののように、二人にとって思いでの場所というなら、貴船明神云々・・の言葉の説明はつくだろうが、さすがに、女御がそこへ赴くことはないだろうし・・・。互いに誓い合ったとか、そんなのではないだろう?」
勝手に思いを募らせて、拒否されたから、狂行に及んだのではないかと、満春が言う。
「裏切られた感・・・?でも、押し入って、思いを遂げてはいるんだよなあ・・・。女御の口から事が露見することを恐れて?自分の立場が悪くなるようなこと言いはしないよなあ・・。」
「そうなんだ。だから、もしかして、文か何か・・やっぱり以前に一度きりでも、接触があったのではないかと・・・。」
満春と兵衛佐が、同時に、紅梅に注目する。紅梅は、うろたえながら、首を横に振る。
「人から見れば、ささいな出来事かもしれない。」
「・・・ささいな・・?思い出してみますわ。昔の女房仲間にも、確かめてはみますが、すぐには、無理ですわ。」
ふいに、人の気配が近づいてきたので、三人が、そちらへ視線を向けると、三条の中納言と梨花だ。いつのまにか、読経はおわっていて、法師は帰って行ったようだ。
三条の中納言は、梨花をまず、危険から遠ざけようとしてくれたことに対し、三人に礼をのべた。兵衛佐が。
「いえ、昨日は、事情がわからなかったとはいえ、三条の中納言どのを一時は疑ってしまったわけですから・・避けるようなことをして、事実から遠ざかってしまったことは、申し訳なかったです。梨花どのも、父君のもとなら、人目につかず、これから安心して過ごせるでしょう。」
「・・そのことなのだが・・・。」
三条の中納言が、心底不服そうに告げた。梨花が、どうしても、女房勤めを辞めず、今までの生活を続けると言い張ったので、ひとまず、女五の宮が、宮中から退出したら、戻っても良いというところで折り合いがついた。
「ここへ、戻ると言っても、普段は私もここにいるわけではないから、不用心だ。女五の宮さまのもとなら、出入りするものも限られている。気をつけていれば、顔を見られることも少ないだろうから、承知することにした。」
屋敷を見回して、顔を曇らせたあと。
「ここに戻してやりたかったが・・さすがに、ここに戻ってきたとあっては、梨花のことに気付かれるかもしれない。別の場所を用意して、ひとつふたつ年をごまかして、娘を引き取ったことにしておくことにしよう。その気になれば、梨花は、そこへ、帰って来るといい。」
兵衛佐としては、出入りしにくい、父親のもとに居られるよりも、その方が、好都合だ。自分がそばについていれば、安全は確保できると思っているので、反対はしなかった。
紅梅が、心配そうに、胸に手を充てている。
「わかりましたわ・・・。私も、梨花さんには、気をくばってみます。女五の宮さまは、そばに戻っていただけるなら、喜ばれるでしょうが・・。」
とりあえず、少し事情を知っている雪柳や、摂津、小馬などにも、話しておくことの許可をもらう。犯人を見つけるといっても、今更、公にして罰することも出来ないだろうから、ともかく、梨花をどの視線から守ればいいのかだけは、知りたいところだったが。兵衛佐が、紅梅に昔の仲間たちに通っていた男のことを訊き出して欲しいと頼んだが、「訊いてみます。」とは頷いたものの、女五の宮のもとへ戻った彼女は、忙しさに取り紛れて、なかなか思うような事実が出て来ることがなかった。