8月29日(旧暦7月20日 七赤 友引 辛亥 三隣亡)
おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。
「涼しくなりましたね」という挨拶をしたくてもできないような陽気が続く今日この頃ですが、夜に関して言えばだいぶ過ごしやすくなっています。
七十二侯では昨日から「天地始めて寒し」となりましたが、それも今年は当てはまらないようです。
昨日は大曲の花火が行われ、天候にも恵まれて多数の観客に多くの感動を与えたかと思います。
私は混雑するところが苦手なため、残念ながらそうした気持ちを共有することはできませんでしたが、100年という記念の年の花火は、積み重ねてきた歴史と未来への橋渡しといったものがあったかと勝手に想像してしまいます。
運営する側や商店、地域住民の方がこの一大イベントを毎年続けていることは、大変な苦労があるかと思います。
しかし、終わった後の達成感も計り知れないものがあると思います。
来年もまた夏の終わりの県南を盛り上げる意味で、頑張っていただきたいと思います。
今日は、「秋田県の日」となっています。
明治4年(1871年)7月14日に、それまでの藩が廃止され、政府の下に府県をおくことで地方を治める体制へと変わりました。
ほぼ現在の秋田県に相当する地を収めていた久保田藩は、「秋田県」へと名を代えました。
この日を太陽暦(現行暦)に置き換えると、ちょうど今日の日付となるため、1965年(昭和40年)に秋田県が記念日として制定しました。
「秋田(あきた)」という名前の由来を検索すると、日本書紀に「齶田(あぎた)」「飽田(あきた)」の記述があり、続日本書紀では「秋田村」という地名も存在したようです。
男鹿半島の地形があごのように突き出している事から、「齶=顎」が転じた説や、アイヌ語由来説、耕作に向かない「悪田」が訛った説もあり、はっきりとはしていませんが、いずれにしても「あきた・あぎた」が昔からこの地をさしていたとされています。
地名由来辞典より
飛鳥時代の日本で、律令制という統治制度が成立し、続く奈良時代初期の712年には「出羽国」という、現在の山形県・秋田県(鹿角地区を除く)に当たる行政区域がおかれるようになりました。
当時の東北地方には「蝦夷(えみし・えぞ)」という中央政府に帰属しない人々がおり、戦いを続ける中で徐々に平定されていきました。
各地に「柵」と呼ばれる砦や城が置かれたのもこの前後の時期で、733年には出羽柵が移設される形で、秋田城が現在の秋田市に設置されました。
続く平安時代の9世紀末までかかり、ようやく東北地方が治まり、開拓が進められていきました。
その後、鎌倉時代と室町時代を経て、出羽地方では土着した豪族がそのまま戦国大名となるケースが多くなりました。
戦国時代、秋田県は県北・県央地方を秋田(安東)氏、角館地方を戸沢氏、県南地方を小野寺氏という大名が治めていました。
秋田氏の居城は出羽湊という地にあり、現在の秋田市土崎に当たります。
津軽地方(青森県)には津軽氏、南部地方(青森県の一部と岩手県)には南部氏、最上地方(山形県)には最上氏、会津地方には伊達氏など名だたる大名がおり、東北地方も戦国の世は割拠の時代でありました。
武将の家紋 割拠地図
豊臣秀吉の小田原攻めから引き続く形で、1590年に奥州仕置という東北地方の領土確定が行われ、長く続いた争いは収まりました。
1600年の関が原の戦いにおいて、秋田氏と戸沢氏は東軍に味方し、小野寺氏は西軍に味方しました。
東軍の勝利に終わった後、戸沢氏は功績によって新庄藩(山形県)の藩主となり、秋田氏は戦中の不手際を責められ、西軍に付いた佐竹氏と入れ替わる形で、常陸国(現茨城県)へと移されてしまいました。
西軍に付いた小野寺氏は領地没収となり、大名家としては滅んでしまいました。
江戸の世になると、秋田県は久保田藩、亀田藩のほか、岩崎・矢島・本荘といった小藩が存在することとなりました。
佐竹氏が治めた久保田藩は、居城を現在の秋田市千秋に移しました。
常陸から膨大な家臣を抱えて入国したため、慢性的な財政難はあったものの、文教活動に熱心に取り組み、幕末にいたりました。
戊辰戦争では、新政府に対抗する列藩同盟に加わりましたが、平田篤胤の思想の影響からか新政府側に寝返り、周囲の藩からの攻撃を受けることとなりました。
戊辰戦争が終結し、徳川将軍家は他藩と同列の地位となり、幕府は倒れました。
新政府は版籍奉還によって、諸大名の領地と領民を天皇に帰属することとしましたが、この時点ではまだ藩と藩主(知藩事)が残っていました。
この後に廃藩置県が行われ、それまでの幕府・藩による地方分権体制から、天皇中心の政府による中央集権体制へと大きく変換することとなりました。
歴史においては、他地域に比べ東北地方が表に出ることは少ないですが、秋田県など地域を限定して歴史をたどると、実にさまざまな経緯をたどって今日に至っています。
そうした歴史の積み重ねが今を作り、また未来を作っていくことと思います。
今は日本人という一括りになっていますが、県民性についての記事でもご紹介したとおり、各県各地方において人々の気質は異なっています。
私たちの住む秋田県をもっとよく知ることで、より好きになることができればよいことかと思います。
横手市リフォーム補助金が再度受付を開始しました。
補助金やローンなどのご相談も承ります。
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有限会社 千葉建築
〒019-0701 秋田県横手市増田町増田字伊勢堂南6-4
電話 0182-45-2325 FAX 0182-45-2304
携帯 080-1837-5342
mail kchiba@poem.ocn.ne.jp
おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。
「涼しくなりましたね」という挨拶をしたくてもできないような陽気が続く今日この頃ですが、夜に関して言えばだいぶ過ごしやすくなっています。
七十二侯では昨日から「天地始めて寒し」となりましたが、それも今年は当てはまらないようです。
昨日は大曲の花火が行われ、天候にも恵まれて多数の観客に多くの感動を与えたかと思います。
私は混雑するところが苦手なため、残念ながらそうした気持ちを共有することはできませんでしたが、100年という記念の年の花火は、積み重ねてきた歴史と未来への橋渡しといったものがあったかと勝手に想像してしまいます。
運営する側や商店、地域住民の方がこの一大イベントを毎年続けていることは、大変な苦労があるかと思います。
しかし、終わった後の達成感も計り知れないものがあると思います。
来年もまた夏の終わりの県南を盛り上げる意味で、頑張っていただきたいと思います。
今日は、「秋田県の日」となっています。
明治4年(1871年)7月14日に、それまでの藩が廃止され、政府の下に府県をおくことで地方を治める体制へと変わりました。
ほぼ現在の秋田県に相当する地を収めていた久保田藩は、「秋田県」へと名を代えました。
この日を太陽暦(現行暦)に置き換えると、ちょうど今日の日付となるため、1965年(昭和40年)に秋田県が記念日として制定しました。
「秋田(あきた)」という名前の由来を検索すると、日本書紀に「齶田(あぎた)」「飽田(あきた)」の記述があり、続日本書紀では「秋田村」という地名も存在したようです。
男鹿半島の地形があごのように突き出している事から、「齶=顎」が転じた説や、アイヌ語由来説、耕作に向かない「悪田」が訛った説もあり、はっきりとはしていませんが、いずれにしても「あきた・あぎた」が昔からこの地をさしていたとされています。
地名由来辞典より
飛鳥時代の日本で、律令制という統治制度が成立し、続く奈良時代初期の712年には「出羽国」という、現在の山形県・秋田県(鹿角地区を除く)に当たる行政区域がおかれるようになりました。
当時の東北地方には「蝦夷(えみし・えぞ)」という中央政府に帰属しない人々がおり、戦いを続ける中で徐々に平定されていきました。
各地に「柵」と呼ばれる砦や城が置かれたのもこの前後の時期で、733年には出羽柵が移設される形で、秋田城が現在の秋田市に設置されました。
続く平安時代の9世紀末までかかり、ようやく東北地方が治まり、開拓が進められていきました。
その後、鎌倉時代と室町時代を経て、出羽地方では土着した豪族がそのまま戦国大名となるケースが多くなりました。
戦国時代、秋田県は県北・県央地方を秋田(安東)氏、角館地方を戸沢氏、県南地方を小野寺氏という大名が治めていました。
秋田氏の居城は出羽湊という地にあり、現在の秋田市土崎に当たります。
津軽地方(青森県)には津軽氏、南部地方(青森県の一部と岩手県)には南部氏、最上地方(山形県)には最上氏、会津地方には伊達氏など名だたる大名がおり、東北地方も戦国の世は割拠の時代でありました。
武将の家紋 割拠地図
豊臣秀吉の小田原攻めから引き続く形で、1590年に奥州仕置という東北地方の領土確定が行われ、長く続いた争いは収まりました。
1600年の関が原の戦いにおいて、秋田氏と戸沢氏は東軍に味方し、小野寺氏は西軍に味方しました。
東軍の勝利に終わった後、戸沢氏は功績によって新庄藩(山形県)の藩主となり、秋田氏は戦中の不手際を責められ、西軍に付いた佐竹氏と入れ替わる形で、常陸国(現茨城県)へと移されてしまいました。
西軍に付いた小野寺氏は領地没収となり、大名家としては滅んでしまいました。
江戸の世になると、秋田県は久保田藩、亀田藩のほか、岩崎・矢島・本荘といった小藩が存在することとなりました。
佐竹氏が治めた久保田藩は、居城を現在の秋田市千秋に移しました。
常陸から膨大な家臣を抱えて入国したため、慢性的な財政難はあったものの、文教活動に熱心に取り組み、幕末にいたりました。
戊辰戦争では、新政府に対抗する列藩同盟に加わりましたが、平田篤胤の思想の影響からか新政府側に寝返り、周囲の藩からの攻撃を受けることとなりました。
戊辰戦争が終結し、徳川将軍家は他藩と同列の地位となり、幕府は倒れました。
新政府は版籍奉還によって、諸大名の領地と領民を天皇に帰属することとしましたが、この時点ではまだ藩と藩主(知藩事)が残っていました。
この後に廃藩置県が行われ、それまでの幕府・藩による地方分権体制から、天皇中心の政府による中央集権体制へと大きく変換することとなりました。
歴史においては、他地域に比べ東北地方が表に出ることは少ないですが、秋田県など地域を限定して歴史をたどると、実にさまざまな経緯をたどって今日に至っています。
そうした歴史の積み重ねが今を作り、また未来を作っていくことと思います。
今は日本人という一括りになっていますが、県民性についての記事でもご紹介したとおり、各県各地方において人々の気質は異なっています。
私たちの住む秋田県をもっとよく知ることで、より好きになることができればよいことかと思います。
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