みちのくの放浪子

九州人の東北紀行

二本松提灯まつり

2017年10月05日 | 俳句日記

私が、福島県二本松市の霞ヶ城を訪ねた
のは震災の翌年の春である。
日本桜名所百選を誇る公園だけに、むせ
かえるように咲き誇る桜に圧倒された。

が、風評被害のさなかである。
人影を見ないままに城内を徘徊した。
城壁の一部は崩れ落ち、大手門口からは
進入禁止となっていた。

大手門に向かう通路の右手に「二本松少
年隊」の顕彰碑があった。
時が時だけに、眺めているうちに涙が出
て来た。

刀をかざす少年の陰に座る夫人の像は、
藩の危急存亡の戦いに出陣する我が子の
陣羽織を縫う母の姿である。
17歳から13歳までの少年であった。

慶応四年(1868年)7月27日から28日の
戦いである、決着は一日で着いた。
藩兵のほとんどは、白河の戦いや郡山の
戦いで壊滅していたのである。

城を守るのは十数名の家老と老兵、他藩
の兵カ若干、そして少年隊であった。
総勢63名、それぞれの部署に着いた。
大手門口に22名の隊士がいた。

顕彰像は彼らの姿である。
彼らは戦死10名、戦傷12名で全滅した。
他の隊でも、一人二人と死んでいった。
戦死は16名に及んだ。

攻め手の主力である土佐藩の軍監板垣退
助は、彼らの奮闘に逆感状を送った。
相対した官軍の兵士の中には、泣きなが
少年隊を討ったという話もある。

生き残った少年達は、その後、軍人とな
り、議員となり、郷土史家となり、学校
長となり、郷土の発展に尽くした。
福島県の医師会長もいらした。

戦史を紐解くと、会津もここも大人が永
い平和と領内の安寧秩序に浸り過ぎてい
て、戦を忘れていたことが良く判る。
外の世界を見ていなかった。

三春藩は外を見ていた。
薩長土肥も外を見ていた。
確かに、理念に殉ずるのが義であるならば、双方に義は存在した。

が、内向きと外向きの違いが、この少年
達の悲劇を生んだ事に大人(有権者)は、
気付かなければならない。
内向きの国防論などあり得ないのだ。

〈みち奥の 秋もさやかに 霞ヶ城〉放浪子
季語・秋

10月5日〔木〕晴れのち曇り
最初は、日本三大提灯祭りの事を書こう
と思っていた。
五年前の情景から書き起こしているうち
に、段々と腹が立って来た。
争いの犠牲者が女子供である事は、歴史
上、火を見るよりも明らかである。
争いは、相手があっての事だ。
ならば、相手を見定めることから始めな
ければなるまい。
それが理性と言うものだ
明らかに日本を敵視している国があると
言うのに、永田町は何をしているのか?
報道は何を知らせているのか?
不可解な事ばかりである。
今年の二本松の提灯祭りが、日本を明る
く照らしてくれますように。