王維ー39
寒食上作 寒食 上の作
広武城辺逢暮春 広武(こうぶ)の城辺 暮春(ぼしゅん)に逢い
汶陽帰客涙巾沾 汶陽の帰客 涙巾(きん)に沾(うるお)う
落花寂寂啼山鳥 落花寂寂(せきせき)たり 山に啼ける鳥
楊柳青青渡水人 楊柳青青(せいせい)たり 水を渡るの人
⊂訳⊃
広武古城のあたり 暮れゆく春のころ
汶陽の人と逢い 涙で巾(きれ)は濡れ果てる
花は寂しく散り 山には啼く鳥の声
柳は青々と茂り 川には渡る人の影
⊂ものがたり⊃ 王維は長途の旅をして蜀からもどってきますが、都へ着くとすぐに洛陽方面の地方官に出されたらしく、二年ほど洛陽付近の任地を転々とします。そんななか重要な詩を書きます。
退屈な日々を過ごしていた王維は、ある寒食節の日、それは開元十六年(728)の清明節(陽暦四月はじめ)の前と思われますが、水のほとりで「汶陽の人」と再会しました。「広武」は水に近い山の名で、その麓に広武城(河南省鄭州市の北)がありました。広武城辺の「暮春」(晩春)がいかに素晴らしいものであろうとも、晩春の景に出会うことが「涙巾に沾う」ほどの重要事とは思われません。逢ったのは「汶陽の人」でしょう。
「帰客」とは地方から都にもどる旅人をいい、汶陽の人は王維が洛陽の近くで勤務しているのを知り、会いに来たものと思われます。転結句は整然とした対句でまとめられており、上(しじょう)の渡津(としん)の風景を詠っているように思われますが、「水を渡るの人」は、その日の旅宿にもどる「汶陽の人」でなければなりません。そのように考えてこそ、この詩の痛切な感じは理解できるものと思います。
王維ー40
帰嵩山作 嵩山に帰るの作
清川帯長薄 清川(せいせん)は長薄(ちょうばく)を帯び
車馬去閑閑 車馬(しゃば) 去って閑閑(かんかん)たり
流水如有意 流水 意有るが如く
暮禽相与還 暮禽 相与(あいとも)に還る
荒城臨古渡 荒城 古渡(こと)に臨み
落日満秋山 落日 秋山(しゅうざん)に満つ
迢遞嵩高下 迢遞(ちょうてい)たり 嵩高(すうこう)の下
帰来且閉閞 帰来(きらい)して 且つ閞(かん)を閉ず
⊂訳⊃
清らかな川の岸辺に 草むらが茂り
馬車は去って あたりは静かになった
流れる水は 語りかけるように流れ
日暮れの空を 鳥は連れだって帰ってゆく
荒れた城のほとりに 古い渡しがあり
落日の光は 秋の山々に満ちている
はるばると帰る 嵩山の麓の家
帰り着くや ぴたりと門扉を閉ざす
⊂ものがたり⊃ 汶陽の人は王維の勤め先の近くに住み、ふたりは再び逢う瀬を重ねるようになったようです。そのころ王維は嵩山(洛陽の東南54㌔㍍)の麓に住んでいました。詩は嵩山の麓の家に帰りつくと、門扉をぴたりと閉ざした句で終わっていますが、何処で何をし、どこから帰ってきたのか、明示されていません。
季節は秋の夕暮れで、はじめの二句は、すすきの茂る河岸から「車馬」(馬車のこと)が去って行って、あたりは静かになったと詠い出されています。馬車に乗って去っていったのは汶陽の人に違いありません。その日の逢う瀬のあと、王維は汶陽の人を見送って河岸に立っているのです。結句は「帰来して 且つ閞を閉ず」と何かを断ち切るような、決意をみずからに言い聞かせるような、断固とした気息が感ぜられますが、汶陽の人との関係で何かを決意しようとしているようです。
王維ー41
過李揖宅 李揖が宅を過(と)う
閑門秋草色 閑門(かんもん)に秋草の色
終日無車馬 終日 車馬(しゃば)無し
客来深巷中 客は来る 深巷(しんこう)の中(うち)
犬吠寒林下 犬は吠ゆ 寒林(かんりん)の下(もと)
散髪時未簪 髪を散ぜしも時に未だ簪(かんざし)せず
道書行尚把 道書(どうしょ) 行々(ゆくゆく)尚お把(と)る
与我同心人 我と心を同じくする人
楽道安貧者 道を楽しみ 貧を安んずる者
一罷宜城酌 一たび宜城(ぎじょう)の酌を罷(や)め
還帰洛陽社 還(ま)た帰らん 洛陽の社(しゃ)に
⊂訳⊃
人けのない門に 秋の草が色づき
ひがな一日 馬車の訪れもない
辺鄙なところに客が来て
秋枯れの林の側から犬が吠える
髪は結わず 冠もつけずに
読みかけの道書を手に客を迎える
私と心を同じくし
道を楽しみ 貧をいとわぬ者よ
きっぱりと 上等の酒はやめにして
帰ろうではないか 洛陽の白社に
⊂ものがたり⊃ 三十歳になっている王維は汶陽の人に結婚を申し込んだかも知れませんが、汶陽の人も年長であることや自分の過去の生活のひけ目もあって、あいまいな回答しか与えません。いろいろな経緯はあったようですが、王維はともかくも汶陽の人を説き伏せて結婚にこぎつけたようです。王維の結婚や妻についてはほとんど知られておらず、最初の妻の死後、二度と妻を娶らなかったことだけが伝えられています。
玄宗は開元十七年(729)に自分の誕生日の八月五日を千秋節と名づけて興慶宮で盛大な祝宴を催しました。王維はこの祝宴に際して応制の詩(天子の御製に奉和する詩)を作っていますので、このころ中央の官に復帰していたらしことが知られます。王維はそのころ襄陽(じょうよう)の詩人孟浩然(もうこうねん)と都で知り合い交際をしています。しかし王維は、ほどなく官を辞して輞川(もうせん)の家で田園生活に入ったようです。輞川の家は宋之問(則天武后時代の宮廷詩人)の古い別荘を買い取ったもので、王維はその家に蒲州の母も呼び寄せ家族と共に暮らしはじめました。
詩は友人の李揖(りゆう)が、輞川の家を訪ねてきたときの模様で、「洛陽社」というのは、むかし董京(とうけい)という隠者が洛陽東郊の白社(はくしゃ)というところに住んでいて、逍遥吟詠の隠遁生活を送った故事を踏まえるものです。
王維ー42
輞川閑居 輞川閑居
一従帰白社 一たび白社(はくしゃ)に帰りて従(よ)り
不復到青門 復(ま)た青門(せいもん)に到らず
時倚簷前樹 時に倚(よ)る 簷前(えんぜん)の樹(じゅ)
遠看原上村 遠く看(み)る 原上(げんじょう)の村
青菰臨水映 青菰(せいこ)は水に臨んで映り
白鳥向山翻 白鳥は山に向かって翻(ひるがえ)る
寂寞於陵子 寂寞(せきばく)たり 於陵子(おりょうし)
桔槹方潅園 桔槹(けっこう) 方(まさ)に園に潅(そそ)ぐ
⊂訳⊃
ひとたび洛陽の白社に帰れば
もはや 都の門に行くこともない
時には 軒先の樹に寄りかかり
遥かに遠く野原の村を眺めやる
真菰は 水に影をうつし
白鳥は 山に向かって飛んでゆく
ひっそりと隠れて暮らす於陵子のように
撥ねつるべで 田圃に水をやっている
⊂ものがたり⊃ 「輞川」(もうせん)というのは地名で、川の名ではありません。藍田(陜西省藍田県)の南に輞谷という谷があり、その谷を北へ流れる川を輞水といい、川沿いに広がる土地を輞川と言うのです。王維は輞川の家に、まだ輞川荘という名前はつけておらず、「洛陽の白社」になぞらえています。
詩中の「於陵子」は斉の人で、陳仲子(ちんちゅうし)という人物です。兄の陳載(ちんさい)が斉の宰相になって贅沢な暮らしをしているのを不義とし、楚の国へ行って於陵というところに住み、隠者の生活を送りました。その「於陵子」のように田園に自活して、自由な生活をおくっていると王維は詠っています。
寒食上作 寒食 上の作
広武城辺逢暮春 広武(こうぶ)の城辺 暮春(ぼしゅん)に逢い
汶陽帰客涙巾沾 汶陽の帰客 涙巾(きん)に沾(うるお)う
落花寂寂啼山鳥 落花寂寂(せきせき)たり 山に啼ける鳥
楊柳青青渡水人 楊柳青青(せいせい)たり 水を渡るの人
⊂訳⊃
広武古城のあたり 暮れゆく春のころ
汶陽の人と逢い 涙で巾(きれ)は濡れ果てる
花は寂しく散り 山には啼く鳥の声
柳は青々と茂り 川には渡る人の影
⊂ものがたり⊃ 王維は長途の旅をして蜀からもどってきますが、都へ着くとすぐに洛陽方面の地方官に出されたらしく、二年ほど洛陽付近の任地を転々とします。そんななか重要な詩を書きます。
退屈な日々を過ごしていた王維は、ある寒食節の日、それは開元十六年(728)の清明節(陽暦四月はじめ)の前と思われますが、水のほとりで「汶陽の人」と再会しました。「広武」は水に近い山の名で、その麓に広武城(河南省鄭州市の北)がありました。広武城辺の「暮春」(晩春)がいかに素晴らしいものであろうとも、晩春の景に出会うことが「涙巾に沾う」ほどの重要事とは思われません。逢ったのは「汶陽の人」でしょう。
「帰客」とは地方から都にもどる旅人をいい、汶陽の人は王維が洛陽の近くで勤務しているのを知り、会いに来たものと思われます。転結句は整然とした対句でまとめられており、上(しじょう)の渡津(としん)の風景を詠っているように思われますが、「水を渡るの人」は、その日の旅宿にもどる「汶陽の人」でなければなりません。そのように考えてこそ、この詩の痛切な感じは理解できるものと思います。
王維ー40
帰嵩山作 嵩山に帰るの作
清川帯長薄 清川(せいせん)は長薄(ちょうばく)を帯び
車馬去閑閑 車馬(しゃば) 去って閑閑(かんかん)たり
流水如有意 流水 意有るが如く
暮禽相与還 暮禽 相与(あいとも)に還る
荒城臨古渡 荒城 古渡(こと)に臨み
落日満秋山 落日 秋山(しゅうざん)に満つ
迢遞嵩高下 迢遞(ちょうてい)たり 嵩高(すうこう)の下
帰来且閉閞 帰来(きらい)して 且つ閞(かん)を閉ず
⊂訳⊃
清らかな川の岸辺に 草むらが茂り
馬車は去って あたりは静かになった
流れる水は 語りかけるように流れ
日暮れの空を 鳥は連れだって帰ってゆく
荒れた城のほとりに 古い渡しがあり
落日の光は 秋の山々に満ちている
はるばると帰る 嵩山の麓の家
帰り着くや ぴたりと門扉を閉ざす
⊂ものがたり⊃ 汶陽の人は王維の勤め先の近くに住み、ふたりは再び逢う瀬を重ねるようになったようです。そのころ王維は嵩山(洛陽の東南54㌔㍍)の麓に住んでいました。詩は嵩山の麓の家に帰りつくと、門扉をぴたりと閉ざした句で終わっていますが、何処で何をし、どこから帰ってきたのか、明示されていません。
季節は秋の夕暮れで、はじめの二句は、すすきの茂る河岸から「車馬」(馬車のこと)が去って行って、あたりは静かになったと詠い出されています。馬車に乗って去っていったのは汶陽の人に違いありません。その日の逢う瀬のあと、王維は汶陽の人を見送って河岸に立っているのです。結句は「帰来して 且つ閞を閉ず」と何かを断ち切るような、決意をみずからに言い聞かせるような、断固とした気息が感ぜられますが、汶陽の人との関係で何かを決意しようとしているようです。
王維ー41
過李揖宅 李揖が宅を過(と)う
閑門秋草色 閑門(かんもん)に秋草の色
終日無車馬 終日 車馬(しゃば)無し
客来深巷中 客は来る 深巷(しんこう)の中(うち)
犬吠寒林下 犬は吠ゆ 寒林(かんりん)の下(もと)
散髪時未簪 髪を散ぜしも時に未だ簪(かんざし)せず
道書行尚把 道書(どうしょ) 行々(ゆくゆく)尚お把(と)る
与我同心人 我と心を同じくする人
楽道安貧者 道を楽しみ 貧を安んずる者
一罷宜城酌 一たび宜城(ぎじょう)の酌を罷(や)め
還帰洛陽社 還(ま)た帰らん 洛陽の社(しゃ)に
⊂訳⊃
人けのない門に 秋の草が色づき
ひがな一日 馬車の訪れもない
辺鄙なところに客が来て
秋枯れの林の側から犬が吠える
髪は結わず 冠もつけずに
読みかけの道書を手に客を迎える
私と心を同じくし
道を楽しみ 貧をいとわぬ者よ
きっぱりと 上等の酒はやめにして
帰ろうではないか 洛陽の白社に
⊂ものがたり⊃ 三十歳になっている王維は汶陽の人に結婚を申し込んだかも知れませんが、汶陽の人も年長であることや自分の過去の生活のひけ目もあって、あいまいな回答しか与えません。いろいろな経緯はあったようですが、王維はともかくも汶陽の人を説き伏せて結婚にこぎつけたようです。王維の結婚や妻についてはほとんど知られておらず、最初の妻の死後、二度と妻を娶らなかったことだけが伝えられています。
玄宗は開元十七年(729)に自分の誕生日の八月五日を千秋節と名づけて興慶宮で盛大な祝宴を催しました。王維はこの祝宴に際して応制の詩(天子の御製に奉和する詩)を作っていますので、このころ中央の官に復帰していたらしことが知られます。王維はそのころ襄陽(じょうよう)の詩人孟浩然(もうこうねん)と都で知り合い交際をしています。しかし王維は、ほどなく官を辞して輞川(もうせん)の家で田園生活に入ったようです。輞川の家は宋之問(則天武后時代の宮廷詩人)の古い別荘を買い取ったもので、王維はその家に蒲州の母も呼び寄せ家族と共に暮らしはじめました。
詩は友人の李揖(りゆう)が、輞川の家を訪ねてきたときの模様で、「洛陽社」というのは、むかし董京(とうけい)という隠者が洛陽東郊の白社(はくしゃ)というところに住んでいて、逍遥吟詠の隠遁生活を送った故事を踏まえるものです。
王維ー42
輞川閑居 輞川閑居
一従帰白社 一たび白社(はくしゃ)に帰りて従(よ)り
不復到青門 復(ま)た青門(せいもん)に到らず
時倚簷前樹 時に倚(よ)る 簷前(えんぜん)の樹(じゅ)
遠看原上村 遠く看(み)る 原上(げんじょう)の村
青菰臨水映 青菰(せいこ)は水に臨んで映り
白鳥向山翻 白鳥は山に向かって翻(ひるがえ)る
寂寞於陵子 寂寞(せきばく)たり 於陵子(おりょうし)
桔槹方潅園 桔槹(けっこう) 方(まさ)に園に潅(そそ)ぐ
⊂訳⊃
ひとたび洛陽の白社に帰れば
もはや 都の門に行くこともない
時には 軒先の樹に寄りかかり
遥かに遠く野原の村を眺めやる
真菰は 水に影をうつし
白鳥は 山に向かって飛んでゆく
ひっそりと隠れて暮らす於陵子のように
撥ねつるべで 田圃に水をやっている
⊂ものがたり⊃ 「輞川」(もうせん)というのは地名で、川の名ではありません。藍田(陜西省藍田県)の南に輞谷という谷があり、その谷を北へ流れる川を輞水といい、川沿いに広がる土地を輞川と言うのです。王維は輞川の家に、まだ輞川荘という名前はつけておらず、「洛陽の白社」になぞらえています。
詩中の「於陵子」は斉の人で、陳仲子(ちんちゅうし)という人物です。兄の陳載(ちんさい)が斉の宰相になって贅沢な暮らしをしているのを不義とし、楚の国へ行って於陵というところに住み、隠者の生活を送りました。その「於陵子」のように田園に自活して、自由な生活をおくっていると王維は詠っています。
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