ゆとろぎへの道 仲村峯夫 一隅を照らす素晴らしきかな人生 照らさずとも好し また素晴らしきかなこの人生(とき)

日々、つれづれなるままに、心のおもむくままに、趣味的ハルサーの想いを…
自分探しの旅は 違う景色の見える道

水を噛みながら味わう羽目になった、人間の胸のうち

2019-08-02 10:45:50 | 日記
    水を噛みながら味わう羽目になった、人間の胸のうち 
次の再入院まで医師から、自宅での安静療養を命じられている。
その間の幾つかの留意事項が指示されている。
静の保持、指定された薬の服用、水分の摂取制限、一日60回ほどの呼吸訓練などである。
そのうち、安静の保持や薬の服用はほぼ難なく実行できる。
しかし、1日60回の呼吸訓練となると、3時間おきに10回の頻度は結構きついものがある。
要するに起きている間中呼吸器具が手放せないし、それ自体がそれなりにキツイのである。
 それにしても、一番きついのは水分の摂取制限である。
入院直後の最初の3週間、緊急対応とかで1日の摂取水分が800ミリリットルに制限されていた。
三度の食事時にそれぞれ100m㍑の水分をとれば、後飲める水は一日500m㍑しか残らない。
普通に考えれば正に狂気の沙汰としか思えないが、しかしこれが現実である。
一日500mlの水分で過ごすには、後は唯々500mの水分を区分けし、何回にも分けて摂取するしかないのである。
500mlと言えば、通常のペットボトル1本の容量しかない。
一回コップに注ぐ水を100ml程度に極小化し、一度に口に流し込む水も唇や舌を潤す程度しか口に含めない量である。
正に口に僅かに含んだ水をなめるように、何度も噛むように味わい、何度にも分けて喉に流し込むのである。
これぞ究極のスーテーヌミー(分量を制約・制限して飲むこと)である。
う侘しさを通り越して、ある種の悲壮感しかない。しかし、そんな中で飲む水はまさに命の水であり、この上なく有難い存在である。
それよりなにより、ただの水がこんなに旨いものだとは思いもよらなかった気がする。
 三週間で一時退院の許可が出た。
退院も嬉しかったが何よりも嬉しかったのは、水分の摂取量が1000mlに増量された事であった。
現在も水分摂取は1日1000mlである。水分摂取量が倍になったとはいえ、ペットボトル2本分はやはりキツイ。
現在も毎日2本のペットボトルに水道水を入れ一日の水分管理を実施している。
中症の恐怖もある中、のどの渇きとのバランスをとるのに必死の思いもある。
水さえも厳しい摂取制限をされる中、マッコトお酒どころの騒ぎではないのである。
 今は只タダ、この日、一日だけを凌ぐのに必死の現状である。
そんな中、神にすがるよしみも無い人間は先人たちの有難い言葉をよすがとするしかない。
その胸の内を紡いで見れば………。
①人生の大事は生きること、何もできない時はただ寝て過ごせ(ゲーテ)
②人生は心一つの置きどころ、視点一つで如何様にもなる。
③あらゆる視点は真実を内包する。それは同時に盲点と矛盾点も内包する(ケン・ウイルバー)。
④本当に必要なものは手に入る。無理に手に入れたものは長続きしない。
手に入らないものはさして必要ではないと言うこと。
⑤人生の王道、諦めず、抗わず、任せて進む。
⑥人生は成るようにしかならない、そして成るようになるのが一番良い。
⑦人生全てにおいてそれはそれ、これはこれ、人それぞれの道あり。
⑧人生は有ればあるなり、無ければないなり、ただそれだけのこと。
⑨自分はいつか死ぬんだという、明確な認識を持つことは人生の確固たる価値基
 準になる。
⑩人は生まれ,ほんの一瞬生きて死んでいく。人間今生で責任を持てるのはごく限
 らている。他人の人生に責任など持つことはできない。
⑪今やっていることがどこかにつながってると信じること(ジョブズ)
⑫臍下の一点に心を鎮め、心身統一。
⑬すべての事には時がある。今この時神が与えし時 思い出れば時必ず来る。
その時、それが時。
コメント
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