ゆとろぎへの道 仲村峯夫 一隅を照らす素晴らしきかな人生 照らさずとも好し また素晴らしきかなこの人生(とき)

日々、つれづれなるままに、心のおもむくままに、趣味的ハルサーの想いを…
自分探しの旅は 違う景色の見える道

平成が終わる日

2019-04-30 11:44:18 | 日記
      平成が終わる日
 今日4月30日は平成の元号が終わる最後の日である。
それなりの年を重ねてくると、生きている中で特段に区切りや記念になると思う出来事も限られてくる。
明日から元号が「平成」から「令和」に変わると言われても、特別な感慨は湧いてこない。
特に誰かさんの個人的な恣意が満載された年号だと思うと、ある程度の「しらけ気分」も止む無しの心境にもなるのだろうか。
 持病の心房細動とは関係ないと言われたが、時折感じられる「軽い目まい感」などの心身の劣化などの実感は、普通に何もない健康な日常の有難さを教えてくれる。
そいう意味では「今年も誕生日をとりあえず健康で迎えられた」という想いの方が心地よく感じられる。
とは言え一つの時代の終わりに際しては、それなりに感じるところもある。
「令和」がどうのこうのではなく、昨今の国内・外の政治経済情勢は明らかに時代のターニングポイントに差し掛かっているように思われるからである。
 英国のサッチャー首相や米国のレーガン大統領が主導した、新自由主義のグローバリズムの波は一気に全世界を席巻した。
平成元年(1989年)ベルリンの壁が崩壊し、平成3年のソビエト連邦の崩壊が大きな契機になったのである。
東西冷戦の終結で共産主義の脅威がなくなった資本主義陣営は、全世界の政治経済システムを経済効率のみを最優先する自由市場至上主義のアメリカンスタンダード一色に染めてしまった。
他者(働く人や地域社会、地球資源、地球環境など)を一切省みず、ひたすら競争原理(市場原理)のみを是とする「今だけ、自分だけ、カネだけ」の価値観を貫いてきた。
この有限な地球で「無限の効率(利潤)を追求する」もうそれだけで、アウトである。
この有限の世界ではバランスが全てである。すべてがバランスの上に成り立っている。
己以外の他者を無視し、そのバランスを無視する価値観や制度が長続きすることはあり得ない。
働く人間や、地球資源、地球環境を自分一人だけの為に浪費し、結果世界に経済格差と貧困をもたらしてきた新自由主義の時代は終わりを告げようとしている。
たまたま、そのターニングポイントが今であり、新元号令和の時代なのである。


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有限と無限の認識、ジョブズの言葉への偏見的拘り

2019-04-06 10:02:06 | 日記
    有限と無限の認識、ジョブズの言葉への偏見的拘り
 数量や程度などものごとに限りがあることを「有限」といい、限度や限界がないことを無限という。
我々の住むこの三次元の世界はそのすべて?が有限の存在である。
日常生活の中では水や大気などほぼ無料・無限に存在するように錯覚しがちだが、生命の維持に不可欠な水や大気も全てが有限な存在でしかない。
敢えて、「無限なもの」といえば、神様かそれに類するサムシンググレートと、この大宇宙ぐらいしか思いつかない。
 その宇宙にしても「今から140億年前に誕生し、膨張を続けている」と聞けば、やはり有限宇宙を思い浮かべる。
一方、一つの宇宙にたくさんの銀河系が存在し、さらに別にもたくさんの宇宙が存在する(多元宇宙論)と聞けば無限宇宙も想起できる。
しかし、この無限宇宙の概念も言葉としてのイメージは想起できるが、実感イメージとしてはほぼ描き切れない存在でしかない。
神様もほぼ同じで、絶対唯一と言いながらも世界的な統一イメージすら存在しないし、第一誰も直接会ったことはない。
おそらくその存在も永遠に証明することもできないのだろうと思う。
 もし、この世界は全てが有限な存在で、無限なものは存在しないのであれば言葉としての存在だけの「無限」はどんな意味があるのだろうと思ってしまう。
殆んどの人間はこの言葉としての「無限」を無意識のうちに刷り込まれ、勘違いの中で日常を過ごしているようにしか思えないからである。
 「人間は生まれ、ほんの一瞬生き、そして死ぬんだ。ずーとそうだ。『自分がいつか死ぬんだ』と認識することは、人間の全てのストレスや恐怖を解消する」とジョブズはいう。
それは同時に「人間が如何にちっぽけな有限な存在である」かを思い出させ、「人間は今生において、自分の事だけに責任を負えばいいんだ」ということを再認識させるのだろうと思う。
「もっともちっぽけな有限な存在であることをを認識し、今やっていることが、どこかにつながる、と信じて生きる」というジョブズの処世訓は今の私には、もはや偏見的拘りの域なのかも知れない。









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新元号「令和」への想い

2019-04-02 17:15:40 | 日記
元号「令和」への想い
 昨日新元号「令和」がが発表された。
ここ最近、テレビなどでも連日取り上げられ、マスコミネタ的には大盛り上がりの様相であった。
社会現象や政治ネタにはほぼ興味を示さない、若者の間でもこの元号ネタは盛り上がるという。
私自身は連日テレビなどで放送される、新しい元号ネタにはホトンド興味がなかった。
万国共通の西暦年号に対し、元号は日本だけで通用する年号である。
人の名前で言えば、いわゆるローカルネームであり、ウチナー流に言えば「ヤーヌナー」(家族内だけで通用する呼び名)でしかない。
 昔から日本社会では屋号文化が各地で定着し、苗字(姓)の他に「屋号」という通称を付けて、各家屋敷を特定・区別してきた。
屋号は系譜や先祖もしくは稼業、方位・位置・地形由来などが多く、その地域でしか通用しない、完全なローカルネームである。
 元号が日本社会にだけしか通用しない年号だから、意味がない、興味がないというのではない。
屋号文化同様に元号も日本社会に根差す日本固有の一つの文化であることには違いはない。
人間の価値観は人それぞれで、いろいろな名称や呼称についても受け取り方は恐らく人それぞれだろうと思う。
最初から「しっくりする名称」もあれば、「すっきりしないとか違和感だらけ」という場合も人それぞれでしかないと思う。
 今回の「令和」にしてもそうであろう。私にとっては「我が意を得たり」のドンピシャ感は全くなかった。
他に思い入れがあったわけでもなし、特段に期待もしていなかった。
人生で「慣れ」は全てを丸く収めてくれる魔法の法則である、事も経験上理解しているからである。
今後数か月もたてば「令和」は立派な元号としてほぼ受け入れられることだろう。
 万葉集巻5の一節(梅見の宴会)「初春令月、気淑風和」からの引用だという
「令」の意味は「よい」「清らかで美しい」で、「和」は「丸くまとまった状態」で、「折しも、初春の佳き月で、気は清く澄み渡り、風はやわらかにそよいでいる」という。
 安倍首相は会見で「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つという意味が込められている」と述べているが、「令和」につながる脈絡はほぼ感じられない。
また、「若者たちが大きな花を咲かせ、希望に満ち溢れた日本を作り上げたい」とのコメントにも、自らが如何に新元号制定に関わったかの誇示にしか聞こえず後味の悪さしか残らない。
全体的に平成の元号の説明時のすっきり感には遠く及ばない感じである。
漢字の音・訓表記やその意味が日本古来の漢字文化か否か私には分からない。
人の名前や呼称には罪は全くないと思うのだが、漢字の訓読みやその意味とそこから想起される「音読み」にも言霊がまつわり付いてくる。
人間の心には常に天邪鬼も住み着いているのだろか、私には万葉時代の人が感じる言葉と現代人が感じる言葉の間に微妙な感覚の違いがあるような気がする。
 「令」の意味を辞典などで調べてみると、「よい」とか「立派な」とか、「優れた」と意味や他人の親族に対する敬称(令夫人、令嬢)などいい意味もある。
しかし、それ以外は殆んどが「上から目線」の意味合いが多い。
「命令」「命ずる」「いいつける」「みことのり」(天皇や国を治める人からの命令)「布令」など上意下達的な指示用語に使用されている。
「令」の文字の成り立ちを見ても、一番上の部首「ひとやね」(Λ)」の「冠の象形」と、下部の「ひざまずく人」象形から成り立ち、字義自体が完全な上下関係を表象しているのである。
阿倍とも内閣を中心に安倍一色に塗り固めた、現在の一極支配体制の影が見え隠れするようでさほど気持ちはよくない。
 恐らく現代人で「令」を「よい、優れた、立派な」という意味で使用する人は少ないのではないかと思う。
字義やその成り立ちなどを考えることもいいだろうし、万葉人と現代人の時代を超えた言葉の感覚の違いも大きいと思うのだが、それはそれでいいと思う。
 「名は体を現し、体は実を現す」と言う。
その意味では、「名は実態を形成してしまう」と言っても過言ではないのである
しかし、名を付けるのも人間で、体を実現するのも人間、実の成果も人間次第でしかない。
人間はいつの世も「よりよく生きる」ために制度やルールを作り、運用する。
全ての原点は「何のために、誰のために何を成すか」であろう。
人生はこんな単純明快な事実が霧に包まれることが多すぎるような気がする。
 過行く平成の世は「日本の停滞と凋落」の時代としか思えない。
大震災などの自然災害が多発し、江戸時代のピンハネ社会を再現し、新自由主義とIT革命で貧困と経済格差が全世界に拡散した、若者受難の時代とも言われる。
来る「令和」の時代は、間違いなく時代が変わる節目の時期になる。
貧困と格差という日常問題の他、地球温暖化とITへの対応が人類の未来に直結する時代になる。
世界的な価値観の転換とそれに伴う政治や経済の立て直しが喫緊の課題になるだろう。
社会の価値観は明らかに富の集積のみを目的にしてきた「効率」から、「人間の生き方」とか「生きざま」を追求せざるを得ない時代になる。
 政財界を含め感性がドン曇りに劣化した、日本社会のリーダーたちには退去してもらうしかないだろう。
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ジョブズの言葉に寄り添う心

2019-04-01 12:04:21 | 日記
    ジョブズの言葉に寄り添う心
 「人は生まれ、ほんの一瞬生き、そして死ぬんだ。ずーとそうだ。
『自分はいつか死ぬんだ』と認識することは、外部からの期待、プライド、屈辱や挫折の恐怖を消去してくれる」とジョブズは言っている。
 ちっぽけな地球に住み、有限世界の最たる存在である人間にとって、この宇宙はその存在そのものさえもイメージできない程の別次元の存在である。
「この地球から何億光年も離れた所で、ブラックホールが数個も発見された」と聞かされても我々の日常感覚では、殆んど実感は湧かない。
この大宇宙が有限の存在かはたまた、無限の異次元の存在なのかも私には分からない。
それほど「人間はちっぽけな存在でしかない」という事ぐらいしか、私には理解できない。
それでも我々は、自らのごくごく限られた視聴覚情報を頼りに一生懸命生きている。
殆んどの人間は自分の身の丈情報の範囲内で生きるしか、術を知らないのだろう。
人間が一生懸命にまじめに生きれば、生きるほど世の中に短絡、不合理、不条理も蔓延する
事になるのかも知れない。
自我意識や責任感も拘り過ぎると、個人的にも社会的にも只の偏狭な危険な存在にしかならない。
 ジョブズの言葉を思い出せば、いいのかもしれない。
ジョブズの言葉は「人生をやる(生きていく)最大のツール」になるだろう。
『自分はいつか死ぬんだ』と言う事実は、自分が如何に有限でちっぽけな存在であるかを再認識させてくれる。
人間は今生で「自分の事だけに責任を負えばいいんだ」ということを思い出させてくれる。
子供を含め「他人の人生に責任を負うなど、おこがましい」ということなのだろう。
「謙虚に慎ましく」で良いのだろう。
「今やっていることが、どこかにつながっていると信じることが大切」とジョブズは言っている。
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