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沖縄戦「慰霊の日」

2024年06月22日 10時52分06秒 | 一言
再び悲劇起こさぬ決意新たに
 沖縄はあす、「慰霊の日」を迎えます。1945年のアジア太平洋戦争末期の沖縄戦で命を失った20万人余の犠牲者らを追悼する日です。沖縄戦最後の激戦地・本島南部の摩文仁(まぶに)の丘の平和祈念公園(糸満市)では「沖縄全戦没者追悼式」が開かれます。

 岸田文雄政権は今、沖縄を、米国の対中国軍事戦略に基づく戦争の最前線に位置付け、自衛隊の増強を急ピッチで進めています。

 今月には、沖縄の陸上自衛隊部隊(第15旅団)がホームページに、沖縄戦を指揮した日本軍第32軍の牛島満司令官の辞世の句を掲載していることが分かり、「旧軍を美化するもの」と怒りの声が上がっています。

 沖縄戦で何が起きたのか、その教訓を広く共有することが今切実に求められています。

■乳幼児を殺害
 那覇市に司令部を置く第15旅団のホームページに掲載された牛島司令官の辞世の句は「秋待たで 枯れ行く島の 青草は 皇国の春に 甦(よみがえ)らなむ」というもの。「敗色が濃厚な沖縄の臣民は、天皇の国のために再び立ち上がってほしい」と解釈されています。

 沖縄戦は、「国体護持」を至上命令とし、本土決戦を遅らせる時間稼ぎのための捨て石作戦でした。

 第32軍の司令部が置かれた首里陥落を前に、牛島司令官は、すでに多数の住民が避難している南部に撤退し「持久戦」で戦争を引き延ばすことを決めました。

 そのため、南部一帯は軍民混在の戦場になりました。米軍の砲弾が吹き荒れる「鉄の暴風」の下、日本兵による壕(ごう)からの住民追い出しや食料の強奪、泣きやまない乳幼児や沖縄の方言を使った者の殺害など数々の悲劇が起こりました。

 沖縄戦を描いた「原典」とされる『沖縄戦記 鉄の暴風』(沖縄タイムス社、50年発行)は、南部の部落で「敗残兵が、子供を泣かすな、敵に知られるぞと怒声を発し、日本刀や、銃剣を突き付けて、…池に、『子供を抛(ほう)り込め』と脅され、親達は、仕方なく、子供達を池に抛り込んだ。はい上がろうとする子供は、頭を押さえつけて溺死させた」という証言を載せています。

■「まるで戦前」
 牛島司令官は6月23日(22日の説もあり)、摩文仁の司令部壕で自決し、日本軍の組織的戦闘は終結しました。しかし、自決に先立ち、「各部隊は各局地における生存者中の上級者之(これ)を指揮し最後迄(まで)敢闘し悠久の大義に生くべし」と徹底抗戦の命令を出したため、その後も戦闘は続き、数多くの戦死者を出しました。

 前出の『鉄の暴風』は今月、文庫本として出版されました。その「まえがき」は「七十九年前の地上戦で焦土と化した沖縄で今、再び戦争の準備が進んでいる。辺野古に(米軍)新基地の建設が進み、琉球弧の島々に自衛隊の拠点が新設され、強化され、攻撃を受けることを想定した避難訓練や疎開の計画まで持ち上がり、まるで戦前の新聞を読んでいるよう」だとし、「沖縄を二度と戦場にしない、という思い」を出版に込めたと述べています。

 沖縄戦の悲劇を再び起こさせないとの決意を新たに、岸田政権の「戦争国家づくり」を阻止するたたかいを大きくしていく時です。


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