St. John of the Crossの生き方に憧れて

受洗後、最初に買ったカトリックの本が「愛への道」。相応しい生き方をしてない。彼に倣う生き方が出来るよう心がけたいです。

日記

2013-01-14 02:37:45 | Weblog
グールドの映画を見る。
「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」
オン・デマンド。ショータイムで見ることが出来ます。
興味を持ったので、本を読みました。
「グレン・グールド 孤独のアリア」
(ちくま学芸文庫;千葉文夫氏訳)。
著者M.シュネーデルはエリート官僚、
一方で精神分析の論文を発表しているとか。
読むのに難渋しており半分。
でも、
非常に得るところの多い評伝、
久々に胸の透く思いがします。




「ときには手だけが生きているように見える。
手は飽くことを知らない生命にとりつかれ、
その背後に接続しているものとはまったく無関係
な部分のように、身体から離れてしまっている
としか見えない。・・・
手はピアニストではなくピアノのものとなる。
背をかがめ、鍵盤の上で折れ曲がった彼の姿を
見るがよい。
まるで彼と音楽のあいだには、もはやピアノは
存在せず、ピアノのなかにみずから解体して、
区別がつかなくなるように願っているとでもいう
かのようだった。
「ピアノに向かうグレン・グールド」ではなく、
「グレン・グールド・ピアノソロ」というべき
なのだ。」
(p.101、「第8変奏」より引用)
原題
“Glenn Gould Paino Solo”
はここに由来するとか。

グールドの逸話について語るべきなのだろが・・・。





「孤独」という言葉に関し。
「寂寞」「静寂」はそれと違う、或いは、
文脈では対極なのかもしれないけれど、
「作歌実語抄」(斎藤茂吉氏;要書房)、
「四十六 寂寞」(p.236)を偶々読んでいて、そこから。
「准南子に「寂寞者音之主也」とあるのは、静寂にして
音の絶えたるさまをあらはして居り、新古今集日蔵上人の
「寂寞(じゃくまく)のこけの岩戸のしづけさに涙の雨の
降らぬ日ぞなき」といふのも静寂の極地をいひあらわした
ものである。」
更に、赤彦の「寂寥境」についても書かれている。




再び、「孤独のアリア」に戻る。p.77。
「グールドの考える録音とは、普及や保存の手段ではなく、
コンサートというかたちの「会話」とは異なる性質のもの
をつくりだす行為であり、別の音楽的手段が必要となり、
別の聴き手に語りかけるものである。
グールドのレコードは書かれている。」

詩や短歌の真の創作とは、既にあるものを演奏するような、
そんな感覚で創り出されるもの。

「わたし今は白い帆のことを考えているの。
その向こうには音楽のような空があって、
楽しい汽笛の音に似ているの。
それから翼を傾けて飛ぶかもめと、
わたしを抱き締める腕のことも。
大好きな人がいたの。
その人、生きたがっていたわ、
ヨットを続けたがっていたわ。」
「アメリカ現代詩101人集」
(D.W.ライト著;沢崎順之助氏他訳;思潮社)
を読んでいます。
約半分まで。
気に入った詩から。
ミュリエル・ルーカイザー「二人のあいだの会話の試み」
からの一節。
p.87。
是非、一読を。




その他。
「愛の詩集」の他、詩の雑誌1つ、短歌雑誌2つ。
「英語文法」「生物Ⅰ」「物理ⅠB」3冊の計5冊
は河合塾さんの受験問題集。
「数学Ⅰ・A実践演習」「数学Ⅲ・C実践演習」の
2冊は駿台さんの受験問題集。
“A Primer of Algebraic
D-modules“
“Swan-Naomi Campbell”
「いのちの福音」(パパ様の回勅)。
概略3分野をほぼ等分に読む。
雑誌の受賞作に圧倒され、自分を見失う。
「角川短歌大賞」「詩と思想読者投稿作品年間ベスト」、
“その上で折れ曲がった自分の姿”を見る日より、
“折れてしまった自分の姿”を見る日が近い気が・・・。
詩・短歌を少し作るも、とんと湧いてこない。
いっそ朗読者に転じようかと思ってしまう。
入れあげる。
“声の輪”また始めようかな。

写真は、マリア・イネス列福記念ミサ。
東京(10/21)・飯田(11/4)、
何れも昨年。
島谷ひとみさん「男歌」聴きながら。
+主の慈しみが皆様に。

2013年1月14日
                   乗倉寿明記す