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tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 李賀101ー109

2011年06月09日 | Weblog
 李賀ー101
   猛虎行             猛虎行

  長戈莫舂      長戈(ちょうか)も舂(つ)く莫(な)く
  強弩莫枰      強弩(きょうど)も抨(はじ)く莫し
  乳孫哺子      孫(まご)に乳(にゅう)し  子を哺(はぐく)み
  教得生獰      教え得て生獰(せいどう)なり
  挙頭為城      頭(こうべ)を挙ぐれば城と為(な)り
  掉尾為旌      尾を掉(ふる)えば旌(はた)と為る
  東海黄公      東海の黄公(こうこう)
  愁見夜行      夜行(やこう)を見るを愁(うれ)う
  道逢騶虞      道に騶虞(すうぐ)に逢(あ)えば
  牛哀不平      牛哀(ぎゅうあい)  平らかならず
  何用尺刀      何を用(も)って尺刀(せきとう)
  壁上雷鳴      壁上(へきじょう)に雷鳴(らいめい)する
  泰山之下      泰山(たいざん)の下(ふもと)
  婦人哭声      婦人の哭(な)く声
  官家有程      官家(かんか)  程(てい)有り
  吏不敢聴      吏(り)  敢(あえ)て聴かず

  ⊂訳⊃
          長い鉾でも突かれない
          強い弓でも射抜けない
          乳をやり  食を与えて子を育て
          獰猛な虎に仕立て上げた
          頭をもたげれば城となり
          尾を振れば旗となる
          東海の黄公ほどのお方でも
          こいつの夜歩きは心配だ
          道で騶虞に出逢えば
          公牛哀は  じっとしておれないのだ
          どうしたわけで短刀は
          城壁の上で吼えるのか
          泰山の麓をゆけば
          婦人の泣き声がする
          役所には定まった期限があって
          婦人が泣いて訴えても  聴く耳はない


 ⊂ものがたり⊃ 昌谷とのあいだで、どのような書信のやりとりがあったかは不明ですが、李賀としては潞州まで来て何事もなしえずに帰郷するのも辛い面があったと思います。李賀はほどなく張徹に別れを告げ、和州の十四兄のところに行くことになりました。
 ところがそのころ、河南から淮水にかけての地域は戦乱に見舞われていました。前年の元和九年(814)閏八月に淮西節度使の呉少陽(ごしょうよう)が死ぬと、その子の呉元済(ごげんさい)が留後となって政府に叛旗を翻しました。政府は淮西の使府のある蔡州(河南省汝南県)周辺の節度使に命じて呉元済の討伐を行いますが、兵の動きは鈍く、元和十年になっても征討はつづいていました。そこで李賀は大きく東に迂回して、東魯の地をたどって南下することになります。ただし、泰山の麓まで行ったかについては疑問もあります。
 詩題の「猛虎行」(もうここう)は楽府題で、ここでは藩鎮の専横を虎に喩えるものでしょう。はじめの六句は節度使が私兵を養い、獰猛(どうもう)な虎のような兵を育成したことを詠っています。「東海黄公」は仙術をよくし、蛇を制し虎を御したと言われていますが、その黄公でさえ藩鎮の兵は手に負えないというのです。
 「騶虞」は架空の動物で、外形は虎に似ていますが肉食せず、徳のある人に従ったといいます。「牛哀」は昔、公牛哀(こうぎゅうあい)という男が病気になり、七日間で虎に化したといいます。だから虎はおとなしい騶虞に逢えば、襲わずにはいられないというのです。
 「婦人の哭く声」には故事があり、孔子が泰山の麓を過ぎたとき、婦人が墓の前で泣いていました。孔子が車を止めて子路に訳を尋ねさせると、婦人は舅・夫・子を虎に殺されたと答えます。孔子がそんな危険な土地ならどうして立ち去らないのかと尋ねると、婦人はこの地は政道が厳しくないので、よその土地よりもいいのですと答えたそうです。
 「苛政は虎よりも猛し」ということですが、李賀の詩では「官家 程有り 吏 敢て聴かず」と結ばれています。この句の解釈には諸説がありますが、役人が婦人の訴え(虎退治もしくは納税の延期)を聴き入れようとしないと考えて訳しました。泰山のあたりは、当時は平盧節度使の管下にあって、順州ではありませんでした。

 李賀ー107
    安楽宮             安楽宮

  深井桐烏起     深井(しんせい)   桐烏(とうう)  起き
  尚復牽清水     尚復(しょうふく)   清水(せいすい)を牽(ひ)く
  未盥邵陵瓜     未だ盥(あら)わず 邵陵(しょうりょう)の瓜(うり)
  瓶中弄長翠     瓶中(へいちゅう)  長翠(ちょうすい)を弄(ろう)す
  新成安楽宮     新(あらた)に成る  安楽宮  
  宮如鳳凰翅     宮は鳳凰の翅(はね)の如し
  歌廻蝋板鳴     歌廻(めぐ)りて   蝋板(ろうばん)鳴り
  左官提壷使     左官(さかん)は提壷(ていこ)の使(し)たり
  緑繁悲水曲     緑繁(りょくはん)  水曲(すいきょく)に悲しみ
  茱萸別秋子     茱萸(しゅゆ)    秋子(しゅうし)に別る

  ⊂訳⊃
          深井戸の側で  桐の枝から烏が飛び立ち
          尚服の女官が  清らかな水を汲む
          洗っていない邵平瓜が
          瓶の水のなか  緑の色に揺れている
          新築の安楽宮は
          鳳凰の翼をひろげたようだ
          歌声は巡って  拍板(はくばん)は鳴り
          高位の宦官は  酒壷の配り役だ
          だが今は池の畔で  白蓬は悲しげに生え
          茱萸の実は熟して  枝から落ちる


 ⊂ものがたり⊃ 李賀は金陵に幾日か滞在して都城の旧蹟を歩き、栄華を極めたかつての宮殿のさまを想像するのでした。詩題の「安楽宮」(あんらくきゅう)は鄂州(湖北省武漢市武昌区)の西北にあった呉の宮殿で、のちに建業(呉時代の建康)に移築転用されたものです。
 詩中の「尚復」は尚服の誤記とされており、尚服は宮中で衣服のことをつかさどる女官のことです。宮殿の跡に井戸が残されていたのでしょう。井戸の傍らの桐の木から烏が飛び立ちました。そのことから、女官が井戸水を汲み上げているようすを想像するのです。
 「邵陵の瓜」については説が分かれていますが、秦の東陵侯召平(邵平とも書きます)が、秦の滅亡後、長安の青門外で作っていた瓜は美味なことで有名でした。その瓜を冷やすために女官が井戸水を汲み上げ、甕に注いでいると考えたのでしょう。
 李賀は新装成った宮殿のようすを想像します。宮殿では酒宴が催され、「左官」(高位の宦官)が酒壷を配って歩きます。しかし今は、それも滅び去って、池のほとりに「緑繁」(白蓬)が生え、茱萸(「ぐみ」とは違うものです)の実が赤く熟れて落ちるのです。なお、八句目の「官」には忄扁がついていますが、外字になるので同音の字に変えています。

 李賀ー108
     江南弄            江南弄

  江中緑霧起涼波   江中の緑霧(りょくむ)   涼波(りょうは)に起こり
  天上畳巘紅嵯峨   天上の畳巘(じょうけん)  紅(こう)嵯峨(さが)たり
  水風浦雲生老竹   水風(すいふう)   浦雲(ほうん)  老竹(ろうちく)に生じ
  渚瞑蒲帆如一幅   渚は瞑(く)れて   蒲帆(ほはん)一幅の如し
  鱸魚千頭酒百斛   鱸魚(ろぎょ)千頭  酒百斛(こく)
  酒中倒臥南山緑   酒中に倒臥(とうが)すれば   南山緑(みどり)なり
  呉喩越吟未終曲   呉喩(ごゆ)  越吟(えつぎん)  未だ曲(きょく)終えざるに
  江上団団貼寒玉   江上(こうじょう)  団団として寒玉(かんぎょく)を貼(じょう)す

  ⊂訳⊃
          涼しい川波  緑の霧が立ちこめて
          雲の峰は   夕焼けの紅色に照り映える
          水上の風   入江の雲は 老いた竹から生じ
          渚は暮れて  蒲の大帆も一幅の帆のようだ
          鱸魚は千匹  酒は百斛
          酔い痴れて  倒れ込んだら南の山は緑色
          呉歌  越吟  まだ唄い終わらないうちに
          江上に丸い玉  寒々と空に貼りつく


 ⊂ものがたり⊃ 李賀は金陵に滞在したあと、潤州(江蘇省鎮江市)に向かって長江を下りました。詩題「江南弄」(こうなんろう)の弄は曲のことで、長江を下るときの舟遊びの楽しみを詠うものです。
 李賀は呉越をめざして長江を下っており、はじめの四句は船上からの眺めです。とある津湊(しんそう)に着いて、渚は日暮れの色になってきました。「蒲帆一幅の如し」というのは、蒲の葉で編んだ帆が畳まれて、一幅ほどの大きさになったというのでしょう。一幅は小舟の帆ひとつの大きさを言うようです。
 李賀ははじめての江南の旅に浮かれ気味のようです。「鱸魚」は江南の珍味として有名であり、舟には酒もたくさん積んであります。たっぷり飲んで酔いつぶれると、李賀の目に緑の山が飛び込んできました。「呉喩越吟」は四語の成句で、呉越の歌のことです。それを唄い終わらないうちに、江上の空に「団団寒玉」(満月)が浮かんできました。なお、七句目の「喩」は口扁を除き、旁に「欠」をくわえた字です。外字になりますので、同音の字に変えました。

 李賀ー109
   追和柳            柳に追和す

  汀洲白蘋草     汀洲(ていしゅう)  白蘋草(はくひんそう)
  柳乗馬帰     柳(りゅううん)  馬に乗りて帰る
  江頭樝樹香     江頭(こうとう)   樝樹(さじゅ)香(かんば)しく
  岸上胡蝶飛     岸上(がんじょう)  胡蝶(こちょう)飛ぶ
  酒盃箬葉露     酒盃(しゅはい)   箬葉(じゃくよう)の露
  玉軫蜀桐虚     玉軫(ぎょくしん)  蜀桐(しょくどう)の虚(きょ)
  朱楼通水陌     朱楼(しゅろう)は水陌(すいはく)に通じ
  沙暖一双魚     沙(すな)暖かなり  一双(いっそう)の魚(うお)

  ⊂訳⊃
          汀の洲に  白蘋草
          柳が   馬に乗って帰ってきた
          川の辺に  樝(やまなし)の木がかおり
          岸の上を  蝶が飛んでいる
          杯の酒は  箬葉の露
          玉の琴柱  蜀桐の琴は鳴りわたる
          朱塗りの高楼は   大きな水路に通じ
          岸辺の砂は暖かく つがいの魚が泳いでいる


 ⊂ものがたり⊃ 李賀は潤州から運河を伝って南への船旅をつづけ、嘉興(浙江省嘉興市)まで行って、そこから西へ湖州(浙江省湖州市)を訪れました。湖州の州治は沈亜之(ちんあし)の故郷呉興であり、そこで友人と会うためです。
 詩題の「柳」は南朝梁の呉興太守で、その名を借りて「呉興の才子」である沈亜之を詠うものです。沈亜之はこの年のはじめに進士に及第し、原節度使李彙(りい)の辟召を受けて使府の掌書記になっていました。ところがほどなく李彙が病で亡くなったので、故郷に帰ってきたところでした。「柳 馬に乗りて帰る」は、そのことを言っています。
 沈亜之は李賀の訪問を非常に喜び、呉興の銘酒を振る舞って歓待しました。「箬葉の露」は呉興の西に箬渓という谷があり、竹林と水で有名でした。箬渓の水で醸した酒は美味で知られていましたので、その酒を振る舞われたのです。その対句として「蜀桐の虚」があると考えられ、蜀の桐で作った琴の胴はよく響くという意味です。
 結びの二句「朱楼は水陌に通じ」は沈亜之の将来を祝福する言葉で、「沙暖かなり 一双の魚」は、このとき沈亜之は結婚していて、夫婦の幸せを祝福するものです。

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