猫的生き方(猫道)への憧れ
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は好きな詩の一つである。
多分彼の生き方への憧れ的共感が私の中で、過去になることはないのだろうと思う。
完璧に記憶しているつもりでいたが、あろうことか「雨ニモマケズ」のフレーズの一部を間違えて覚えていることに気付いたのである。
「イツモシズカニワラッテイル」のワラッテイルがスワッテイルに置き換わっていたのである。
いつのころから記憶がスッ飛んだのかも定かではないが、いろんな意味で少なからずショックであった。
女性装で有名な安富歩東大教授の話である。
彼は50歳代で自分の居場所や生き方を求めた結果が現在の女性装に行きついたようである。
「90年代のバブル崩壊後日本は出世競争や搾取が横行する、生きづらい世の中になった」という。
親が愛情をはき違え、自分の自己実現のために子供を自分の価値観で縛り付け主体性や自主性のない子供が増えているのかもしれない。
マニュアル的な日常の感覚しか身につかず、コミュニケーション能力や他人を思いやる感性にかけ、生来の危機管理能力も身につかない。
自分の居場所も見いだせず、「生きづらさ」の一因になったり、いじめやハラスメントの原因にもなりかねないのだろう。
最近話題になる、大人の「引きこもり」や「子供部屋おじさん」などの現象もその表れなのかもしれない。
安富教授は、近い将来「本当にやさしい人にあこがれる時代」が来るだろうという。
「親の過干渉は子供の感受性を失わせる。馬と接することで身体的なコミュニケーション能力が身につく」ともいう。
更に、彼は「猫みたいに暇で、じ~としていても楽しそうな人がカッコいい」ともいう。
昨今は癒しブームで犬、猫がテレビにも良く登場する。
猫は犬と違い、介助犬のように人の役に立つこともあまりない。最近は猫の天職?ともいうべきネズミ捕りさえも放棄してしまっている。
仕事どころか、あくせく働く人間を横目で見ているだけで一片の同情心も持たない。
自分の都合のいい時だけ人間に寄り添うが、べたべたしない。しかも、一日の三分の二は寝て過ごす。
人間につかず離れず、媚びずひたすらマイペースでわが道を行く。
それでも彼らは一片の罪悪感も抱かない。
それどころか、どうやら猫は人間を対等に見ているようである。
「人生の大事は生きること、何もできないときはひたすら寝て過ごせ」とゲーテも言う。
猫の脳化指数は勤勉実直な犬よりも低いというが、どうやら処世術に関しては犬どころか人間様よりも上手なのかもしれない。
なんか、猫がうらやましく思う。
「やりたければやればいい、好きならやればいい、愉しければやりなさい。
飲みたければ飲めばいい、旨ければ飲みなさい」。
まさに、「吾輩の辞書にストレスなどなし」まことに堂々たる「猫道」である。
これぞ猫の人生ならぬ、猫の生きざまなのである。
「どぶろく」への思い
先日、普段はめったにあり得ない酒だけが目的の買い物に出かけた。
この二年間、病院とは極めて密接な関係を続けざるを得なかったので酒とは縁のない日々が続いていた。
最近ようやく、週に二~三度は缶ビール1本と小さなグラスでの泡盛のお湯割りを二杯程度は飲めるようになった。
「ゆとろぎ会」と称する、古い友人たちとの懇親目的の模合をやっていている
毎年11月には飲み代の残金積み立てから、4~5千円のキックバックが慣例となっている。
年金収入しかない亭主たちから女房達へのせめてもの、ささやかなクリスマスプレゼント(クリスマスケーキ代)のつもりのようである。
女房はこの二年ほどろくすっぽ酒も飲めなかった私を不憫に思ってくれたのだろうか、「好きな濁り酒でも買ったら」との嬉しい提言に素直に甘えることにしたのである。
酒の売り場で「どぶろく」を見つけたときは、飛び上がるほどうれしかった。
昔職場の同僚からもらった熊本名産の馬刺しと、阿蘇の農家の手作りのどぶろくの味を思い出したのある。
どぶろくについては、大昔の子供のころの時代劇映画で牛乳ような白い酒を飲んでいる古武士の姿がなぜか懐かしく脳裏に焼き付いている妙な思いでもある。
どぶろく1本に濁り酒1本、日本酒の生酒1本とグレーンモルトのバランタインウイスキー1本が当日の私の買い物である。
勿論その日にどぶろくを味わった。やはりどぶろくも濁り酒も日本古来の最高の酒である。どぶろくと女房とゆとろぎ会に感謝・乾杯。
コロナ禍の日本社会に見る、両極の人たち
午後10時には自分の部屋に戻り, 寝るまでのひと時を自分の部屋で過ごす。昨晩はテレビも見飽き、9時少し過ぎには部屋に引き上げた。
9時半過ぎに玄関をノックする音が聞こえたので出てみた。
こんな時間に一体誰だろうと思い玄関を開けると、なんと宅配便の配達の人が立っていた。
毎年シークァーサーを送ってくれる知人からの定期便であった。
一瞬、「こんな時間に」とも思ったが、申し訳なさそうに立っている配達の人に丁重にお礼を言って宅配物を受け取った。
以前小耳にはさんだ「苦戦する、宅配便の個人事業主」のことが思い浮かんだのである。
実際に何度か、遅くまで配達を続けている配達員の姿を見たりもしていたので
今回の実体験は他人事ながら、大げさに言えば「世の中、何かおかしいのではないのか」とも思えるような不条理に近い違和感さえ感じた。
昼のテレビでは二人の子供を持つシングルマザーが掛け持ちで働いていた二つのパート先から解雇を言い渡され、実姉の家に身を寄せながら日々の生活にも困窮しているニュースが流れていた。
一方では、首相や国会議員、地方議員の先生方が打ち上げと称する忘年会をあちこちで開催しているというニュースも連日伝わってくる。
政府や医師会が必死に外出自粛や大人数での会食回避を呼び掛けているさなかにである。
数年にも及ぶ不祥事をすべて秘書のせいにして、自分は犠牲者気取りで顔を赤らめることもない御仁もいる。
異なる意見には全く耳を傾けず、質問にもまっとうに答えず関係のない話題を持ちだし国民を愚弄し続ける総理大臣もいる。
同じ考えのスタッフだけでも平時の日常業務はこなせる。
しかし、今回のような非常事態になると国家の危機に及んでも危機管理機能は全く作動しない。
もともと平時の自分の立場しか考えてないのだから、危機管理の発想すら持ち合わせてはいないのだろう。
首相が紙に書いたことを読み上げるだけで、自分と考えの違う「向こう側にいる人」の意見はほぼ黙殺。
柔軟性を保つためにも「マスにならない」とか、自分と対極にいる人や専門家の意見を聞くべき。
それができないから、ばかげたアベノマスクやGO To の判断ミスが起こる」、と作家の村上春樹さんは憤りをあらわにしていう。
ウソと答弁誤り
昨日の琉球新の記事に「桜」答弁誤り認め謝罪、安倍前首相不起訴という記事があった。
「ウソ」と「間違い、誤り」の字義をうんぬんつもりはないのだが、やはり違和感を感じてしまう。
単純に言えば「ウソ」も「間違い」も事実に異なる内容や事柄を指す。
その意味では五十歩百歩で大差はないのかもしれない。
しかし、「ウソをつく」「間違える」となると事情は全く違う。
そこには当事者本人の明らかな意思が介在するからである。
あらかじめ知りながら「事実と異なることを言う場合」がウソであり、本人の意思で他人をたばかる不埒な行為になる。
他方、「間違い」の場合は本人の意思に反した「事実誤認による情報発信などを指す。
「一つウソをつけば、それを隠すためにさらに7つものウソをつかねばならぬ」という古の戒めもある。
7年8か月も権力の座にいればいればウソは到底7つでは済まないようである。
「誰が正しく、だれが間違っているかなどを考えるな。賛成も反対もするな」とブルースリーは言っている。
そういう生き方をしたいと最近思い始めている。
「人間は顔を赤くできる、もしくはそれをすべき唯一の動物である」(マークトーエン)。
「人生で何よりむつかしいのは、嘘をつかずに生きること」という、ドストエフスキーの言葉も思い起こす。
年甲斐もなく少し切なくなる。
違和感、不満、八つ当たりも年のせい
新型コロナウィルスの感染の恐怖と感染防止のための規制だらけの日常生活に多くの国民は恐れ困惑し、先行きの見えない不安にいら立ちを感じつつ生きている。
通常の最小限の人と人との接触さえも憚られ、普通の社会生活はおろかクリスマスや正月さえも夫婦だけで過ごさざるを得ない状況はまさに異常な世の中でしかない。
これはまさに非常事態でしかない。
今までもいろいろな事件・事故や大規模な自然災害も経験してきたが、これほど世界的な大規模な危機は記憶にない。
人類は今まさにあの、70年も前の第二次世界大戦以来の危機に直面しているのだと思う。
今回のコロナへの政府の初動体制やその後の対応を見ていても政府や日本国民の非常時の危機管理意識がいかに希薄だったのか思い知らされた気がする。
頭の中は全てが、今だけの目先の経済効率と経済成長のためのグローバル競争に全神経を集中してきたのではないかと思う。
少子化時代、成熟社会に全く逆行するような効率と経済成長優先の社会・経済政策を取り続けてきた。
国民の日々の当たり前の暮らしより、明確に大企業優先のいびつな経済政策を大多数の日本国民も支持し続けてきた。
しかも、今もその経済成長神話の一方の根拠となったトリクルダウンなどというオオタワケの経済政策を主動した、元慶大教授が現在の菅内閣でも経済政策ブレーンに名を連ねているというのだから驚きでしかない。
教育、医療、福祉、少子化対策、労働力(生活権)なども市場経済の視点ですべてが費用とみなされ節減の対象になってきた。
その結果社員の幸せや社会貢献を旨としてきた日本的な経営の心は何処かえすっ飛んでしまった。
モノ(資本の)蓄積のみみが優先され、社員や社会のきずなは跡形もなく消えてしまった。
人間の心のきずなが薄れ、モノと企業の内部留保のみが積みあがる社会になってしまった。
結果、持てる側へのモノ(財)の過密な集積や格差が露呈したのが昨今のコロナ社会なのだろうと思う。
コロナ対策にしても経済対策にしても、コロナ後のあるべき社会体制をも見つめつつ、歴史的な非常時の認識を根底に考えるべきかもしれない。
昨日安倍前総理が「桜を見る会」費用負担の件で釈明会見を行った。
「すべては秘書が勝手にやったことで、自分は全く知らないこと」と、平然と119回目のウソをついた。
その前に検察の事情聴取が行われたが、はなから不起訴ありきの「アリバイ作り」でしかない。日本の悪しき伝統文化の一つともいえる、行き過ぎた気配り即ち権力者への「忖度」であり、政治家や官僚の伝家の宝刀、現実対応といわれる自己防衛的な世渡りの秘策である。
「これが許されるならば、企業の不祥事を行政は何も処分できないだろう」(橋本元大阪市長)。
「秘書の起訴のみで済ませられたら、日本は犯罪天国になる」(鳩山元首相)
という声も聞こえる。世の中軽微な交通違反さえも「知らなかった」で免責されることはまずないことは日本人なら誰で知っている。
近代国家、民主主義の法治国家で「知らなかった」で法律違反が免責になる。
「こんなはずはない、何かの間違いに違いない」。
最近テレビが面白くない。やたらと2時間~3時間番組が増えた。
どの局も内容は似たり寄ったり、同じ画面を繰り返し見え透いた時間稼ぎのような場面が多い。
業界の底打ち、既成のテレビ業界のネタ切れなのだろうか。
「神対応とか、神何とか……」と称し、やたらと神様を引き合いに出す番組が増えた。
自らの番組の見え透いた格上げをしているようにしか見えない。
安直・無節操な神頼みで視聴率が上がるほど国民は馬鹿ではないと思うが。