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tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 李白205ー210

2009年10月10日 | Weblog
 李白205
   春日独酌二首       春日独酌 二首
   其一             其の一
 
  東風扇淑気     東風(とうふう)  淑気(しゅくき)を扇(あお)ぎ
  水木栄春暉     水木(すいぼく)  春暉(しゅんき)に栄(さか)ゆ
  白日照緑草     白日  緑草(りょくそう)を照らし
  落花散且飛     落花  散じて且つ飛ぶ
  孤雲還空山     孤雲  空山(くうざん)に還(かえ)り
  衆鳥各已帰     衆鳥  各々(おのおの)已(すで)に帰る
  彼物皆有託     彼(か)の物  皆(みな)託する有るに
  吾生独無依     吾(わ)が生  独り依(よ)る無し
  対比石上月     比の石上(せきじょう)の月に対し
  長歌酔芳菲     長歌(ちょうか)して芳菲(ほうひ)に酔わん

  ⊂訳⊃
          春の風が   おだやかな気配を運ぶと
          水も木も    春の陽に匂い立つ
          陽の光は   草の緑に降りそそぎ
          花は散って  空に舞い飛ぶ
          千切れ雲は  山のほこらに還り
          鳥たちは   それぞれの塒(ねぐら)に帰る
          総ての者に  寄る辺があるというのに
          私の人生に  頼るものはない
          だから     石上の月を仰ぎ
          詩を吟じて  花の香りに酔い痴れるのだ


 ⊂ものがたり⊃ 昇州(金陵)についた李白は人の世話になりながら、金陵の付近で遊歴の生活をつづけます。李白の生活は、はじめは父親の仕送り、のちには兄弟の援助によって賄われていたと思われますが、兄はすでに亡くなっていたようです。弟は三峡にいると李白が獄中にいるときに作った詩で述べています。
 李白の父親は裕福な交易商人であったらしく、兄弟の家業も長江での運送業ではなかったかというのが郭沫若氏の推定ですが、その家業も戦乱の影響で不況に陥っていたとすれば、弟からの仕送りも途絶えがちになっていたでしょう。
 李白は詩文や書を売り物にして、崇拝者の好意にすがる生活を余儀なくされていたと思われますが、そんな不如意な生活を慰めるのは酒です。詩は春の日にひとり酒を飲む歌ですが、李白は「比の石上の月に対し 長歌して芳菲に酔わん」と孤独を噛みしめています。

 李白ー206
   春日独酌二首       春日独酌 二首
   其二             其の二

  我有紫霞想     我  紫霞(しか)の想(そう)有り
  緬懐滄洲間     緬(はるか)に懐う  滄洲(そうしゅう)の間(かん)
  且対一壺酒     且(しばら)く一壺(いっこ)の酒に対し
  澹然万事閑     澹然(たんぜん)として万事(ばんじ)閑(かん)ならん
  横琴倚高松     琴を横たえて高松(こうしょう)に倚(よ)り
  把酒望遠山     酒を把(と)って遠山(えんざん)を望めば
  長空去鳥没     長空(ちょうくう)  去鳥(きょちょう)没し
  落日孤雲還     落日(らくじつ)   孤雲(こうん)還(かえ)る
  但悲光景晩     但(た)だ悲しむ  光景(こうけい)晩(おそ)く
  宿昔成秋顔     宿昔(しゅくせき)  秋顔(しゅうがん)と成るを

  ⊂訳⊃
          私には  神仙を慕う気持ちがあり
          遥かに  滄洲の仙境を想う
          だが   まずは一壺の酒を前に置き
          万事を  気楽に過ごすとしよう
          琴を手に     松の大木に寄りかかり
          酒を飲みつつ  遠くの山を眺めると
          空の彼方に   鳥は飛び去り
          夕日は落ちて  ちぎれ雲が帰ってゆく
          ただ悲しいのは  人生の暮れゆく景色
          かつての紅顔も  秋の顔になった


 ⊂ものがたり⊃ 李白は失意のときや生活にゆきづまると、神仙にあこがれ、東の海上にあるという滄洲の仙境に往ってみたいと思うのですが、それは夢のような話です。だから手軽に目の前にある酒に手を出します。
 思えば遠い昔、まだ十六、七歳で学問を始めたころに、故郷の載天山に道士を訪ねて会えなかったことがあります。そのときも松の根方で、途方に暮れて立っていたのです。そんな紅顔の美少年も、いまは旅に疲れ、人生に疲れて、酒を友にするだけの秋の顔になっています。

 李白ー207
   春日酔起言志      春日 酔起して志を言う

  処世若大夢     世に処(お)るは大夢(たいむ)の若(ごと)し
  胡為労其生     胡為(なんす)れぞ  其の生を労(ろう)するや
  所以終日酔     所以(ゆえ)に終日酔い
  頽然臥前楹     頽然(たいぜん)として前楹(ぜんえい)に臥(が)す
  覚来眄庭前     覚(さ)め来たりて庭前(ていぜん)を眄(なが)むれば
  一鳥花間鳴     一鳥(いっちょう)  花間(かかん)に鳴く
  借問此何時     借問(しゃもん)す  此れ何(いず)れの時ぞ
  春風語流鶯     春風(しゅんぷう)  流鶯(りゅうおう)と語る
  感之欲歎息     之(これ)に感じて歎息(たんそく)せんと欲し
  対酒還自傾     酒に対して還(ま)た自ら傾く
  浩歌待明月     浩歌(こうか)して明月を待ち
  曲尽已忘情     曲(きょく)尽きて已(すで)に情を忘る

  ⊂訳⊃
          世に生きるとは  夢を見ているようなもの
          どうして齷齪と  苦労をするのか
          だから一日中酔っぱらい
          崩れるように  南の柱の陰に倒れ伏す
          酔いから醒め  庭先を眺めると
          一羽の鳥が   花のあいだで鳴いている
          お尋ねするが  いったい今はどんな時節なのか
          春風が鶯と語り合う時  春のたけなわ
          過ぎてゆく時に感じて  思わず嘆息したくなり
          酒を前にして  またも杯を傾ける
          詩を吟じつつ  明月の昇るのを待っていると
          詠い終わって  心の憂さも消え果てる


 ⊂ものがたり⊃ この詩も「春日独酌」と同じころの作品と思われます。かつての天下国家への志も、ぼろぼろになって「世に処るは大夢の若し 胡為れぞ 其の生を労するや」という心境になっています。だから酒を飲んで寝入ってしまい、酔いから醒めると、一羽の鳥が花のあいだで鳴いているのに気づきます。
 詩中に「前楹」(ぜんえい)という語がありますが、中国の伝統的な家屋は中央奥に南向きの「堂」があって、「院子」(中庭)に面しています。堂と院子との間はテラスのようになっていて、装飾を施した柱が立っています。李白はその柱の陰で居眠りをしたのです。
 李白は花のあいだで鳴いている鳥に「此れ何れの時ぞ」と尋ねます。答えは春風が鶯と語り合う春のたけなわ、というものです。李白の志は天下国家にあるのですが、自然は李白の志とは無関係に過ぎてゆきます。李白は嘆息し、酒を飲んで詩を吟じ、明月の昇るのを待っていると詠うだけです。「春日独酌」では隠遁の気持ちが強かったのですが、この詩では題に「志を言う」とあるだけに、すこし心を持ち直しています。

 李白ー209
   哭宣城善釀紀叟     宣城の善釀 紀叟を哭す

  紀叟黄泉裏     紀叟(きそう)  黄泉(こうせん)の裏(うち)
  還応釀老春     還(ま)た応(まさ)に老春(ろうしゅん)を釀(かも)すべし
  夜台無暁日     夜台(やだい)に暁日(ぎょうじつ)無し
  沽酒与何人     酒を沽(う)りて何人(なにびと)にか与うる

  ⊂訳⊃
          老人の紀は  あの世へ逝ってしまった

          あの世でも  老春を醸しているに違いない

          だが  死後の世界に夜明けはない

          醸した酒を  誰に売ろうというのだろうか


 ⊂ものがたり⊃ 李白はひとりで酒を飲むのにも飽きると、上元二年(761)の春から冬へかけて、金陵を中心に宣城や歴陽(安徽省和県)など、なじみの城市を転々と歩きまわっていました。久しぶりに宣城に来てみると、行きつけの酒屋で酒つくりの上手だった紀という老人が亡くなっていました。
 「老春」(ラオチュン)というのは酒の名前で、春は新酒の季節ですので、中国では「春」という名のつく酒は多いのです。李白は紀老のために五言絶句を作って、その死を悼みました。

 李白ー210
   江南春懐          江南春懐

  青春幾何時     青春(せいしゅん)  幾何(いくばく)の時ぞ
  黄鳥鳴不歇     黄鳥(こうちょう)  鳴いて歇(や)まず
  天涯失郷路     天涯(てんがい)  郷路(きょうろ)を失い
  江外老華髪     江外(こうがい)  華髪(かはつ)老ゆ
  心飛秦塞雲     心は飛ぶ  秦塞(しんさい)の雲
  影滞楚関月     影は滞(とどこお)る  楚関(そかん)の月
  身世殊爛熳     身世(しんせい)  殊(こと)に爛熳(らんまん)
  田園久蕪没     田園(でんえん)  久しく蕪没(ぶぼつ)す
  歳晏何所従     歳(とし)晏(く)れて何の従う所ぞ
  長歌謝金闕     長歌して金闕(きんけつ)に謝(しゃ)せん

  ⊂訳⊃
          鶯は鳴いてやまないが
          春の盛りが   いつまでつづくのか
          生涯は尽きて  故郷への路を失い
          江南の地で   老いの白髪が増すばかり
          心は  都の雲上を駆けめぐるが
          身は  楚関の月下に漂っている
          一生を  思うがままに生き
          田園は  荒れるままに任せている
          老いて  拠り処とするものは何もない
          高らかに詩を吟じて  長安と別れよう


 ⊂ものがたり⊃ 上元二年(761)の春、太尉兼中書令(正三品)の李光弼(りこうひつ)は、北邙山(洛陽の北)で史思明軍と戦って大敗しました。勢いに乗った賊軍は陝州(河南省陝県)に攻め込んできましたが、三月になって思いがけないことが起こりました。史思明が息子の史朝義に殺されたのです。原因は安禄山のときと同じ後嗣のもつれからでした。
 史朝義は洛陽に入って大燕皇帝を自称します。政府としては反撃に出る好機でしたが、この年、関中は大飢饉となり、梓州(四川省三台県)では刺史の叛乱が起こるなどして、史朝義への反撃に出ることができませんでした。
 五月になって政府は李光弼を副元帥(元帥は皇族ですので事実上の軍の総指揮官)に任じ、八道の行営節度総司令として態勢を整え始めましたが、すぐに調うというわけにはいきません。一方、史朝義は政変後の政権を固めると、それまで両勢力の空白地帯になっていた宋州(河南省商丘市)方面に兵を向けます。史朝義は新皇帝として戦果を挙げ権威を高めようと、矛先を東に向けたのです。
 李光弼は兵を臨淮郡(安徽省泗県一帯)に集めて、東南へ進出してきた賊軍に兵を向けます。李光弼が臨淮の西北、彭城(江蘇省徐州市)・宋州方面へ兵を出したのは前後二回にわたると考えられ、上元二年の晩秋か初冬、それと翌宝応元年(762)の夏五月の可能性が高いとみられます。政府軍のこの動きをみた李白は、臨淮の李光弼軍に投じようと東へ向かいますが、途中で病気になって引き返してきました。
 李白はかねてから親しくしていた当塗(とうと)県令の李陽冰(りひょうよう)のもとで病を養ったようですが、それは上元二年の冬から翌年の春にかけてのことと思われます。春になると病状はいくらか回復して、「江南春懐」の詩を作ったとみられます。李白は六十二歳になっており、自分の生涯をかえりみて「心は飛ぶ 秦塞の雲 影は滞る 楚関の月」、「歳晏れて何の従う所ぞ 長歌して金闕に謝せん」と諦めの境地を詠っています。