最初に申し上げるならば、推奨するものではないのだよ、と。
こんな考え方するのは、精神的によくないのだよ、と。
三日前に書いた『昔々、あるところに』の後に書いた問い掛けの意味。結論は、『犯人捜し』は止めようよ。
誰が悪かったんだ?誰も悪くないし、みんな悪い。
四人の子どもたちのうち、誰か一人でも、自分のことを想ってくれている者がいることを気付いていれば、こんなことにはならなかった…かも。
大きな木は見ていたのに、やり過ごしてた。イタズラ好きの妖精を止める言葉ぐらいかけられた…かも。
四人の子どもたちの両親たちは、町以外の他の場所を何故捜さなかったのか。子どもたちがどこで何をしているのかを把握していなかった?夜の間に見つけていればこんなことにはならなかった…かも。
イタズラ好きの妖精は、自分の魔法に過大評価をしていたのかもしれない。こうなることが分からないにしても、魔法をかけなければそもそもこんなことにはならなかった…かも。
誰が悪かったんだ?誰も悪くないし、みんな悪い。
とまぁ、こんな感じです。探せば他にもあるかもね。でも、こんなケースでの『犯人捜し』は、心に光りをもたらしてはくれないです。
真実を知る者はいませんし、いたとしても誰かに100%真実を伝えられる、なんてことはできませんしね。人は当事者の場合、主観で話をするみたいで。第三者の立場でも、話を聞いたら、客観的な思考に主観が混じってきます。どんなに冷静であっても、純度100の客観的思考は有り得ない。
今回の『昔々、あるところに』は誰が悪いのかを捜してしまいやすいかもしれません。何も思わなかった方もいるかもしれませんが。
まぁでもね、こんな物語読まんでも、日常にはゴロゴロとあることですわ。『あいつが悪い』とか『あいつのせいで』とか。
そんな時は、『そんな可能性もあるかもね』なんて思ってほしいような、どうでもいいような。
複雑な問題ほど、真実を突き詰めていく結論は、霞んで見えにくくなるものです。
あぁ、感想さえも暗くて重い(笑)