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tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 白居易22ー28

2010年09月01日 | Weblog
 白居易ー22
   西明寺牡丹花時憶元九   西明寺の牡丹の花時に元九を憶う

  前年題名処     前年  名を題する処(ところ)
  今日看花来     今日  花を看(み)に来たる
  一作芸香吏     一たび芸香(うんこう)の吏と作(な)りてより
  三見牡丹開     三たび牡丹の開くを見る
  豈独花堪惜     豈(あに)独り花の惜(お)しむに堪うるのみならんや
  方知老暗催     方(まさ)に知る    老いの暗(あん)に催すを
  何况尋花伴     何ぞ况(いわん)や 花を尋ねるの伴(とも)
  東都去未廻     東都(とうと)に去って未だ廻(かえ)らず
  詎知紅芳側     詎(なん)ぞ知らん  紅芳(こうほう)の側(かたわら)
  春尽思悠哉     春尽きて思い悠(ゆう)なる哉(かな)

  ⊂訳⊃
          先年  名を記したこの寺に
          今日は牡丹の花を見にやってきた
          ひとたび  校書の郎となってから
          牡丹の花の咲くのを  三度見る
          花が散るのを惜しむだけではなく
          老いがひそかに  忍び寄るのを惜しむのだ
          まして  花見を共にした友は
          洛陽に去ってまだ帰ってこない
          知っているのか  この赤い花のかたわらで
          過ぎてゆく春を  悲しむ私がいることを


 ⊂ものがたり⊃ 徳宗は初政において、政府に従わない藩鎮を制圧しようとしましたが失敗してしまいました。そのとき徳宗を救ったのが宦官のひきる神策軍でしたので、神策軍を強化してその力に頼るようになりました。徳宗の末年には反政府の藩鎮と宦官の率いる禁軍の存在とが大きな政事問題になっていました。
 徳宗の太子李誦(りしょう)は父帝が挫折した政治改革に意欲を燃やし、かねてから同志を集めて態勢をととのえていました。ところが李誦は貞元二十年に風疾(中風)の発作に襲われ、口が利けない状態におちいります。それでも貞元二十一年(805)正月二十三日に徳宗が崩じると、李誦は即位して順宗となり、ただちに政治改革に着手します。
 白居易が延康坊の西明寺に牡丹の花を見に行ったのは、この年の二月のことでしょう。詩中に「三たび牡丹の開くを見る」とありますので、流入(官吏になること)して三度目の牡丹の季節を迎えたときの詩であるからです。白居易はまだ三十四歳というのに、老いが忍び寄ってくるのを嘆き、そのころ洛陽に転勤になっていた元愼を懐かしがっています。

 白居易ー23
   春中与廬四周諒        春中 廬四周諒と
   華陽観同居           華陽観に同じく居る

  性情懶慢好相親   性情懶慢(らんまん)にして  好く相(あい)親しみ
  門巷蕭条称作隣   門巷(もんこう)蕭条として  隣を作(な)すに称(かな)う
  背燭共憐深夜月   燭を背(そむ)けて 共に憐れむ深夜の月
  踏花同惜少年春   花を踏(ふ)みて  同じく惜しむ少年の春
  杏壇住僻雖宜病   杏壇(きょうだん)  住僻にして  病に宜(よろ)しと雖も
  芸閣官微不救貧   芸閣(うんかく)   官微(かんび)にして  貧を救わず
  文行如君尚憔悴   文行(ぶんこう)   君の如くにして  尚お憔悴(しょうすい)す
  不知霄漢待何人   知らず  霄漢(しょうかん)  何人(なんびと)をか待つ

  ⊂訳⊃
          怠ける癖が似ているので  互いに親しみ合い
          共に寒門の出であるから  つき合うのによい
          灯火を背にして  深夜の月を愛で
          落花を踏んで   青春の時を惜しむ
          華陽観は辺鄙なところ  病を治すにはよいが
          校書郎の地位は低くて 貧乏を救えない
          学問や行いが君のようでも  やつれ果てている
          朝廷ではいったい  どのような人を用いようというのか


 ⊂ものがたり⊃ この詩は題中に「春中」とありますので、先の詩と同じ年の二月か三月の作品でしょう。そのころ白居易は銓試よりも一段高い任用試験である制挙(せいきょ)を受けようと決心し、常楽坊の家を引き払って永楽坊の華陽観(かようかん)に移りました。華陽観は道教の寺で、勉強には適しています。華陽観には廬周諒(ろしゅうりょう)も部屋を借りていて、隣人として親しくなったようです。永楽坊は大慈恩寺のある晋昌坊の北二つ目の坊で、西に面した高台の中腹に位置します。「住僻」と言っていますので、当時は繁華街から離れた辺鄙な場所であったのでしょう。
 順宗に起用された王叔文(おうしゅくぶん)ら改革派は、新進気鋭の官僚を集めて政事改革を推進します。その中には白居易と同年生まれの劉禹錫(りゅううしゃく)や一歳年下の柳宗元(りゅうそうげん)もいました。王叔文はこれら若手の俊秀の地位を引き上げ、その異例の昇進は世の注目を浴びました。
 白居易は自分と同年齢の劉禹錫らが、自分よりは早く進士に及第していたために昇進の機会に恵まれたのを見て、「知らず 霄漢 何人をか待つ」と廬周諒にこと寄せて不満を吐露しています。自分の官途の遅れを取りもどすには、さらに上級の制挙を目指す必要があると考えての行動であったと思われます。

 白居易ー24
   三月三十日題慈恩寺    三月三十日 慈恩寺に題す

  慈恩春色今朝尽   慈恩の春色(しゅんしょく)  今朝(こんちょう)尽く
  尽日徘徊倚寺門   尽日(じんじつ)徘徊して  寺門(じもん)に倚(た)つ
  惆悵春帰留不得   惆悵(ちゅうちょう)す  春帰りて留(とど)め得ざるを
  紫藤花下漸黄昏   紫藤(しとう)の花下  漸(ようや)く黄昏(こうこん)

  ⊂訳⊃
          慈恩寺の春景色も  今日で終わり

          一日歩きまわって  門の側に立ち止まる

          悲しいのは  春を引き止められないこと

          紫の藤の花  静かに深まる黄昏の色


 ⊂ものがたり⊃ 三月三十日は春の最後の日です。白居易は華陽観から近いところにある大慈恩寺を訪れ、過ぎゆく春の一日を楽しみます。制挙受験の考えは、洛陽の元愼にも伝えられ、元愼も洛陽の職を辞して華陽観に移ってきます。
 一方、王叔文らの政事改革は急速に進められますが、宦官が握っていた神策軍の指揮権を取り上げようとしたことから、宦官側の猛烈な巻き返しが起こります。順宗は口が利けないと言っても愛嬪を通じて意思は伝えることができたのですが、反対派は王叔文らが病気の順宗を操って政事を専断していると非難し、改革派の内部でも分裂が起こります。
 八月四日になると順宗は退位に追い込まれて太上皇となり、太子の李純が即位して憲宗となります。順宗は半年余の在位で、当時は踰年称元法ですのでまだ改元が行われていませんでした。そこで退位の月に永貞と改元になり、これが順宗の年号となります。したがって史書では、八月の政変を「永貞の政変」といいます。
 憲宗は即位したときに二十七歳でした。即位するとただちに王叔文ら改革派の粛正に乗り出し、改革派たちは地方の司馬(州の次官ですが無権限の職)に流されます。史書はこれを「八司馬の貶(へん)」と称しています。白居易はこの政変を華陽観の寓居から複雑な心境で眺めていたはずです。

 白居易ー25
   官舎小亭望          官舎小亭の望

  風竹散清韻     風竹(ふうちく)   清韻(せいいん)を散じ
  煙槐凝緑姿     煙槐(えんかい)  緑姿(りょくし)を凝(こ)らす
  日高人吏去     日高くして人吏(じんり)去り
  坐在茅茨     坐(かんざ)して茅茨(ぼうし)に在り
  葛衣禦時暑     葛衣(かつい)  時暑(じしょ)を禦(ふせ)ぎ
  蔬飯療朝飢     蔬飯(そはん)  朝飢(ちょうき)を療(いや)す
  持此聊自足     此(こ)れを持(じ)して聊(いささ)か自ら足り
  心力少営為     心力(しんりょく)  営為(えいい)少なし
  亭上独吟罷     亭上  独吟(どくぎん)罷(や)む
  眼前無事時     眼前  無事の時
  数峰太白雪     数峰  太白(たいはく)の雪
  一巻陶潜詩     一巻  陶潜(とうせん)の詩
  人心各自是     人心  各々(おのおの)自(みずか)ら是(ぜ)とす
  我是良在茲     我が是  良(まこと)に茲(ここ)に在り
  廻謝争名客     廻(かえ)って謝す  名を争う客
  甘従君所嗤     甘んじて君の嗤(わら)う所に従(まか)す

  ⊂訳⊃
          風に吹かれて  竹は清らかな音を立て
          靄につつまれ  槐の緑が浮かんでいる
          日は高く昇って下役は去り
          私はのんびりと茅葺きの家に坐す
          葛の着物で   暑さをしのぎ
          粗末な飯で   朝の空腹をいやす
          そんな生活に  まずは満足し
          心と体を労することもない
          亭上で  ひとり詩を吟ずれば
          あとは何も  することがない
          太白山の峰に白い雪
          手には一巻  陶淵明の詩
          人にはそれぞれ 正しいとする心があり
          私の正しさは   ここに在る
          振り返って  名声を争う者に言っておく
          甘んじて   君が笑うのにおまかせすると


 ⊂ものがたり⊃ 憲宗即位の翌年が元和元年(706)です。白居易は元和のはじめに校書郎を辞したと言っていますので、このころまで秘書省に籍だけは残していたようです。この年の制挙は四月に新しい皇帝の名において施行され、白居易も元愼も才識兼茂明於体用科を受験しました。論文の課題は安史の乱の結果起こった諸問題の対策を問うものでした。二人とも及第し、元稹は三等、白居易は四等でした。制挙は一二等を置かない習慣でしたので、元稹は首席で合格したことになります。
 制挙は形式上は天子が直接人材を選考するもので、新天子の初回の制挙は新時代を担う官吏が選ばれるという受け止め方があります。だから、その合格者は特に名誉とされるのです。首席及第の元稹はいきなり門下省の左拾遺(従八品上)に任ぜられました。左拾遺は文士の清官と称され、将来の出世が約束されたようなものです。
 白居易は蟄厔県(陝西省周庢県)の県尉を授けられました。この県は長安の西65kmほどのところにあり畿県に属します。畿県は畿内の県として格の高い県に位置づけられ、品階も校書郎よりは一品階上の従八品下です。畿県の県尉は悪いポストではありませんが、自分よりも若い元稹が左拾遺になったのに比べると大きな差があり、白居易には失望の気持ちがあったでしょう。
 なお、「蟄厔県」の蟄は外字になりますので同音の字に変えてあります。本来の字は蟄に似ていますが、丸の部分が攵、虫の部分が皿になっています。
 三十四歳にもなって制挙を受け、新天子のもとで大いに才能を発揮したいと思っていた白居易は、いささかあてが外れてしまった感じで、詩には仕事がなくて退屈し切っている姿が読み取れます。後半では太白山の雪を眺め、陶淵明(とうえんめい)の詩集を手にして「人心 各々自ら是とす」と自分で自分を慰めています。結びを見ると、白居易の地位が期待通りでなかったことを誰かが笑っており、そのことを伝えた友人に答えた詩のようです。
 左拾遺になった元稹は、左拾遺として提出した上書が物議をかもし、その年のうちに河南県(河南省洛陽市)の県尉に出され、白居易と同じ身分になっていました。
 順宗の急進的な改革に反対する宦官たちによって擁立された憲宗ですが、徳宗以来の弊政を改めようという気持ちは順宗と同じでした。ただし、その進め方は徳宗や順宗の失敗に学んで、極めて慎重でした。禁軍を握っていた宦官の兵権には手をつけず、反抗藩鎮のなかで弱いところから各個撃破してゆくという方策をすすめました。この方策は着々と成果を収め、やがて「元和の中興」といわれる時代が出現します。

 白居易ー27
   県西郊秋寄贈馬造      県の西郊の秋 馬造に寄贈す

  紫閣峰西清渭東   紫閣峰(しかくほう)の西  清渭(せいい)の東
  野煙深処夕陽中   野煙(やえん)深き処  夕陽(せきよう)の中(うち)
  風荷老葉蕭条緑   風荷(ふうか)の老葉  蕭条(しょうじょう)として緑に
  水蓼残花寂寞紅   水蓼(すいりょう)の残花  寂寞(せきばく)として紅なり
  我厭宦遊君失意   我は宦遊(かんゆう)を厭(いと)い  君は失意
  可憐秋思両心同   憐れむ可(べ)し  秋思(しゅうし)両心(りょうしん)同じ

  ⊂訳⊃
          紫閣峰の西  清らかな渭水の東
          夕陽の中で  靄は深く立ちこめる
          蓮の枯れ葉は風に揺れ  残る緑はものさびしく
          散り残る水蓼の花の紅  水に淋しく映えている
          私は地方の勤めを嫌い  君は望みを果たせぬまま
          哀れにもふたり同じく   秋の愁いをかこつとは


 ⊂ものがたり⊃ 時代は着実に進みはじめていますが、チュウ庢県の県尉である白居易に、国の大きな政事は関係ありません。秋になって白居易は、馬造(ばぞう)という不遇の知識人と知り合いになり、詩のやり取りをしています。
 詩中の「紫閣峰」は長安の西、陝西省鄠(こ)県の東南にある秀峰です。七言六句の詩のうち、はじめの四句は蟄厔県西郊の秋景色を詠うものですが、最後の二句で「我は宦遊を厭い 君は失意」と同病相憐れむ心を詠っています。「宦遊」とは地方勤めのことで、白居易は中央で働きたかったのです。

 白居易ー28
   送王十八帰山          王十八の山に帰るを送り
   寄題仙遊寺           仙遊寺に寄題す

  曾於太白峰前住   曾(かつ)て太白峰前(たいはくほうぜん)に於いて住み
  数到仙遊寺裏来   数々(しばしば)仙遊寺裏(ゆうせんじり)に到りて来たる
  黒水澄時潭底出   黒水(こくすい)澄む時   潭底(たんてい)出で
  白雲破処洞門開   白雲(はくうん)破るる処  洞門(どうもん)開く
  林間煖酒焼紅葉   林間(りんかん)に酒を煖(あたた)めて紅葉(こうよう)を焼き
  石上題詩掃緑苔   石上(せきじょう)に詩を題して緑苔(りょくたい)を掃(はら)う
  惆悵旧遊無復到   惆悵(ちゅうちょう)す  旧遊  復(ま)た到ること無きを
  菊花時節羨君迴   菊花の時節  君が迴(かえ)るを羨(うらや)む

  ⊂訳⊃
          かつて太白峰の麓に住み
          しばしば仙遊寺を訪れた
          黒水の流れが澄めば  淵の底までみえ
          白雲のとぎれた所に  洞門が開いている
          林に中で  落ち葉を燃やして酒を暖め
          石の上の  苔を払って詩を書いた
          懐かしい地に  また行けないのは悲しいが
          菊花の季節   故郷に帰る君がうらやましい


 ⊂ものがたり⊃ 冬になると王全素(おうぜんそ:字は質夫)という気の合う友人ができて、県城近くの山中にある仙遊寺に一緒に出かけるようになりました。王全素は瑯琊(ろうや)の王氏と呼ばれる古い名門の出で、このとき蟄厔県にいたようです。
 掲げた詩は、このときから三年後の「菊花の時節」に王全素が故郷に帰ることになったときの作で、往時の交遊を懐かしんで送別の詩を贈ったものです。詩題にある「山」は故郷の山、つまり王全素の故郷を意味します。 

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