時の泉庭園

小説は、基本、ハッピーエンド。
話は、最後まで出来上がってからUPなので、全部完結済み。

(^◇^)・・・みん兎

花ぬすびと 17

2010-06-18 09:37:11 | 花ぬすびと
 静かな読経が流れて来るのを聞きながら、兵衛佐は、紅梅から梨花の身に起こった出来事を聞かされた。てっきり、紅梅の家にもう移動しているだろうとそちらへ行ってみて、もぬけの殻だったので、まだ、三条の中納言の別邸にいるのかとようすを見に来た彼を待っていた紅梅が、なるべく感情的にならずに、見聞きしたことを淡々と話す。
聞き終わって、兵衛佐は、重苦しい心を、落ち着かせるために、辺りに漂っている静謐な香に意識を向ける。寝殿の西向きの廊下に座っているのだけれども、北向きの部屋から流れて来る読経の声が、波立たせずにはいられない感情を落ち着かせていく。
「・・まさか、そんなことがあったとは・・。」
 紅梅が気にしていた、女五の宮のいなくなった乳母の容疑が晴れてしまった。かといって、犯人が誰とも知れないので、どうどうと人に否定することもできないけれど・・。
 あとから駆けつけた、梨花の養母に確認をしたけれど、事件のことはわからず、知っているはずの親類の女に、確認をとるには、彼女が今、地方へ行っているので、時間がかかるということだった。預かった時、親戚の女が彼女がある事件の生き残りで、なるべく、過去がわからないように育ててくれるならと言われていた。何でそんなややこしい子を?と訊かれれば、顔を合わせたその子がとてもかわいくて、守ってやりたいとその時思ってしまったからだと、その養母は、語った。
梨花の様子から、両親が尋常な状態で亡くなったのではないことは感じていた。梨花の持っていた扇は、親の形見と聞いていたから、京では、盗賊に押し入られて、一家全員亡くなって・・という話は聞くことなので、そんなところだろうと思っていた。盗賊の顔を見ているから、前の家のことは、わからないようにしないといけないのかもしれない・・と勝手に思い込んでいたのだった。
もっと詳しく訊いていれば、父親のもとへこっそり引き合わせる手立てを考えたのに。苦労させることはなかったのに・・と言った養母の言葉を思い出し、紅梅は、少しばかり苦い思いを噛みしめながら、しみじみといった表情でいる。
「私、明日、女五の宮さまのもとへ参ります。女五の宮さまは、乳母どののことをずっと信じるとおっしゃってこられましたけれど・・・同時にお心も痛めておられましたもの。こっそりお耳にいれて、少しでも気が晴れるようにいたしたいと思いますの。」
「そうですか・・梨花どのの身は、ひとまず危険はなくなったから・・。それにしても、三条の中納言が父君だったとは・・。」
 言いながら、ずっと隣で、無言で書きつけられた名を見ている満春に、目を移す。満春が顔を上げる。
「・・名を記したものならともかく、役職名だけで省略してあるのは、さすがに、見当つかない。当時のままではないはずだろう・・。それに、・・何かひっかかる。紅梅どののように、二人にとって思いでの場所というなら、貴船明神云々・・の言葉の説明はつくだろうが、さすがに、女御がそこへ赴くことはないだろうし・・・。互いに誓い合ったとか、そんなのではないだろう?」
 勝手に思いを募らせて、拒否されたから、狂行に及んだのではないかと、満春が言う。
「裏切られた感・・・?でも、押し入って、思いを遂げてはいるんだよなあ・・・。女御の口から事が露見することを恐れて?自分の立場が悪くなるようなこと言いはしないよなあ・・。」
「そうなんだ。だから、もしかして、文か何か・・やっぱり以前に一度きりでも、接触があったのではないかと・・・。」
 満春と兵衛佐が、同時に、紅梅に注目する。紅梅は、うろたえながら、首を横に振る。
「人から見れば、ささいな出来事かもしれない。」
「・・・ささいな・・?思い出してみますわ。昔の女房仲間にも、確かめてはみますが、すぐには、無理ですわ。」
 ふいに、人の気配が近づいてきたので、三人が、そちらへ視線を向けると、三条の中納言と梨花だ。いつのまにか、読経はおわっていて、法師は帰って行ったようだ。
 三条の中納言は、梨花をまず、危険から遠ざけようとしてくれたことに対し、三人に礼をのべた。兵衛佐が。
「いえ、昨日は、事情がわからなかったとはいえ、三条の中納言どのを一時は疑ってしまったわけですから・・避けるようなことをして、事実から遠ざかってしまったことは、申し訳なかったです。梨花どのも、父君のもとなら、人目につかず、これから安心して過ごせるでしょう。」
「・・そのことなのだが・・・。」
 三条の中納言が、心底不服そうに告げた。梨花が、どうしても、女房勤めを辞めず、今までの生活を続けると言い張ったので、ひとまず、女五の宮が、宮中から退出したら、戻っても良いというところで折り合いがついた。
「ここへ、戻ると言っても、普段は私もここにいるわけではないから、不用心だ。女五の宮さまのもとなら、出入りするものも限られている。気をつけていれば、顔を見られることも少ないだろうから、承知することにした。」
 屋敷を見回して、顔を曇らせたあと。
「ここに戻してやりたかったが・・さすがに、ここに戻ってきたとあっては、梨花のことに気付かれるかもしれない。別の場所を用意して、ひとつふたつ年をごまかして、娘を引き取ったことにしておくことにしよう。その気になれば、梨花は、そこへ、帰って来るといい。」
 兵衛佐としては、出入りしにくい、父親のもとに居られるよりも、その方が、好都合だ。自分がそばについていれば、安全は確保できると思っているので、反対はしなかった。
 紅梅が、心配そうに、胸に手を充てている。
「わかりましたわ・・・。私も、梨花さんには、気をくばってみます。女五の宮さまは、そばに戻っていただけるなら、喜ばれるでしょうが・・。」
 とりあえず、少し事情を知っている雪柳や、摂津、小馬などにも、話しておくことの許可をもらう。犯人を見つけるといっても、今更、公にして罰することも出来ないだろうから、ともかく、梨花をどの視線から守ればいいのかだけは、知りたいところだったが。兵衛佐が、紅梅に昔の仲間たちに通っていた男のことを訊き出して欲しいと頼んだが、「訊いてみます。」とは頷いたものの、女五の宮のもとへ戻った彼女は、忙しさに取り紛れて、なかなか思うような事実が出て来ることがなかった。

花ぬすびと 16

2010-06-18 09:34:38 | 花ぬすびと
 その頃、兵衛佐は、自宅に戻っていた。梨花のことも気になっていたが、ひとまず紅梅が付いていてくれるので、今頃は、もう、彼女の家に移動しているだろうからと、安心して、先にこちらを優先した。満春が、仕事を終えた頃やって来て、昨日のことを報告にやって来たのだが、往来でやりとりするわけにもいかず、家へ戻って聞くほうが安全だったから。
 数日間留守にしていたが、もう、いい年なので、さすがに、家人たちは気にも留めず、友人を連れてきまぐれに、帰宅してきた若さまの為に、自分付きの女房たちが慌ててあたりを整えているのを横目に、はやく、部屋を出て行ってくれと兵衛佐は思っていた。
早々に人払いして、昨夜の話を聞き、
「それじゃ、あの紅梅どのの写して来た名簿をみれば、もしかすると該当する者があるかもな。それにしても、故右大臣が躊躇するほどの人物って、誰なんだ・・・?」
「うん。私のような、一般庶民には、そもそも対面を気にするってことの感覚が、よくわからないが・・。それについては、兵衛佐どのなら、わかるのではないか?」
「いいや。わからない。私なら、太刀をひっさげて、即、犯人の首根っこ捕まえて、敵をとってやるが・・・と、それくらい憎しみは持つと思うけれど、偉くなると、人は変わるのかもしれないな。あ・・そうだ。」
 兵衛佐は、人を呼び、自邸に居る筈の父のもとへ、これから訪ねると伝えてくれと言う。致仕の大臣とよばれる彼は、すでに政界を引退して、出家して、自邸で念仏よろしく、風流に親しみ、のんびり悠々自適の毎日を送っている。
「あの人も、一応偉い人だったっけ・・。その、白だよな?」
「兵衛佐どの、身内を疑うの?致仕の大臣さまは、思いつめる性格ではなさそうだなあ。」
「じゃ、白だな。考えてみれば、十年前ぐらいだったら、父上の様子が、そんなにおかしけりゃ、私だって、幼心にも憶えているはずだ・・。」
 返事が返って来て、兵衛佐は、父親の部屋へ向かう。
 法衣姿で座って、筆を持ち、季節の和歌でもひねっているのか、広廂から空を見ている。
「元気そうだな。母上が、あとで自分のところにも顔を出すようにと拗ねとったぞ。」
 振り向いた顔は、相変わらずうらうらと春の日差しのように、のんきだ。
「父上、もし仮に、うちの姉上か妹が、婿とりせずに、入内していたとしてだよ。もしも、物語の妃のように、不義密通とかがあったとして、誰も知らないなんてこと、無理だよな?」
「何だと?お前は、子供以下か。質問の意図がよくわからんぞ。もし、もし・・って、そんな具体的に・・・。伏せたい事実があるなら、もっと遠まわしに、話し始めて、事実を探るものだ。」
 はあっと大きくため息をつく。物語って何だ、女子供みたいに。この息子大丈夫だろうか・・・と、内心心配になりつつも、眉を一瞬顰めただけで、気を取り直し。
「あー。家の不器量な娘たちがか・・ないない、まず、無理だから、早々にあきらめたことだ。う~む、不義密通?物語じゃあるまいし・・・そんな深窓の娘に行きつくまでに、どれだけの女房どもの目を騙くらかして近づかなきゃならんと思ってる。まず、無理だな。確かに、おおっぴらに口にするかしないかは、周りに仕えている者の質の問題だろうが・・。あまり、期待はせんことだ。秘密は、どこからか漏れるものだ。」
 やっぱりそうだよなあ。う~んと、呻る兵衛佐。紅梅は、ほんの一瞬、誰もいない時が存在したというけれど、それを知り得る位置に犯人はいたということだ。偶然というよりも、やはりそれ以前から、屋敷内の女房に通っていたとか・・・・?そこんとこは、落とし所だよなあ・・満春の訊いて来た名があるかどうか・・。紅梅どのに、訊いてもらうか?
過去の参籠の記録よりも、確かなのじゃないか・・・?
それと、噂の法師を利用したのは、誰か・・・・・・。
「・・・それじゃ、秘密は自然ともれて・・・勝手な想像が加わって変化したのか。噂は、流したのではなく・・・?」
 兵衛佐の独り言に、父親が首を捻ったが。
「人の口に戸は建てられん。非常時なら、めくらましとして、他のもっともらしい違う事実を造って噂を流すことも、あるかも知れんが・・。」
 その瞬間のぞいた父の目が、見開いたままの目に何ものも感情を伺わせない闇が映ってる気がして、兵衛佐は、ぞっとした。
ただの風流親父じゃなかったんだ・・と、上つ方の怖さを垣間見る思いだ。
割合早くに出世して、内大臣までなったのに、還暦にはまだ遠いというのに、早々に引退を決め込んで、出仕をやめてしまった。『七十にて致仕するは、礼法に明文あり』・・・とは言うけれど、七十まで生きられるか、わからんだろうが~!余生も十分楽しんでからあの世へ行きたい・・・!と、いうのが、父の辞めた言い分だったが。ずっと以前の怪我で、足をわずかに引きずっているのを、年々、隠せなくなって来たからというのが本当の所だろうが、とぼけた親父だと、兵衛佐はずっと思って来た。
「ということは、やっぱり噂を故意に流したのは、故右大臣か・・。」
ちょうど、いなくなった女五の宮さまの乳母を利用したのか・・?もしかして、犯人がとも思ったんだが・・今更出所を探ることは無理か。満春が、怪しい法師から聞いてきたことからも、緘口令を布いたことは確かなのだが、噂は何処から出たのかまでは聞いていない。でも、何かひっかかるんだよなあ・・・と、心の中でつぶやいてると、兵衛佐のほうをじっと見つめている父の目と目があった。
「あのさ。親父は、白だよな・・?」
「?」
「思い出して欲しいんですが・・昔、女五の宮さまの母君が亡くなられた時のこと。呪詛の証拠は、結局、出て来たのでしたか?」
「いいや・・。あの時、呪詛をかけたのは、中宮さまじゃないかとも、言われていて、大分めいわくなさったようだが・・・急な病で亡くなるようなこともあるから、もしかして、本当は、女御の死を利用して、右大臣が、左大臣家に勝負をかけたのではないかと思ったりもしたが・・・右大臣も手持ちの駒はまだ、持ってる段階だったし・・・。」
「・・・・・・。」
「ああ。いや・・噂の出方がどうもへんでなあ・・・。そう勘繰ったりもした。が、あの日頃鼻もちならない故右大臣が、異様な憔悴ぶりで・・そのあと、ぽっくり逝ってしまったから、それは有りえんと思いなおしたが・・・そうか、あの女御がなあ・・・。」
 じっと見つめる目に、兵衛佐が嫌な顔をしているのが映っている。
「かなり誇り高い性格で、妃の座以外に満足するような人柄ではなかったような気がするが・・・そうか・・・ん・・?でも、なぜ、故右大臣は、手のうちを読まれないようなことをしたんだろう・・・噂をながせば、意図があると勘繰る者もいるのに。」
「・・・まさかと思うけど・・・誰かに知らせたくて・・とか・・。」
 ふうと、兵衛佐がため息をついた。それから、実際に起こったことを話す。
「・・・あるとすれば、誰かのう・・・・その話の向きでは、故右大臣が、庇わなければならない人物で、でも、腹の虫は収まらなかった・・というところかもしれぬ。」
「庇わなければならない・・・?」
「・・は、さすがにないか・・・。事を明らかにすると憶測が飛び交って、当方ばかりが傷ついて、相手が、裁けない・・・?だいたい、そんな奴いるのか・・女御との接点がなあ・・・。その、乳姉妹だった紅梅どのに、もう一度、よく思い出してもらえ。外出の機会だとか、顔を見られただとか・・取り次がなかったけれど、文が舞い込んだとか・・。」
「・・そうですね。どうもありがとうございました。」
 兵衛佐は、思い立つと、そそくさと去りかける。
「今から、その紅梅どののところへ行くのか?」
「はい。そのつもりですけれど。」
「・・そうか・・・わしも、色々考えておこう。」
「あ、ところで、兄上の様子は?」
 犯人を突き止めるのに探索を出して協力はしているが、兄は守る者も多くいるので、兵衛佐も、そこのところは安心している。
「そなたのお陰で、他所へ身を隠してすぐに回復したようだぞ。やっぱり、毒だったのかな・・・。」
 一体誰に狙われたのか、見当がつかなかったので、すぐに、自邸で籠って寝ているように装って、本人は、別の場所に移った。自分が訪ねて行くと、ばれる可能性があるかもしれないので、連絡はとってない。向こうから、連絡が来ない限りようすを訊ねることが出来ない。父のもとへは、定期的に連絡してくるようなので、訊いてみた。
「それじゃ、父上にこの言伝をお願いしてもいいだろうか・・。」
 文を渡す。女五の宮からの、見舞いの文だ。本当なら、気が無ければ、返事などするものではないのだが、宰相の中将が尋常ではない状況にあるので、さすがに無下にも出来ず、それで、見舞いの文なのだ。たびたび、宰相中将から、文をもらっていたので・・と、言っていた。それを託けて、兵衛佐は家を出た。

花ぬすびと 15

2010-06-18 09:24:20 | 花ぬすびと
 偶然という幸運が重ならなければ、幼かった自分が、あの日、起こったこと、それまで過ごした家のこと、もどかしいながらも、今こうして、思い出すことなどできなかっただろう。断片的にしか覚えていない幼子の記憶を保てたのも、その後、飢えることもなく、生きて行ける環境にあったからだ。
それまでぬくぬくと育てられた子供が、たった一人、京の河原辺に取り残されて彷徨っていたら、間違いなく、数日のうちに死んでいただろう。庇護されてしか、生きて行く術をもたない子供には、京の底辺でもまれて生き抜くことなど、不可能に近い。
万一、助かったとしても、その日一日、食うや食わずの生活をしていたら、ここにこうして紛れ込むこともなく、思い出すこともなかったかもしれない。
 偶然なのだ。養母のもとに行くことになったのも。あの時、血に染まって倒れた母が、そのまま息絶えてしまわずに、数日の間生きていられたというのも・・・。
 梨花は、母が誰かに仕える女房だったのは覚えてる。その誰かは、わからないが、普段は、梨花の世話をしてくれる女と一緒に、たまさか母が宿下りで戻って来るのを待っているから、外の知識は皆無だった。
 母のことで憶えているといったら、家に居ても、きれいな花に添えられた文などが、色んな人から、しょっちゅう舞いこんで来たことぐらいだろうか・・・。
それが、あの藤の花の香りのしみついた文が舞い込むようになって、しばらくして・・・。ああ、そう、母さまは、その人の気持ちを受け入れる気になっていたのだわ、たぶん。



ここまで、皆に話して、梨花は、ひとつ深呼吸した。
あの日、勤め先から夜中に突然舞い戻った母に、叩き起こされ、ほんの数日の荷物を纏め、梨花の世話をしてくれる侍女と、その息子である、当時十歳ぐらいの童とを連れて、家を出た。童が、荷物を持ってくれ、梨花は世話をしてくれる侍女に抱っこされ、皆、母のあとに急ぎ足でついていく。
母が、歩きながら、侍女に今自分達に迫る危機について、緊迫した状況で、説明している。幼い梨花は、内容を憶えていないが、その時、侍女が張り詰めた顔でいたのは印象に残ってる。
遥か後ろの方で牛車が近づいてくる気配を察し、母がぎょっと後ろを振り返り、観念したような表情になり、侍女に、走って逃げるようにと言った。
「お願い。今、頼れるのは、あなたしかいないの。ここで私が引きとめて、うまく誤魔化して置くから、梨花を連れて逃げて。ほとぼりが冷めたことに、その子の父親のところへ、こっそり連れて行けば、あなたのことも悪いようにはしないだろうから。今、この子が、難を逃れるのに手を貸して。」
 侍女は、頷いた。
一緒にいた童を促し、出来る限り早く駆けて、その場を離れる。その後、自分達を探しに来た形跡がないので、梨花達がいたことは、牛車の位置からまだ、見えなかったのだと思う。
 侍女も、童も機転が利く人たちだった。
ばたばたと長く走って、姿を見られる危険を冒すよりも、近くの草むらに隠れていた方がいいと判断したらしい。そこは、賀茂川に近い河原で、人の背丈よりも高い雑草が生い茂っていたから、茂みに入ってしまえば、見つけにくい。
隠れてじっとしていた。
かなり離れたところだったけれど、そこから、母の姿が見えた。
賀茂川に架かる橋の上に、橋姫のように佇むその姿。牛車から、降りて来た男をずっと待っていたかのように、走り寄る。すがりついて、懇願する姿。
やがて、自分を捕えていた腕から逃れるように、もがき、一度は、逃れ、橋の欄干にのけ反るその背が乗ったかと思ったとき、再び、男が迫る。
男がいきなり手を離すと、そのまま、橋の下へずるりと落ちて行った母の姿。
男は、ちょうど、その時、通りかかる人の気配がしなかったら、落ちたあたりまで確認しにきただろうが、人の気配に気づき、慌てて乗って来た牛車に乗り込み、立ち去った。
 男が完全に立ち去った気配を確かめたあと、侍女は、梨花の口を塞いでいた手をどけ、橋の下あたりに、駆けつける。
その時、侍女が、もし、情のない人だったら?あるいは、腹のすわった人ではなかったら?関わり合いになるのを恐れて、梨花もろとも、その場に打ち捨てて彼女は、逃げていただろう。
 落ちた母は、下草が生い茂った辺りに落ちたおかげで、まだ、息があった。
胸の辺りから肩、それを抑えている袖にかけて、血に染まって、真っ赤になっている。通りかかった人のおかげで、刃物で差したものの、狙いが少しずれていた。
「お方さまを今、お助けしますから。」そう言って、声を上げて泣くことも出来ず、怯えている梨花を一度、ぎゅっと抱きしめて離した。おそらくは、不安そうな顔をしている自分を手当の間、抱っこしていてくれたのは、彼女の息子の童だ。
 抱っこされて、震えている自分の方へ、あの甘い香りがした。藤の文の人だと、思ったのは、憶えている。怖くて、誰にも訴えることはなかったけれど・・。




 藤の・・・?ううん、少し違う。同じだけれど、違う。もっと甘ったるい嫌な香りだ。
 血にうろたえることもなく、侍女が、手際良く、応急処置をしていく。
それから、袿を脱がせて、川に捨てた。それが、ちょうどいい具合に、いかにも流れて行く時に、衣だけ、岩にひっかかったという感じで止まったのを見て、「これで、流れて行ってしまったと思ってくれる。」と、呟いた。「姫さまの為です。お方さま、しばらくの間、目をあけて。」ぺしぺしっと、母の顔を手で軽く叩いて、意識を呼び起こし、「荷物をしっかりもって、姫さまの手をひいて付いて来るのです。」と、童にそう言うと、目を開けた母を背におぶった。
母は、小柄で、侍女は大柄だったけれど、女の力で、ゆうゆうと運ぶなんてことは出来ず。初めはなんとか、おぶっていたが、途中で、疲れて来て、背負っているというよりも、背に寄り掛かる人を、何とかずりずりという感じで、ともかく、そこから少し離れた所まで来た。そこに、小さな庵を見つけ、助けを請うた。
日頃から、暴力をふるう男のもとから、ようよう逃げ出したのだが、途中で見つかり、こうなってしまったと、侍女は説明し、その庵の法師も、良い人で、それならばと、隠してくれたのだ。

「そこで、母は、数日持ちこたえました。」
 梨花は、目に溜めた涙を袖で拭う。三条の中納言が、ごくりとつばを飲み込み、先をせかす。
「それで、そなたはその後、どこで匿われていたのだ。」
「庵に、たった一人駆けつけてくれた人がいました。古い知り合いだと言っていた女の方です。母さまが、呼んだのです。おそらく、その方は、もっと詳しい事情を御存じかもしれませんが、私を安全な場所に移す為に、遠い親類で、ちょうど、子供を欲しがっていた養母に託したのです。養母の勤めていたのは、あまり人の訪れのない屋敷でしたから、遠縁から貰った子といって、母子で仕えていれば取り立てて不信がられることもありませんから・・。」
 怖い人の目から逃げるために、何があったかは誰にも話してはいけないよと、養母に預けられる前に、その女の人と、約束した。
たぶん、彼女の立場ではどうしようもないことだったのだ・・。彼女なりに、ともかく、遺された梨花の身を安全に生かす手立てをとってくれた。
「それでは、その養母に訊けば、もっと詳しいことがわかるのだな?」
「詳しいことは聞かされていないようですけれども・・・事情があるのは察していたみたいです。私の過去がわかるような言動は控えるように、たびたび、窘められましたから。でも、あの時の女の人と、連絡は取れるかもしれません。侍女の行方も知っているかもしれませんし・・。」
 頷いて、人を呼び、梨花の養母をここへ連れて来るように、三条の中納言が指示する。
「よくぞ、無事で・・・。それにしても、そなたは、母者が、誰に仕えておったのか、知らぬのか・・・。」
「?」
 それまで黙って聞いていた紅梅が、はっと気付く。
「まさか・・・女五の宮さまの乳母どの・・?」
 つながったふたつの事実・・・。紅梅の青ざめた顔。梨花の驚いた顔。
梨花が、悪夢と思いこんできたことが・・・・。なぜ、疑問にも思わなかったのか。違和感なく悪夢としてそれは存在し、考えてみれば、どうして親が亡くなったのか、不思議にも思わなかった。意識的に避けたい気持ちも存在したのだろうけれど。
梨花は、その前と後の生活の激変にも、あまり注意を払わなかった、その後の生活は・・・養母との生活が穏やかで、自分にとって安心出来るものだったからだと、気付く。
安住の中で、ずっと忘れていた。それが崩れ始めたのは、三条の中納言と初めてあった日、権大納言の身につけた甘ったるい香りのせいだ・・・。たぶん。梨花は、瞬きする。
「そうだわ・・・私の憶えている家の記憶。ふつうの女房が住めるような家ではないもの。どうして、大きくなって、おかしいと思わなかったのかしら・・。もっと詳しく訊いておけば・・・。」
 三条の中納言が、紅梅から手短に説明された。彼が、頷いているそばで、梨花が体から力が抜けたように崩ず折れる。慌てて、それを支える三条の中納言が、「医者を呼ぶように。」と言ったが、「ちょっと疲れただけ、大丈夫。」と、梨花は首を横に振って懸命に否定する。
遠慮し続ける、彼女に。
「この家は、祖父の代からここに住んでると言ってたのじゃなかったかな・・・確か、父親も早くなくなったけれど、受領だったらしいから、蓄えも残っていたらしいが、さすがに、目減りしていくばかりで、そうしていても仕方ないので、勤めに出たのだと聞いたが。私が通い始めた頃は、庭も荒れて、あちこち傷んでいた。梨花がここを出る前には、使用人も、ほとんどいなかったのじゃないかな。それで、華やかな内裏の女房とは結び付かなかったのかもしれない・・・。」
 ため息をつく、三条の中納言。
「・・それにしても・・そうか・・・。誰の仕業か調べるのなら、手伝うが、今は、勘弁してくれ。気が沈んでならない。今日の所は、いつもの法師を呼んで、ここで、冥福を祈って過ごしたい。」
 梨花には、「疲れたのなら、少し横になっていなさい。」と言い、三条の中納言は、美吉野に、法師に連絡をとるようにいうと、念じ仏の置いてある部屋へ籠ってしまった。
 残されて静かになった室内で、横になるでもなく、ぼんやりとしている梨花の手をとり、紅梅は。
「気持ちが落ち着かないのね?巡り会えた父君といっしょに、母君の冥福をお祈りしてらした方がいいかもしれないわね・・・。」
 梨花が頷くと、そこに残っていた初音が、
「さ、こちらです。」
 そこに忘れられていた唐撫子を拾い、梨花は、付いて行く。
 念じ仏の前に、呆けたように座っている三条の中納言の背に、おずおずと近づき、唐撫子の花を差しだした。薄紅色は、ごく淡い色合いで、かわいらしい感じの花だった。唐唐撫子は、真っ赤な花や、もっと濃いめの薄紅色だってあるのに・・。
「あ、あの・・あのね。文も何もついてなかったけれど、それが誰からのものか、お母さまはわかっていたみたい・・・。この私に、こんな可愛らしい花をくれるのは、あの人ぐらいねって、確かに笑ったわ・・・。あの時、頼るつもりだったのはお父様・・それは、確か・・・」
 言葉が途切れる。泣きそうな顔でこらえている。三条の中納言が、その頭を撫で。
「慰めてくれるのか・・。そなたこそ、辛い思いをしたのに、私は、何もしてやれなかったな。」
 涙をこらえているような歪んだ笑顔で、
「安心しろ。もう、時も経っている。今更、追ってくることもないだろうが、この父が守ってやる。今日は、いっしょに、母者のために祈ろうな・・・。」
 静かに流れた涙。それから、しばらくの間、言葉もなく、念じ仏の前に座って、時を過ごした。