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tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 李賀41ー46

2011年04月10日 | Weblog
 李賀ー41
    高軒過                高軒過

  華裾織翠青如蔥   華裾(かきょ)   翠(すい)を織り  青きこと蔥(そう)の如し
  金環圧轡揺玲瓏   金環(きんかん) 轡(ひ)を圧して  揺らいで玲瓏(れいろう)
  馬蹄隠耳声隆隆   馬蹄  耳に隠(いん)として声(こえ)隆隆たり
  入門下馬気如虹   門に入りて馬より下(くだ)れば  気(き)虹の如し
  云是東京才子     云う是(こ)れ  東京(とうけい)の才子
  文章鉅公        文章の鉅公(きょこう)たり
  二十八宿羅心胸   二十八宿(しゅう) 心胸(しんきょう)に羅(つら)なり
  元精耿耿貫当中   元精(げんせい)  耿耿(こうこう)  貫いて中(ちゅう)に当たる
  殿前作賦声摩空   殿前(でんぜん)  賦(ふ)を作り  声  空(くう)を摩(ま)す
  筆補造化天無功   筆は造化(ぞうか)を補って  天に功(こう)無し
  龐眉書客感秋蓬   龐眉(ほうび)の書客  秋蓬(しゅうほう)に感ず
  誰知死草生華風   誰か知らん  死草(しそう)の華風(かふう)に生ずるを
  我今垂翅付冥鴻   我(われ)  今  翅(つばさ)を垂れて冥鴻(めいこう)に付く
  他日不羞蛇作龍   他日  羞じず  蛇(だ)  龍と作(な)らんことを

  ⊂訳⊃
          華やかな翠の裳裾  青々として草木のようだ
          手綱さばきで  銜(くつわ)の金環は揺れてきらめく
          馬の蹄の音は  耳を圧して鳴りわたり
          門を入り馬を降りれば  気は虹のように湧き起こる
          おいでいただいたのは  都の才子
          文章の大家である
          天上二十八星宿が  胸につらなり
          天の精気は輝いて  中心をつらぬく
          天子の殿前で賦を作り  声価は天にとどき
          筆は造化の妙を補って  天然の力をしのぐほどだ
          濃い眉の書生は  秋の蓬のように頼りないが
          誰が知ろう      枯れた草にも華やいだ風が吹くと
          翼を垂れた鳥も  天空をとぶ鴻(おおとり)についてゆく
          やがては蛇が龍となり  恥ずかしくない仲間となるように


 ⊂ものがたり⊃ 李賀が洛陽に出てきたとき、韓愈と皇甫は洛陽にいました。二人は李賀が再度上洛してきたと聞いて、馬を連ねて訪ねてきました。李賀はわざわざ訪ねてきてくれた先輩の好意に感激して、即座に一首を書き上げます。
 詩題の「高軒」(こうけん)は軒の高い車のことで、上等の馬車を意味します。韓愈と皇甫は騎馬できたと思われますので、ここは敬意を込めて、高貴の方の訪問を受けたという言い方をしたのです。
 李賀は二人が到着するようすを華やかに描き、随分嬉しそうです。「云う是れ 東京の才子 文章の鉅公たり」と二人を最高の褒め言葉で持ち上げています。
  後半八句のうち、はじめの四句で李賀は韓愈と皇甫の詩文の才能を褒めています。あとの四句では、自分のことを「龐眉の書客 秋蓬に感ず」と言って謙遜し、二人の知遇を得て、自分も文学の世界で名を成そうと誓います。「龐眉」は濃い眉のことで、李賀は眉が太かったといいます。
 皇甫はこの年(元和三年)、牛僧孺や李宗閔らと制挙の賢良方正能直言極諌科を受けて及第しましたが、三人は制挙の論策で時の宰相李吉甫の失政を厳しく非難したために、制挙の及第者としては厚く遇されませんでした。皇甫は陸渾の県尉という地方官に就くことになり、洛水の上流にある陸渾に赴任する途中でした。皇甫と李賀は、十月十五日の朝、別れの挨拶を交わし、李賀は西へ都への路を、皇甫は洛水に沿って西南へと別れてゆきました。

 李賀ー43
   始為奉礼憶昌谷山居   始めて奉礼と為り 昌谷の山居を憶う

  捜断馬蹄痕     捜断(そうだん)す  馬蹄(ばてい)の痕(あと)
  衙回自閉門     衙(が)より回(かえ)って自ら門を閉ず
  長鎗江米熟     長鎗(ちょうそう)   江米(こうべい)熟し
  小樹棗花春     小樹(しょうじゅ)   棗花(そうか)春なり
  向壁懸如意     壁(かべ)に向かって  如意(にょい)を懸(か)け
  当簾閲角巾     簾(れん)に当たって  角巾(かくきん)を閲(けみ)す
  犬書曾去洛     犬書(けんしょ)  曾(かつ)て洛(らく)を去り
  鶴病悔遊蓁     鶴病(かくびょう)  蓁(しん)に遊びしを悔(く)ゆ
  土甑封茶葉     土甑(どしょう)   茶葉(ちゃば)を封じ
  山盃鎖竹根     山盃(さんぱい)  竹根(ちくこん)を鎖(とざ)さん
  不知船上月     知らず    船上の月
  誰棹満渓雲     誰(たれ)か 満渓(まんけい)の雲に棹(さおさ)すや

  ⊂訳⊃
          馬蹄の痕を掃き清め
          役所から帰って門を閉める
          鍋にはやがて 江南の米が煮え
          小枝には     棗の花が咲いている
          壁には      如意が掛けてあり
          簾のところで  頭巾の具合を確かめる
          かつて陸機は  犬に託して洛陽から便りを送った
          妻の病を知り  長安に出てきたことを後悔する
          土瓶の茶葉は  はいったままであろうか
          竹の根の盃は  しまったままであろうか
          舟の上には月  谷を覆って拡がる雲
          舟に乗って    雲に棹さす者は誰であろうか


 ⊂ものがたり⊃ 長安に着いた李賀は、恩蔭(おんいん)によって職を求めます。進士に及第していなくても、李賀は遠い末裔とはいえ宗族の一員ですので、しかるべき親戚の推薦があれば先祖の功績によって流入(官吏になること)ができるのです。
 元和四年(804)の春、二十歳の李賀は太常寺の奉礼郎(従九品上)に任ぜられました。太常寺は九寺筆頭の実務官庁で、国家の祭祀を担当する部局です。奉礼郎は『新唐書』百官志によると「君臣の版位を掌り、以って朝会祭祀の礼を奉ずる」となっていますが、実態は公卿が諸陵に参拝するようなときに、儀仗隊伍を率いて儀礼をととのえ、奉仕をするような仕事で、李賀の自尊心を傷つけるものでした。
 李賀は長安に出てきて以来、崇義里に住んでいました。崇義里は皇城のすぐ南にあり、東隣りの宣陽里には万年県(長安の東半分を占める県)の県衙が置かれていましたので、繁華街にも近い高級住宅地です。おそらく親族の家の一室を借りたのでしょう。
 李賀がひとりで自炊生活をしていたことは、掲げた詩から推察できます。部屋の壁にかけてある「如意」は指揮や護身用の短い棒で、「角巾」は自宅で用いる頭巾です。頭巾にちょっと触ってみるという感じで、さりげない仕種がうまく描かれています。
 「犬書 曾て洛を去り」は故事を踏まえています。晋の陸機(りくき)が洛陽に旅寓していたとき、飼っていた黄耳(こうじ)という犬に託して故郷の呉に便りを送りました。黄耳は返事を持って帰ってきましたが、往復に半月しかかからなかったといいます。だから「犬書」は故郷への手紙のことです。
 つぎの「鶴病」は難解ですが、古詩に白鶴がつがいで西北から飛んできたのを見て、妻の病を知るという句があるそうです。このことから故郷の妻の病気のことと解されています。李賀は棗の花咲く五月に妻の病を知り、都に出てきたことを後悔するのです。
 「土甑」「山盃」の二句は自分が昌谷にいないことを示しており、故郷での生活を懐かしむ気持ちをあらわしています。最後の二句は、不安の形象でしょう。昌谷に漂っている暗雲、妻の病気を治す者は誰であろうかと問いかけることによって、自分が病気の妻の傍にいないことを詫びるのです。

 李賀ー45
   後園鑿井歌           後園 井を鑿る歌

  井上轆轤牀上転   井上(せいじょう)の轆轤(ろくろ)  牀上(しょうじょう)に転ず
  水声繁         水声(すいせい)繁(しげ)く
  絃声浅         絃声(げんせい)浅し
  情若何         情(じょう)は若何(いかん)
  荀奉倩         荀奉倩(じゅんほうせん)
  城頭日         城頭(じょうとう)の日
  長向城頭住      長く城頭に住(とど)まれ
  一日作千秋      一日を千秋(せんしゅう)と作(な)さん
  不須流下去      須(もち)いず  流下(りゅうか)し去るを

  ⊂訳⊃
          井戸の井桁で  轆轤がまわる
          水汲む音は高く
          縄の音は細い
          その情(こころ)は  どんなだろうか
          かわいそうな荀奉倩よ
          城の上に太陽
          長く城頭にとどまってくれ
          一日を千年に引きのばし
          どうか  沈むことのないように


 ⊂ものがたり⊃ そのうちに妻の病気が重いとの報せが昌谷から届きます。しかし、勤めのある身の李賀は故郷にもどることができません。そのころ、家の裏庭で井戸を掘る工事が行われていました。井戸の轆轤の音は、妻との楽しい生活を思い出させます。
 「荀奉倩」は晋の荀粲(じゅんさん)のことで、荀粲は妻を愛し、妻が熱を出すと、庭に出て自分の体を冷やし、熱に苦しむ妻を冷やしてやったといいます。必死の看病にもかかわらず荀粲の妻は亡くなり、あとを追うように荀粲も亡くなりました。
 「一日を千秋と作さん」というのは、日本でいう待ち遠しいという意味ではなく、一日がすこしでも長くなってほしいという意味です。一日が長ければ、妻はそれだけ長く生きられるという思いを込めるものでしょう。

 李賀ー46
    題帰夢             帰夢に題す

  長安風雨夜     長安(ちょうあん)  風雨の夜(よ)
  書客夢昌谷     書客(しょかく)   昌谷(しょうこく)を夢む
  怡怡中堂笑     怡怡(いい)たる中堂(ちゅうどう)の笑い
  小弟裁澗菉     小弟(しょうてい)  澗菉(かんろく)を裁(た)つ
  家門厚重意     家門(かもん)  厚重(こうちょう)の意(い)
  望我飽飢腹     我が飢腹(きふく)を飽(あ)かしむるを望む
  労労一寸心     労労たり    一寸(いっすん)の心
  燈花照魚目     燈花(とうか)  魚目(ぎょもく)を照らす

  ⊂訳⊃
          長安の風雨(あらし)の夜
          旅の書生は  昌谷の夢をみる
          なごやかな  母上の笑い声
          小さな弟は  谷間の菉竹(かりやす)を摘んでいる
          家の者は   私を鄭重に迎え
          腹一杯に食べて  ひもじい思いをしないようにという
          苦しみ悩むわが心
          消えかかる灯火  鰥夫の男の目は冴える


 ⊂ものがたり⊃ 李賀の願いもむなしく、妻はほどなく亡くなりました。時期は不明ですが、李賀が長安に出てきてまもないころのことでしょう。そんなある風雨の夜に、李賀は昌谷に帰った夢をみました。「風雨」(ふうう)は嵐のことですが、嵐は和製漢字ですので中国では嵐のことを風雨といいます。
 「書客」は他所から来た書生のことで、李賀自身のことです。「中堂」は堂(主部屋)の中央のことで、一家の主人を意味します。ここでは李賀の留守宅を束ねる母親のことでしょう。この詩のポイントは結びの「魚目」で、魚の目は夜でも閉じず、魚は寝ないと考えられていました。また妻を亡くした夫を「鰥夫」(やもめ)というのは、悲しみのために目を見開いて夜も寝ないからです。
 夢とはいえ、詩中に出てくるのは母と弟だけで、妻の姿はありません。このことから詩は妻を亡くした後の作品と考えられます。                

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