考えすぎかもしれないのだけど、
オオヤマヅミはオオヤマ・アトゥム、
オオワタツミはオオワ・ト・アトゥムで、
大氏系のヤマの神、大氏系ミワの神を封じるための、
岩の神ではないかと思う。
ヤマ、は“ヤ”の神、
即ち“モレヤ”である諏訪神・シュウを祖とする神々、
ワ、はアメンの系統の神々だと思う。
安曇野・穂高神社の神は、オオワタツミとされるが、
本来は、縄文人・アイヌが開拓者を神格化した
ボタ神さま、すなわち穂高見命だと思う。
オオヤマヅミにも、本来の古い名があるのでは、
と思う。
また、松本は、松茂・止で、松代を封じる名前だと思う。
長野と松本の中が悪いのは道理で、
松本が栄えれば長野は寂れるのだと思う。
松代は、松のヒモロギの意で、
皆神山のある町である。
大本に詳しい人なら知っていると思うのだけど、
大本の基本テーゼは“梅で開いて松で治める”になる。
梅はアメンに通じ、天系のなおさん、
松は国武彦=ミン、あるいはミンの息子オシリスを示すのだと思う。
(わたしは、ヌト=トヨクモヌノで、その配偶神は
ゲブ=国常立ではなくミン=国武彦、という立場なので、
オシリスはミンの御子神になる)
***
神道、という言葉からして、
“かみのみち”ではなく“しんとう”と読ませるのだから、
しん=芯=心の御柱で現されるミンと、
彼を祖とする神々を封じるための祭祀なのだと思う。
神祀りをすることで子々孫々まで栄える、というのは、
天武・中臣系の支配者が、
本来の神々を封じつづけなければ祟りにより滅ぶ、という事だと思う。
道教も、中国語のタオならいいが、
止めるための道、封じる道の意だと思う。
平安貴族が、異様に方位や日どりにこだわり、道教的な占いに頼ったのは、
彼らがエジプトーインダスの神々の祟りの上で、
封術の薄い皮膜の上に生きていたからでは?
***
エジプトの神々の名が“ト”だらけであるように、
同じことは世界中で起こったのかもしれない。
人々が、神なんかいない、と思うのは、
神々が散々封じられた世界しか知らないからでは、と思う。
本当の神は、そんなものではないのである。
オオヤマヅミはオオヤマ・アトゥム、
オオワタツミはオオワ・ト・アトゥムで、
大氏系のヤマの神、大氏系ミワの神を封じるための、
岩の神ではないかと思う。
ヤマ、は“ヤ”の神、
即ち“モレヤ”である諏訪神・シュウを祖とする神々、
ワ、はアメンの系統の神々だと思う。
安曇野・穂高神社の神は、オオワタツミとされるが、
本来は、縄文人・アイヌが開拓者を神格化した
ボタ神さま、すなわち穂高見命だと思う。
オオヤマヅミにも、本来の古い名があるのでは、
と思う。
また、松本は、松茂・止で、松代を封じる名前だと思う。
長野と松本の中が悪いのは道理で、
松本が栄えれば長野は寂れるのだと思う。
松代は、松のヒモロギの意で、
皆神山のある町である。
大本に詳しい人なら知っていると思うのだけど、
大本の基本テーゼは“梅で開いて松で治める”になる。
梅はアメンに通じ、天系のなおさん、
松は国武彦=ミン、あるいはミンの息子オシリスを示すのだと思う。
(わたしは、ヌト=トヨクモヌノで、その配偶神は
ゲブ=国常立ではなくミン=国武彦、という立場なので、
オシリスはミンの御子神になる)
***
神道、という言葉からして、
“かみのみち”ではなく“しんとう”と読ませるのだから、
しん=芯=心の御柱で現されるミンと、
彼を祖とする神々を封じるための祭祀なのだと思う。
神祀りをすることで子々孫々まで栄える、というのは、
天武・中臣系の支配者が、
本来の神々を封じつづけなければ祟りにより滅ぶ、という事だと思う。
道教も、中国語のタオならいいが、
止めるための道、封じる道の意だと思う。
平安貴族が、異様に方位や日どりにこだわり、道教的な占いに頼ったのは、
彼らがエジプトーインダスの神々の祟りの上で、
封術の薄い皮膜の上に生きていたからでは?
***
エジプトの神々の名が“ト”だらけであるように、
同じことは世界中で起こったのかもしれない。
人々が、神なんかいない、と思うのは、
神々が散々封じられた世界しか知らないからでは、と思う。
本当の神は、そんなものではないのである。