ゆとろぎへの道 仲村峯夫 一隅を照らす素晴らしきかな人生 照らさずとも好し また素晴らしきかなこの人生(とき)

日々、つれづれなるままに、心のおもむくままに、趣味的ハルサーの想いを…
自分探しの旅は 違う景色の見える道

日本の刑事司法の課題&グローバル経済の病巣

2018-12-30 09:53:29 | 日記
     日本の刑事司法の課題&グローバル経済の病巣
 日産のカルロス・ゴーン元会長が逮捕拘禁されて以来、その動向が連日マスコミの話題になっている。
国際的には日本独自の司法拘留の在り方が批判の的にもなっている。
更に「企業経営者の背任罪の立件は極めてハードルが高い」と言われる中で、地検の特捜部は立件に並々ならぬ執念を見せているようである。
 そんな中で、作家の北原みのり氏の「カルロス・ゴーンへの手紙」というタイトルのネット記事を目にした。2019年1月4日~11日合併号の週刊朝日への掲載記事の抜粋記事のようである。
 以下、北原氏の記事内容の概略をはしおって紹介する。
「ゴーン様がどれだけの『悪事』を働いたかは存じませんが、この国ではあなたは既に『犯罪者』扱い。
社会的な名誉は剥奪され、人権は蹂躙され逮捕・拘禁は正当化される。
ゴーン様へのお願い、ぜひ大騒ぎして欲しい。日本の刑事司法の残酷さを。
罪が定まらないまま、長期拘留される人がいることを。
あなたの人生には、そんな『落伍者』の姿は見えてこなかったかもしれません。
その結果が、今ここ、なのかもしれません。
だからこそ、知って欲しいのです。一部の人間が莫大な給与を取得するシステムから落とされた人々の声を。
あなたが落ちた、穴を笑ってのぞき込んでいる、この社会の暴力性を。(以上が記事概略)
 日本の司法は「人質司法」と揶揄される。
起訴に当たっては自白至上主義とも言われ、全てが自白を中心に運用されるという。
そのため否認すれば、自白するまで拘留されると言われる。
その間、弁護士以外は家族との接見も許されないという。
取り調べも可視化が進まず完全密室での拷問に近い取り調べが続くと言う。
その結果が、日本の刑事裁判の有罪率は99.9%という信じがたい数字を記録している。
日本の刑事裁判で勝訴を勝ち取った弁護士は、数えるほどしかいない言うから、その凄まじさがわかるような気がする。
如何に検察官が東大でのえりすぐりのエリート揃いと言えども、人間の為せる業としては余にも不自然な天文学的な数字にしか見えないのだが。
 北原氏は女性のためのセックスグッズショップ「ラブピースクラブ」の代表者でもあり、その関連で4年前に「わいせつ物陳列」の疑いで、逮捕拘禁された経験を持っている。
そんな彼女は自身の体験をもとに日本の刑事司法の前近代的な在り方を痛烈に批判しているのである。
併せて、新自由主義の政治経済思想が世界を席巻しグローバル化した世界経済の中で、格差と貧困が常態化した昨今のイビツな社会をあぶりだしている。
そして、その象徴としてのカルロス・ゴーン氏への皮肉を込めながらも、彼が体験した日本の刑事司法の残虐性を全世界に知らせて欲しいと訴えているのである。
 この、北原氏の「カルロス・ゴーンへの手紙」は、残酷的な日本の刑事司法の網に引っかかったグローバル経済の寵児、カルロス・ゴーン氏を通して自らの金儲けしか考えない、新自由主義のグローバル資本主義の病巣を端的に指摘しているのだろうと思う。
これは強欲ゴーン氏が現在の法律で裁かれるか否かは別にして、社会の富の極端な偏在が人間の社会生活や一国の経済体制にも致命的な弊害をもたらすことの査証でもある。
彼の存在自体が現在の人間社会の在り方としても、本来の社会経済システムの在り方としても到底許されるものではないことも指摘しているのだろうと思う。
職業作家の視点と巧みな文章で現代の日本と世界の問題点を指摘している点はさすがで「してやったり感」満載である。
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ゲーテおじさんのこころ

2018-12-27 13:36:14 | 日記
    ゲーテおじさんのこころ
 18世紀のドイツの詩人ゲーテの話である。
ヨハン・ヴォルフガング・フォンゲーテが正式な名前のようである。
ドイツの詩人、劇作家、小説家、政治家、法律家、自然科学者でもあったあまりにも偉大な歴史上の人物である。
「ファウスト」や「若きウェルテルの悩み」などの概要もうろ覚え程度の知識しかなく、遠い昔の遠い国の歴史的な人物程度の印象である。
 夕べ、別のタイトルでネットを手繰っていたら、ひょんなことからゲーテの名言集に出会った。
印象に残った言葉を幾つか拾ってみた。彼の名言集は何とも親しみやすくわかりやすい言葉でつづられていた。
私の心にもスート入ってくるような何とも言えぬ新鮮な響きが感じられた。
歴史的な偉人というより、皆に愛される隣近所の聡明な優しいおじさんの感覚が「ゲーテおじさんのこころ」なのかもしれない。
 以下、私なりの感覚で幾分言葉をはしおりながら彼の名言集の一部を紹介したい。
「人生の大事は生きる事で、生きた結果ではない」
「旅の目的は到着ではなく、楽しむこと」
「より良い生き方、それは人を憎まず、天にゆだねること」
「天には星、地には花、人には愛」
「人を誉めれば、その人と対等になれる」
「本気の思いに飾る言葉は不要」
「結婚生活は全ての文化の始まりであり、頂上である」
「愛し方がわからない人は、せめてお世辞の言い方ぐらいは身に付けよ」
「万人の流儀より、自分の流儀で生きる」
「拒絶に説明は不要、否のみでよい」
「努力と過ち、欠点と個性は付きて離れぬもの」
「癖は抜けぬもの、特性を伸ばせ」
「成功の秘訣は好きな仕事を探すより、やっている仕事を好きになること」
「明と暗の存在は世界の原点」
「何もできない時や日はタダ寝て過ごせ」
 「人生の大事は生きる事、何もできない時は寝て過ごせ」、別段すごいことは何も言ってない。
何気なく優しい言葉だが、ゲーテの思いが心の奥に響く。
 








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気になったある風景、危うい人間のパターン

2018-12-23 11:44:33 | 日記
    気になったある風景 
 以前ある著名な政治評論家が「正義感の強い人は危ない」というような趣旨の発言をしていた。
「正義感が強すぎる人や真面目で責任感の強い人ほど世の不正や、不条理、または日常生活レベルでのマナー違反などが人並み以上に目につきやすく、逆にそれが新しいトラブルの原因にもなり兼ねない」ということだろうと思う。
最も全ては程度やバランスの問題なのだろうとも思うのだが。
最近起こった、東名高速でのあおり運転がらみの「危険運転致傷罪」に問われた死亡事故などはその典型的な事例なのかもしれない。
 昨日、娘と女房、孫二人と連れ立って糸満の観光農園のイルミネーションを見に行った。
午後6時のイルミネーションの点灯数分前に入園し、点灯のカウントダウンを体験した孫たちははしゃぎまくっていた。
色々にデコレーションされた綺麗なイルミネーションをバックにあちこちで記念写真を撮りまくっていた。
 ひとしきり、きれいなイルミネーションを堪能した後、イベント会場の階段状に設置された客席の前列に陣取った。腹ごしらえをしながらイベントの開始を待った。
ショーはフラダンスとキッズの何とかダンスがメインであった。
会場はさほど高くないステージが設置され、その前にビールのラックと思しきものが5列ほど置かれステージ正面のメイン客席となっていた。
一般席はすり鉢状に階段が設置された常設の客席である。出演者の家族や関係者以外はそのすり鉢状の観客席での観戦のようである。
イベントが始まると保護者と思しき数名の人たちが、ビールラックの客席の後ろに立ちひたすら写真を撮りまくっている。
観客席の下段にいる客の視線は立ち見の観客によってかなり遮断されている。
後ろの観客の邪魔になっていることに気づいたのかどうかは定かではないが、途中からは立ち膝の姿勢に変わっていた。
 ところが、数名の観客がほぼ最後まで立ち見で、腕組みしながら隣同士で談笑をしていた。
途中で気づいたのだが、どうやらその中の一人はイベントのスタッフのようである。
舞台の進行や出来栄えが気になるのか、誰かと話しながらも視線はほぼ舞台に向いているようである。
いくらイベントの出来が気になるとはいえ、イベントのスタッフが平然と観客の前で腕組みで立ち見、観客の様子や視線を気にする様子は微塵も感じられない。
観客のことは一切意に介せず、舞台の出来栄以外は眼中にも無い無頓着さ。
これぞ究極の自分ファースト、筋金入りの模範的自己中人間の生き方なのだろうか。
 途中何度も一言注意に行こうかとも思ったのだが、女房に引き留められ行かずじまい。
怒りに任せて注意せざるを得ない自分への嫌悪感、自然体で心フラットな状態で注意喚起もできなかった自分へのもやもや。
こんな感情の不消化はやはり、危うい人間のパターンなのかもしれない。

 

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明るく元気、冬の花つわぶきのこころ

2018-12-22 14:57:54 | 日記
   明るく元気、冬の花つわぶきのこころ
 ここのところ、夫婦で歯医者や病院通いをしていることもあり、何とも気勢の上がらない毎日を送っているような気がする。
家庭菜園もまだまだやるべきことは多いのだが、去年までのように一気呵成に突っ走れない。
 眩しいばかりの日差しが居間の窓から差し込んでいる。
居間の温度計は午前10時で28度を指し示している。冬至を迎えた師走の陽の光とは思えないほどの日差しである。
 庭の西側斜面では冬の花つわぶきが満開である。つわぶきはキク科の多年草で毎年この時期に黄色の花を咲かせてくれる。
4~5年前に私が近くの山野から持ち帰り植えたもので、今では畑や庭のいたるところで毎年花を咲かせ、多くの蝶々を引き寄せている。
花言葉は「謙遜」、「謙譲」、「愛よ甦れ」、「困難に負けない」などでやさしさの中に逞しさをイメージさせる。
沖縄では山野に多く自生していて、ほぼ雑草の感覚もあるが庭の斜面一面に咲きそろうと何とも華やかな雰囲気を漂わせてくれる。
明るい黄色の花、円満を象徴する深緑の円形の葉は限りなく癒し系の雰囲気そのものである。
昨年は1月の上旬に満開の時期を迎えたが、今年は夏が例年より暑かったせいか昨年よりも2週間ほど早めの満開となっている。
 世の中のあらゆる草木や草花は決して自ら語りかける事はしない。
ましてや自らの存在を自己主張することもない。
ただひたすら、自らに与えられた場所で、自らの生の営みを只淡々と繰り返すのみ。
自らの周囲に如何なる天変地変が起ころうとも、只淡々とその命の営みを繰り返すのみ。
そこには自らの価値判断もチョイスも何も存在はしない。
ただひたすら与えられた自らの分を全うするだけ。
 人間と動物、動物と植物、自らが動くものと動かざる者、そこには大きな違いがあるようにも見える。
人間の視点からすればある面、それが決定的な相違点なのだろうと思う。
半面植物の視点があるとするならば、それはいずれも「この有限の世界で生かされている」同じ有限の世界の同じ生き物、ということなのかもしれない。
冬の花つわぶきの心は何処にあるのだろうか。
デモそんなことを考えるのも人間のみ、つわぶきの花はタダ淡々と時の流れに身を任せ、ひたすら自らの花を咲かせるのみ。


 
 
 
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「酒離れ」は人生の新たなるステップ

2018-12-21 10:56:58 | 日記
   「酒離れ」人生の新たな相棒は? 
 親は子供にとっては生まれてからある一定の年齢(恐らく幼児期)に達するまで、は無条件に絶対的な信頼を寄せる神以上の存在である。
何時しか子供が成長し、心身ともに親の庇護を離れ自立することを「親離れ」という。
 先日、思いもよらぬドクターストップの宣告を食らって以来、「酒離れ」への想いが私の脳裏から離れない。
60代前半までは「酒は飲んでも飲まれるべからず」を美学にしてきた。
それが定年を迎え、いつしか、「片意地張らずに力を抜いて自然体、もっと酒も人生も楽しむべし、酒は大酒、大いに飲まれるべし」と酒哲学を180度も転換したのが60代半ばであった。
しかし、その「酒は大酒、大いに楽しむべし」の酒哲学は当然、女房はじめ周囲からの評判はあまり芳しくなく、私自身の反省をも含めて酒哲学を本来の酒飲みの王道へ回帰すべく歩んでいた時期であった。
 これからの人生も当然、明るく楽しい人生を酒と共に過ごせることに、いささかの疑いも持たなかった。
今回のよもやのドクターストップ、自分ではほぼ平静を装っているつもりなのだが、日ごろ大酒をたしなめられている女房からも「そのうち、きっとまたも飲めるようになるわよ」と慰められる始末、私の心のうちは完全に見透かされているようである。
 先日私の現在の唯一の定例の飲み会でもある「ゆとろぎ会」の模合があった。
常日頃、「酒の飲めない夜の会合には出ない」と豪語してきた私にとって、ドクターストップ中の酒席(模合)は初体験である。
最初は意地でも「当分酒は一滴も飲むまい」と思い、完全断酒を考えていた。
ところが、あろうことか女房の方から「ビールの一杯くらいはいいんじゃない」と言ってきた。
「決断も早いが、変わり身も早い」良く言えば、柔軟性が持ち味を自認する私は何の躊躇もなく女房の意見を取り入れることにした。
そうなのだ、ドクターストップとはいえ、一滴の酒で死ぬことは無いのだ。
「タバコは百害の長」と言うが、「適量の酒は百薬の長」と言うではないか。
オールORナッシングの人生よりも、AアンドBのバランス人生の方がバリエーションがある。
月に一~二度のビールジョッキ一杯など、頑なに拒むことも無いのだろう。
これが「ゆとりある大人の人生の送り方かもしれない」などと勝手に決める。
柔軟志向の帰結はどんな辻褄も簡単に合わせてしまう便利な思考パターンのようである。
その日は、6時から9時までの3時間をジョッキ1杯のビールとコーラ1杯で通した。
多少の違和感は否めなかったが、「酒離れ人生」のスタートとしては上々の出だしである。
今までは全てにおいて、酒の力だけに頼り「座」の盛り上げに貢献してきた。
近い将来、酒の力を借りずに「酒場」を楽しみ、場を盛り上げられる日もきっと来るだろう。
そんな予感を残した、私の「酒離れ」人生のスタートであった。
取りも直さず、これが私の人生の第三幕の新たな旅立ちにもなるのだろう。



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