ゆとろぎへの道 仲村峯夫 一隅を照らす素晴らしきかな人生 照らさずとも好し また素晴らしきかなこの人生(とき)

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自分探しの旅は 違う景色の見える道

人生は紙一重&謙虚、日馬富士事件から学んだもの

2018-01-12 06:09:06 | 日記
   日馬富士暴行事件と貴乃花親方騒動から学んだもの、人生は紙一重と謙虚さ
 今回の日馬富士暴行事件と貴乃花親方騒動は、表裏一体の問題には違いないが、双方にはには法的ないし、社会的な責任という観点からも全く別次元の問題である。
今回の一連の騒動を普通に考えれば、三つの問題に整理される。
 一つ目が日馬富士の暴行事件である。これは明らかに刑事事件であり、法にのっとり厳格かつ適正に裁かれるべきものであり、同時にその社会的責任においても免責されるべき要素は何も無い。
 二つ目が、貴乃花親方問題である。これは日馬富士の暴行事件に端を発した公益法人日本相撲協会の内部問題(組織・社会)である。
日本相撲協会の理事という職にありながら、その職務を放棄した一組織の理事としての責任問題のペナルティーの是非がヒステリックに社会問題化したものである。
 三つ目が、日本相撲協会がこれら二つの問題に迅速、適正に対処できなかったという公益法人としての社会的な責任問題である。
問題や責任の在り方が全く異なり、本来別次元で議論されるべきこれらの三つの問題が混同され、同一視点で論じられるところにこの問題の異様さが感じられる。
 正直言って、もうこの問題には一言も触れたくないとも思うのだが、一相撲ファンの視点からすればテレビ画面を見るたびに心穏やかではいられなくなる。
同時に、実感として感じられるものもいくつかある。
 各界、各層のいろいろな人たちが、日馬富士を責め立て極悪人のごとくの非難の声を浴びせている。自らは清廉潔白で過ちや穢れとは一切無縁の存在のごとく情け容赦なく責め立ててくる。
生物学的観点からも、この世の中自体が無菌状態では存在すらできない。ましてや、欲得と煩悩の塊でしかない、人間は人間でいる限り、常に間違いを犯す危険性はだれしも持っている。
人間ならだれしも、日常生活の中でいつ被害者になり、そして加害者になるか分からない。いくら偉そうなことを言っても、人間は所詮「紙一重」の差で今現在があるのだろうと思う。
ホントに僅かの差で人間は日常の平穏を持ちこたえているようにしか思えない。
 そして、感じるのは「謙虚さを失った人々」の実感である。今回の貴乃花親方とそのファン?の動向を見ていると、自分の価値観や価値基準への揺るぎない拘りは異様にしか見えない。
謙虚さとは無縁の、自意識過剰や自信過剰は自己中に繋がり、やがては自分が人間であることさえも忘れてしまうのだろうか。弱い人間も強い人間も優しい人間も優しくない人間もその差は紙一重でしかない。
とはいえ、存在としては紙一重だが行為の結果は天と地、天国と地獄の差が出る。これがこの世であり、人生なのだろうと思う。
人間その結果だけを見て、全てを判断してしまう。それもやはり人間の常なのだろうと思う。
 「謙虚」なる言葉は私の人生指標の一つでもある。
人は「今の自分に無いもの」や「成りたいもの、憧れるもの」を自分の指標や目標として掲げる。
人生は「紙一重」「謙虚」さへの思いを改めて感じさせてくれた出来事である。


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