パステルは始めたばかりで、色音痴の私にとっては、とても良い色使いの稽古になりそうです。
昨日は室内で自主例会。テーブルには秋の草花や果物が並び、甲子園やチコちゃんなど、手より口が良く動いて、あっという間の2時間でした。
私は、パステルと水彩でまだ青い柿と赤目垣を一枚と、少し時間が余ったのでもう一枚、鉛筆でイチジクを描きました。
私は、パステルと水彩でまだ青い柿と赤目垣を一枚と、少し時間が余ったのでもう一枚、鉛筆でイチジクを描きました。
ここはどこ?
今日で水墨画教室を退会しました。学生時代に多少描いていた油絵を、9月からもう一度学び直すことになり、時間的に両立が難しく、決断しました。
わずか一年半でしたが、水墨画の奥深さの一端に触れることができ、憧れていた墨と水だけで描く山水画の世界を垣間見ることができました。さらに上を目指すには、片手間ではなく身を入れて稽古に励まなければならないと痛感するようになり、ここ数ヶ月考えた末、私にとっては若い頃から慣れ親しんだ西洋画に、残された時間を集中しようと決めました。
墨絵も書道も初心者の私に、懇切丁寧に三墨法の基礎から手ほどきいただいた沈和年先生には心から感謝しています。6月の台湾旅行で、中国画の革新に挑んだ嶺南画派に巡り合わせていただいたのも、沈先生でした。
水墨画を学んで、画材や技法に洋の東西の違いはあれど、写真や映画や最近ではテレビやインターネットの画像に慣れ切ってしまった人々の目に、懐かしい安らぎを与えてくれる絵画こそ、昔も今も変わらず求められていることを再確認しました。
最後に描いた稚拙な深山を手に、多摩川を歩いて我が家へと向かいました。
今日で水墨画教室を退会しました。学生時代に多少描いていた油絵を、9月からもう一度学び直すことになり、時間的に両立が難しく、決断しました。
わずか一年半でしたが、水墨画の奥深さの一端に触れることができ、憧れていた墨と水だけで描く山水画の世界を垣間見ることができました。さらに上を目指すには、片手間ではなく身を入れて稽古に励まなければならないと痛感するようになり、ここ数ヶ月考えた末、私にとっては若い頃から慣れ親しんだ西洋画に、残された時間を集中しようと決めました。
墨絵も書道も初心者の私に、懇切丁寧に三墨法の基礎から手ほどきいただいた沈和年先生には心から感謝しています。6月の台湾旅行で、中国画の革新に挑んだ嶺南画派に巡り合わせていただいたのも、沈先生でした。
水墨画を学んで、画材や技法に洋の東西の違いはあれど、写真や映画や最近ではテレビやインターネットの画像に慣れ切ってしまった人々の目に、懐かしい安らぎを与えてくれる絵画こそ、昔も今も変わらず求められていることを再確認しました。
最後に描いた稚拙な深山を手に、多摩川を歩いて我が家へと向かいました。
今日は半世紀ぶりにクロッキーにチャレンジ。モデルはコンテンポラリー・ダンサーのY.I.さん。ポーズは10分、5分、2分、1分。ほとんど条件反射の世界⁈
先ごろ応募したクラウドファンディングが成立して、桐生市の大川美術館で、今年10月から来年6月まで、『松本竣介』の『アトリエの時間』『読書の時間』『子どもの時間』が連続開催されることが決まって、チケットの到着を心待ちにしているところです。
松本竣介の絵が好きなのは、14歳で聴力を失って絵描きとなって36歳で生涯を終えるまで、時代の風圧で描く対象は形を変えても、今を生きる人間の営みを眼差しをそらさず真正面から向き合って刻み込んだ画面の静謐さに惹かれるからです。
先日読み終えた『松本竣介』(朝日晃著、日動出版1977年刊)で、松本竣介はまた、彼が残したどちらかといえば甘い印象の作品とは対照的な、強靭な精神力を内に秘めた画家であったことを知りました。
アジアから太平洋へ戦火拡大を突き走る中、昭和16年1月号の美術雑誌『みづゑ』に「国防国家と美術-画家は何をするべきか」という陸軍省情報部幹部らの座談会が掲載されます。「言うことを聞かなければ絵具とカンバスは思想戦の弾薬なりといって配給を止めてしまう。そうして展覧会を押さえてしまへ。」 それを読んだ松本竣介は「生きている画家」と題した反論を投稿し、編集責任者の理解を得て4月号に掲載されます。「・・・私たち若い画家が、実に困難な生活環境の中にいて、なお制作を中止しないということは、それが一歩一歩人間としての生成を意味しているからである。例え私が何事も完成しなかったとしても、正しい系譜の筋として生きるならば、やがて誰かがこの意志を成就せしめるであろう。・・・」 多くの大家らが戦地視察・戦争画展に協力する中、画家生命を賭した良心の宣言でした。
敗戦後の松本竣介は、戦火を生き延びた麻生三郎らと共に、既成美術団体を超えた美術界の基礎組織となる日本美術家組合の結成に向けて奔走しますが、昭和23年6月、結核・気管支喘息を悪化させて亡くなります。
没後70年、敗戦間も無く中国大陸で戦病死した竣介若き日の画友・靉光らとともに、遺志を偲びたいと思います。
松本竣介の絵が好きなのは、14歳で聴力を失って絵描きとなって36歳で生涯を終えるまで、時代の風圧で描く対象は形を変えても、今を生きる人間の営みを眼差しをそらさず真正面から向き合って刻み込んだ画面の静謐さに惹かれるからです。
先日読み終えた『松本竣介』(朝日晃著、日動出版1977年刊)で、松本竣介はまた、彼が残したどちらかといえば甘い印象の作品とは対照的な、強靭な精神力を内に秘めた画家であったことを知りました。
アジアから太平洋へ戦火拡大を突き走る中、昭和16年1月号の美術雑誌『みづゑ』に「国防国家と美術-画家は何をするべきか」という陸軍省情報部幹部らの座談会が掲載されます。「言うことを聞かなければ絵具とカンバスは思想戦の弾薬なりといって配給を止めてしまう。そうして展覧会を押さえてしまへ。」 それを読んだ松本竣介は「生きている画家」と題した反論を投稿し、編集責任者の理解を得て4月号に掲載されます。「・・・私たち若い画家が、実に困難な生活環境の中にいて、なお制作を中止しないということは、それが一歩一歩人間としての生成を意味しているからである。例え私が何事も完成しなかったとしても、正しい系譜の筋として生きるならば、やがて誰かがこの意志を成就せしめるであろう。・・・」 多くの大家らが戦地視察・戦争画展に協力する中、画家生命を賭した良心の宣言でした。
敗戦後の松本竣介は、戦火を生き延びた麻生三郎らと共に、既成美術団体を超えた美術界の基礎組織となる日本美術家組合の結成に向けて奔走しますが、昭和23年6月、結核・気管支喘息を悪化させて亡くなります。
没後70年、敗戦間も無く中国大陸で戦病死した竣介若き日の画友・靉光らとともに、遺志を偲びたいと思います。