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St. John of the Crossの生き方に憧れて

受洗後、最初に買ったカトリックの本が「愛への道」。相応しい生き方をしてない。彼に倣う生き方が出来るよう心がけたいです。

麻生総理の報道について-a solution

2009-02-13 13:48:00 | Weblog
 連立方程式の話である。政治ではない。
昨夜、TBSで、自民の解くべき連立方程式を言った。
1 麻生では戦えない。
2 予算を通す。
3 麻生は辞める気はない。
1と3を連立すると、解は1つ。
麻生を無所属に。自民として候補を立てる。
再び断るが、これは、政治の話ではない。

麻生総理の報道について-a solution

2009-02-13 13:44:33 | Weblog
 連立方程式の話である。政治ではない。
昨夜、TBSで、自民の解くべき連立方程式を言った。
1 麻生では戦えない。
2 予算を通す。
3 麻生は辞める気はない。
1と3を連立すると、解は1つ。
麻生を無所属に。自民として候補を立てる。
再び断るが、これは、政治の話ではない。

父の思い出-a yellow fragment

2009-02-13 13:23:00 | Weblog
 今年、赤旗が81周年を迎えるという。親父が、神戸震災の年亡くなり、享年68才だった。ほぼ、同じ頃産声を挙げたことになる。
 父は、自民党員だった。
 若い時、豊川海軍工廠に居て優等生だったそうである。数学の教官に特に可愛がられて、全工員中2番だったそうである。化学が3番、総合でも2番だった。終戦を迎えていなければ、東大に編入が決まっていた。形見に、当時の通知表がある。その秀才振りが偲ばれる。
 ところが、終戦は大変な時代だった。闇の塩屋で、事もあろうに豊橋から飯田まで、海の塩を運んだそうである。工廠では、光学の技師としても5番以内だったそうである。だから、ニコンなどに就職出来ていればエンジニアとして活躍していただろうに。
 故郷は、肥料商であった。塩屋で一家10人近く凌いだ後、生業に戻る。肥料を商っていた当時のことは良く覚えている。ダットサンの3輪車に乗って、でこぼこ道を行商して歩いた。50キロの肥料を山程積んで、母と3人農家を一軒一軒売り歩く。フェリーニの「道」のような/林芙美子の「放浪記」のような生活だった。当時洟垂れ小僧だったわたしに有り難かったのは、着色したビニール色のジュースだった。父は地元に何もない時代だった。ただ、肥料を分けて貰ってそれを売る。ただ、当時の名残として、三菱のマークの入った書類庫がある。化成である。
 貧しい中、家族皆で、書類庫の上でセキセイインコを飼った。3羽飼った。
 高度経済成長の時期、オリンピックの年辺りから生活の変化が起こる。肥料から原料運搬への転換である。肥料のよっこに骨紛をやっていた。骨である。肉を食べるのは、年に何回と云う時期である。それから変革が起こる。先ず、ブロイラー。鳥の腿肉。八幡っ原なる御射山の上に土地を借りて羽を集めた。タカダというここいらの鳥肉を一手に商っている店があった。市長選に出る。父も応援していた。
 最初に飼った雌犬モクは八幡っ原に連れていっては良く遊んだ。灰色のむく毛。大きくなることを予感させる犬だった。
 それから、豚。家の敷地にコンクリート製の20畳程ある冷蔵庫を2台造った。豚の骨を集め、トラックに積んだ。4tトラックだ。小5~高3入試直前まで手伝わされた。近所の小父さんが見学に来て働き振りに目を円くして帰って行った。当時、集荷・荷積みが終るのが、午後5:00。父はそれから、稲沢・多治見・東栄などに飛ぶ。高速の無い時代。真冬の凍った道も走った。一回、道で幽霊に出会ったそうである。吹雪きの中、人が凄い形相で手を振っている。停まって話しを聞くと谷底にトラックごと転落したという。また、走っていて対向車が少ないと思った。気が付いたら路肩後数センチの所でストップして寝ていたという。そんなんで荒れた時期もあったと聞く。そんな中、付き合いも増えていった。次第に実力者となりつつあった。
 2番目の雄犬チビは、駐車場の片隅で、それら荷の番犬のようにして飼った。前脚の片方が明後日の方を向いていたので、「明後日」と呼んだ。動物記のシートンに影響されたのだ。
 事業も軌道に乗り、様々な苦労を経て、南信の商工会の役員になり活躍しだした。だから、故松下県議に交友もあったし、故小川平二衆議院議員、宮下創平元衆議院議員、小川元元衆議院議員とも交友出来た。後、小川元先生にわたくしがお世話になれたのも、そんな親の七光があった所為だと思う。
 それからは大学に進んで地元のこと、特に経済のことはわからないが、中央道が通ったこと、父が鼎最後の町会議員に立候補して敗れたこと。仕事は全盛期を迎えたこと。は覚えている。成人した年が選挙で、最初の投票で父に入れた。何よりの僥倖だと思う。
 それから、父が倒れた。
 故田中角栄氏が倒れた年と記憶している。自身の父親と氏を二重に重ねる人はわたしたちの世代には多い。選挙に勝って町会議員として働いていたら、と思う。集荷・運搬の仕事は、余りにも過酷であった。
 大学を出て、わたくしは諏訪に就職した。
 食肉の鳥・豚は他に移った。地元では割に合わないからである。羽も骨も脂も僅かになった。ただ、牛だけである。高齢と病気で不自由な体を押して父は、廃牛を集荷した。相変わらず党員であった。が、一線はほぼ退いていた。ただ、衆議院選の時、小川先生が、わたしの家に寄ってくれた。手元に南米から頂いたハガキがある。ホワイトハウスの絵葉書だ。宝物として飾ってある。そして、その時期、わたしが代って小川先生の集会に出た。諏訪と飯田。また、県会議員塩澤先生の選対事務所になったこともある。父にしてみれば、自分の選挙以来の選挙事務所。血が騒いだのかもしれない。ある衆議院選挙で、選対事務所を訪ねた。当時の社長さんが居た。挨拶に開口一番、「裏切者」とおっしゃられた。飯田は民主党の地盤だからと言う。そんな冗談さえ気軽に交わしあった。また、有賀前市長が市長選で会社まで来られた。会社を回って握手した。経済と政治は一繋がり。その時、実感する。
 3番目の白の雌犬チイは、廃牛を集荷したクレーンに父に乗せられ伊那まで通った。
 犬が、亡くなったのも、父の年と一致する。正月3日頃だった。大部のM.カクを読み耽っていたら、父が階段を上がって来て愛犬の死を告げた。それから震災は半月後、父の死は約3カ月後、祖母の死も父から約半月後。
 桜が散る雨の悲しい風景である。長源寺の桜は、何故あんなに悲しいのだろう。
 悲劇の女性山口不二の眠る寺と云う。
 父が亡くなってほぼ4年目、飯田に帰った。その年に選挙があった。上郷の宮下創平先生の事務所に選挙のカンパを届けた。秘書の人が、「伊那だから。」伊那迄届けに行った。諏訪に回って小川先生のところにも酒を届けた。2票可能だったら、2人に入れていただろう。その後、小川・宮下両先生の秘書であられる北原先生にお電話申し上げた機会があった。政策秘書としてご活躍とのこと、優秀な秘書あっての政治家、思った。
 犬は初めてペット・ショップで買った犬、ゴールデン・リトリバー。パフィー・ビデオに倣って、トレバーと名付けた。クレバーな犬だったが、とにかく急速に大きくなってしまい、手放した。
 ミレニアムが迫っていた。世紀を跨いで生きて来た。そんな実感はまたっく無かった。そんな歩み方の人生だった。父は偉大過ぎた。不遇にもめげず、努力して我武者羅に働いて。息子のわたしは、まったく正反対の道楽者だった…。

 車を持っていた時代、今の犬、クロを軽の後部荷物室に置いて、母と一家3人ドライブに出掛けた。母の犬を諭す話しを聞いて、クロが一家の孫だ。そんな気がした。その時だけだった気がする、良い時期は。然程難しい時代になってしまった、ささやかな団欒を過ごすことは。偉そうに言えないが、少子化対策は1にも2にも雇用対策・経済対策。そう思う。
 箕輪には、「牛御殿」と呼ばれる農家が幾つもある。昨今、狂牛病で、その牛を飼っている農家が大きな打撃を受けたと聞く。箕輪でも急速に牛を飼うことを止めてしまったとか。父の商売の名残は、もうない。鳥・豚・牛。飯田にはもう、遠山のマトンだけしかないかもしれない。それすら、肉はオーストラリアからの輸入と聞く。
 産業が移っていった。食肉など考えられなかった時代から、鳥・豚・牛と、贅沢になっていった。需要があった。供給するために鳥や豚を飼った。しかし、皮肉なことに購買を支えたのは、飼っている農家の工業・商業への転身だった。地元は今、モーター・時計を中心とする工業都市、名古屋からの観光・物流を中心とする商業都市である。農業ではない。農家の工・商業への転身がなければ、食生活の変化がなかっただろうし、それが逆に、畜産の足元を崩していく。
 それは、他のどの産業にも言えるだろう。IT、自動車。徒然草にある、弁証法。夏の中に秋の兆し。どんな経済活動も、その最盛期のうちに、衰退の芽を包している。
 「ローマ帝国衰亡史」それを紐解きたくなった。

 今、再び崖に立つ。日本経済も同じだろう。でも、背中に覆い被さる筈の、些かのシメール(希望)も感じないのは何故だろう。時代の風潮か?無関心の時代の投影か?はたまた、シメールそのものの不在か?(シメールは、ボードレールの散文詩中より。)
 人生について、経済について、究極の闇は、依然続く。濁った川を、水が流れる。
 小椋佳が頭に鳴る。
 だから、時々、黒い犬を背中に負んぶして、虚ろに歩いている、そんな人を見掛けたら、それはそっとしておいて欲しい。
 生きている裸のシメール、犬は作り物の筈だから。
 負ぶさった子犬クロは背中で今、何を思っているのだろうか?

父の思い出-a yellow fragment

2009-02-13 13:11:32 | Weblog
 今年、赤旗が81周年を迎えるという。親父が、神戸震災の年亡くなり、享年68才だった。ほぼ、同じ頃産声を挙げたことになる。
 父は、自民党員だった。
 若い時、豊川海軍工廠に居て優等生だったそうである。数学の教官に特に可愛がられて、全工員中2番だったそうである。化学が3番、総合でも2番だった。終戦を迎えていなければ、東大に編入が決まっていた。形見に、当時の通知表がある。その秀才振りが偲ばれる。
 ところが、終戦は大変な時代だった。闇の塩屋で、事もあろうに豊橋から飯田まで、海の塩を運んだそうである。工廠では、光学の技師としても5番以内だったそうである。だから、ニコンなどに就職出来ていればエンジニアとして活躍していただろうに。
 故郷は、肥料商であった。塩屋で一家10人近く凌いだ後、生業に戻る。肥料を商っていた当時のことは良く覚えている。ダットサンの3輪車に乗って、でこぼこ道を行商して歩いた。50キロの肥料を山程積んで、母と3人農家を一軒一軒売り歩く。フェリーニの「道」のような/林芙美子の「放浪記」のような生活だった。当時洟垂れ小僧だったわたしに有り難かったのは、着色したビニール色のジュースだった。父は地元に何もない時代だった。ただ、肥料を分けて貰ってそれを売る。ただ、当時の名残として、三菱のマークの入った書類庫がある。化成である。
 貧しい中、家族皆で、書類庫の上でセキセイインコを飼った。3羽飼った。
 高度経済成長の時期、オリンピックの年辺りから生活の変化が起こる。肥料から原料運搬への転換である。肥料のよっこに骨紛をやっていた。骨である。肉を食べるのは、年に何回と云う時期である。それから変革が起こる。先ず、ブロイラー。鳥の腿肉。八幡っ原なる御射山の上に土地を借りて羽を集めた。タカダというここいらの鳥肉を一手に商っている店があった。市長選に出る。父も応援していた。
 最初に飼った雌犬モクは八幡っ原に連れていっては良く遊んだ。灰色のむく毛。大きくなることを予感させる犬だった。
 それから、豚。家の敷地にコンクリート製の20畳程ある冷蔵庫を2台造った。豚の骨を集め、トラックに積んだ。4tトラックだ。小5~高3入試直前まで手伝わされた。近所の小父さんが見学に来て働き振りに目を円くして帰って行った。当時、集荷・荷積みが終るのが、午後5:00。父はそれから、稲沢・多治見・東栄などに飛ぶ。高速の無い時代。真冬の凍った道も走った。一回、道で幽霊に出会ったそうである。吹雪きの中、人が凄い形相で手を振っている。停まって話しを聞くと谷底にトラックごと転落したという。また、走っていて対向車が少ないと思った。気が付いたら路肩後数センチの所でストップして寝ていたという。そんなんで荒れた時期もあったと聞く。そんな中、付き合いも増えていった。次第に実力者となりつつあった。
 2番目の雄犬チビは、駐車場の片隅で、それら荷の番犬のようにして飼った。前脚の片方が明後日の方を向いていたので、「明後日」と呼んだ。動物記のシートンに影響されたのだ。
 事業も軌道に乗り、様々な苦労を経て、南信の商工会の役員になり活躍しだした。だから、故松下県議に交友もあったし、故小川平二衆議院議員、宮下創平元衆議院議員、小川元元衆議院議員とも交友出来た。後、小川元先生にわたくしがお世話になれたのも、そんな親の七光があった所為だと思う。
 それからは大学に進んで地元のこと、特に経済のことはわからないが、中央道が通ったこと、父が鼎最後の町会議員に立候補して敗れたこと。仕事は全盛期を迎えたこと。は覚えている。成人した年が選挙で、最初の投票で父に入れた。何よりの僥倖だと思う。
 それから、父が倒れた。
 故田中角栄氏が倒れた年と記憶している。自身の父親と氏を二重に重ねる人はわたしたちの世代には多い。選挙に勝って町会議員として働いていたら、と思う。集荷・運搬の仕事は、余りにも過酷であった。
 大学を出て、わたくしは諏訪に就職した。
 食肉の鳥・豚は他に移った。地元では割に合わないからである。羽も骨も脂も僅かになった。ただ、牛だけである。高齢と病気で不自由な体を押して父は、廃牛を集荷した。相変わらず党員であった。が、一線はほぼ退いていた。ただ、衆議院選の時、小川先生が、わたしの家に寄ってくれた。手元に南米から頂いたハガキがある。ホワイトハウスの絵葉書だ。宝物として飾ってある。そして、その時期、わたしが代って小川先生の集会に出た。諏訪と飯田。また、県会議員塩澤先生の選対事務所になったこともある。父にしてみれば、自分の選挙以来の選挙事務所。血が騒いだのかもしれない。ある衆議院選挙で、選対事務所を訪ねた。当時の社長さんが居た。挨拶に開口一番、「裏切者」とおっしゃられた。飯田は民主党の地盤だからと言う。そんな冗談さえ気軽に交わしあった。また、有賀前市長が市長選で会社まで来られた。会社を回って握手した。経済と政治は一繋がり。その時、実感する。
 3番目の白の雌犬チイは、廃牛を集荷したクレーンに父に乗せられ伊那まで通った。
 犬が、亡くなったのも、父の年と一致する。正月3日頃だった。大部のM.カクを読み耽っていたら、父が階段を上がって来て愛犬の死を告げた。それから震災は半月後、父の死は約3カ月後、祖母の死も父から約半月後。
 桜が散る雨の悲しい風景である。長源寺の桜は、何故あんなに悲しいのだろう。
 悲劇の女性山口不二の眠る寺と云う。
 父が亡くなってほぼ4年目、飯田に帰った。その年に選挙があった。上郷の宮下創平先生の事務所に選挙のカンパを届けた。秘書の人が、「伊那だから。」伊那迄届けに行った。諏訪に回って小川先生のところにも酒を届けた。2票可能だったら、2人に入れていただろう。その後、小川・宮下両先生の秘書であられる北原先生にお電話申し上げた機会があった。政策秘書としてご活躍とのこと、優秀な秘書あっての政治家、思った。
 犬は初めてペット・ショップで買った犬、ゴールデン・リトリバー。パフィー・ビデオに倣って、トレバーと名付けた。クレバーな犬だったが、とにかく急速に大きくなってしまい、手放した。
 ミレニアムが迫っていた。世紀を跨いで生きて来た。そんな実感はまたっく無かった。そんな歩み方の人生だった。父は偉大過ぎた。不遇にもめげず、努力して我武者羅に働いて。息子のわたしは、まったく正反対の道楽者だった…。

 車を持っていた時代、今の犬、クロを軽の後部荷物室に置いて、母と一家3人ドライブに出掛けた。母の犬を諭す話しを聞いて、クロが一家の孫だ。そんな気がした。その時だけだった気がする、良い時期は。然程難しい時代になってしまった、ささやかな団欒を過ごすことは。偉そうに言えないが、少子化対策は1にも2にも雇用対策・経済対策。そう思う。
 箕輪には、「牛御殿」と呼ばれる農家が幾つもある。昨今、狂牛病で、その牛を飼っている農家が大きな打撃を受けたと聞く。箕輪でも急速に牛を飼うことを止めてしまったとか。父の商売の名残は、もうない。鳥・豚・牛。飯田にはもう、遠山のマトンだけしかないかもしれない。それすら、肉はオーストラリアからの輸入と聞く。
 産業が移っていった。食肉など考えられなかった時代から、鳥・豚・牛と、贅沢になっていった。需要があった。供給するために鳥や豚を飼った。しかし、皮肉なことに購買を支えたのは、飼っている農家の工業・商業への転身だった。地元は今、モーター・時計を中心とする工業都市、名古屋からの観光・物流を中心とする商業都市である。農業ではない。農家の工・商業への転身がなければ、食生活の変化がなかっただろうし、それが逆に、畜産の足元を崩していく。
 それは、他のどの産業にも言えるだろう。IT、自動車。徒然草にある、弁証法。夏の中に秋の兆し。どんな経済活動も、その最盛期のうちに、衰退の芽を包している。
 「ローマ帝国衰亡史」それを紐解きたくなった。

 今、再び崖に立つ。日本経済も同じだろう。でも、背中に覆い被さる筈の、些かのシメール(希望)も感じないのは何故だろう。時代の風潮か?無関心の時代の投影か?はたまた、シメールそのものの不在か?(シメールは、ボードレールの散文詩中より。)
 人生について、経済について、究極の闇は、依然続く。濁った川を、水が流れる。
 小椋佳が頭に鳴る。
 だから、時々、黒い犬を背中に負んぶして、虚ろに歩いている、そんな人を見掛けたら、それはそっとしておいて欲しい。
 生きている裸のシメール、犬は作り物の筈だから。
 負ぶさった子犬クロは背中で今、何を思っているのだろうか?