ゆとろぎへの道 仲村峯夫 一隅を照らす素晴らしきかな人生 照らさずとも好し また素晴らしきかなこの人生(とき)

日々、つれづれなるままに、心のおもむくままに、趣味的ハルサーの想いを…
自分探しの旅は 違う景色の見える道

コロナワクチン注射の名残り

2021-05-23 11:17:55 | 日記

 ワクチン接種がこれほど話題になるのは珍しいことである。

 全国的にもにコロナワクチンの接種が遅れ気味で、国民の一大関心事にもなっている。

国内でのワクチンの接種がある程度進まないと、コロナの収束も見えてこないというのが、門家の大方の意見でもある。

大方の国民がこのコロナ接種を心待ちにしているが、一部ではこのワクチンの安全性に危惧を示しワクチン接種をためらう 声があることも事実ではある。

国民一人一人が己の判断で決めることだと思うのだが、私は自分の年齢と既往歴などを考え接種を選択した。

1週間ほど前に南城市から接種券が届いた。

女房が申し込みの電話をすると運よく昨日(22日)の予約が取れたので、二人で会場に出向いた。

午後4時の予約で市役所には20分前に到着した。

すぐに受付の列に加わり予診・問診などを経て4時前には無事に接種を終えた。

接種技術もさることながら、一連の対応は実にスムーズで完璧な対応には感謝・感心の気持ちしかなかった。

  常日頃南城市の行政の窓口サービスは私の知る限り、全国のトップクラスのレベルにあると思っている。

  正確なコロナワクチンの接種報告のために追伸で一言。  

接種時にはチクリとも感じなかったが、夜の八時ごろには右腕に軽い違和感が感じられた。

そして、翌朝目が覚めると右腕に 少し重ダルさを感じた。 症状は女房もほぼ同様のようである。

大事を取って今朝の村の草刈り作業は休むことにした。

 ああ、これがコロナウイルスのワクチン注射の名残なのだと思った。

一回目のワクチン接種を無事済ませ、なんとなく安ど感を感じている。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「バカじゃないか?」は、論理・惻隠の情のダブル破綻

2021-05-21 11:45:39 | 日記

 「バカじゃないか?」は、論理・惻隠の情のダブル破綻  

 今朝のネット記事を見て、心底から哀しく 心寂しい憂いを感じた。

「国の政策に頼るなんて沖縄らしくないじゃないか。

頼りにならない国の政策なんて頼りにしたって、コロナ対策は講じられない。

一人の感染者もないようにできるのに、なんで、168名の感染者をつくって、バカじゃないか。そうでしょう」。 20日の細田博之元官房長官の発言である。

 沖縄は離島県である。交通手段は船か飛行機しかない。

県堺を徹底的に封鎖すれば、感染者は出ない。自らの対策不備を たなにあげて、国を頼るのは地方自治の怠慢ではないのか、との御説のようである。 沖縄が離島県ならば、日本国は島国である。

離島県のコロナ対策が簡単ならば島国日本のコロナ対策も同様でなないのか。

どうやら、島国の日本がコロナ対策に死苦八苦しているのはお忘れのようである。

 国民の生命や財産を守るのは国の役割である。今回の新型コロナとの戦いは過去にも百年単位で襲来したペスト(1720年)、 コレラ(1820年)、スペイン風邪(1920年)同様感染症との戦である。

世紀単位、世界規模での感染症との戦いはまさに国家レベル、人類レベルでの危機管理が必要なことは言うまでもない。

 この間の政府の後手後手で、的外れなコロナ対策が雄弁にこのことを物語っている。

その標章の一つが今回の細田発言なのだろう。

 日ごろは、「辺野古ありき」だけの暴論で、地方自治を無視しながら国家的な有事の際の危機管理やその責任までも地方に 丸投げするような政府。

そして、そんな政府を容認し続ける日本国民、それは自らの選択を放棄し続けるという、選択である。

それは断じて、「日本的非合理性の温存が百年後の世界文化に貢献する」と言った、三島由紀夫の言葉に合致するものではないだろう。

 日常生活で必要な基本的な生活権、人権を他府県なみに欲しいと願う沖縄県民の思いは特段の高望みではないと思うのだが。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日の心(2021.5.20)「人生の大事は生きること」

2021-05-20 09:34:39 | 日記

 今日の心(2021.5.20)「人生の大事は生きること」

 海の向こうの大リーグでは、大谷選手が「まるで漫画の世界にでもいる?」、かのような神がかり的な大活躍を見せている。

しかし現実の世界では、少し大袈裟に言えば、昨今のこのコロナ禍の世の中、辛うじてその日を生き抜いているという人も 結構いるような気がする。

ひところ、「それって意味あるんですか?」という、若者の言葉がはやったが昨今はどうなんだろうか。

物ごとにいちいち意味を求めるということは、「自分にとって利益になること以外はしたくない」と言うことなのだろう。

限りある人生を最大限有意義に生きようと思う心の表れなのかもしれないが、それは日常の全てのものごとに自らの価値観 で裁定を下すことであり、限りなく忙しない生き方のようにも思う。

 人生は全てが「選択」であると言われるが、流れや自然に任せるという選択もある。

人生の全てのチョイスの出発点は「生きること」なのかもしれない。

良いことだけを考える。愉しいことだけを考える。

好きなことだけを考える。 「人生の大事は生きること、人生の小事も生きること、何もできぬ時はただ寝て過ごせ」。

人生の究極の選択のような気もするのだが。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナウィルス過中での五輪開催とマスコミ報道への違和感

2021-05-17 11:08:11 | 日記

  コロナウィルス過中での五輪開催とマスコミ報道への違和感

 今朝のネット記事に、5月13日付のフランスの新聞「リベラシオン」の記事が掲載されていた。

「東京オリンピックはKOか?」のタイトルで掲載されている、記事である。

数日前にもイギリスの大手紙も、この昨今の世界的なパンデミック下での五輪開催については否定的な記事が掲載されていた。 記事の内容を私なりに、大まかにまとめると政府は ①PCR検査も増やさない、 ②ワクチン量も増やさない ③医療体制の強化もしない、 ④必要な資金援助もすることなしに、一年以上もウイルス蔓延を放置している。

一方では、五輪選手団へは一日3万回のPCR検査をするという。

最優先されるべきは国内のコロナ対策であろうという指摘である。

現に国民の政府のコロナ対策への不満や、多くの国民が五輪中止の声を上げている。

医療体制のひっ迫も喫緊の問題となっている。 「医療は限界、五輪やめて!、もうカンベン、オリンピックむり!、」等の病院現場の悲痛な叫びが現実のものとなっている。

  違和感は二点である。

一つは政府のコロナ対策への取り組みそのものへの疑問であり、二つ目は大手新聞を中心にしたマスメディアの報道の在り方 への疑問である。

国会でもウソをつきまくる総理大臣やその政権が支持される社会。

世界的にも世紀規模の非常時とも思える、昨今のコロナパンデミックに対する政府の対応はまさに目を覆いたくなるほどの お粗末さでしかない。

危機管理のノウハウがないだけならば、外国の例を見て学べばいいのだが、如何せんその発想さえもないのだから、 何を学べばいいのかもわからないのかも知れない。

対策は全てが後手後手、しかもほぼ的外れで型にもハマらず修正さえもままならない。

挙句の果ては、具体策は全て地方自治体へ丸投げ状態、国民に対しても自粛要請のお願いだけで、政府の施策は全て後回し。

政府ができないのならばせめて、支援金でも奮発して後方支援で存在感を示せばいいのだろうが、その支援金も出し渋るミミッチさ。

今となっては大博打としか思えない、オリンピックの開催ありきの現況は、 頭の中は常に自らの利権がらみと政権浮揚の思惑のみとしか思えない。

  日本の報道の自由度は「世界67位」である。

もちろん先進国ではビリに近い。

日本は「習慣や経済的利益の影響で、ジャーナリストが民主主義の番人としての役割を果たすのは難しい」と指摘するのは、 国境なき記者団である。

日本のジャーナリズムの在り方については、国内ではほぼ指摘されない。 「番記者制度」の温床ともいううべき、「記者クラブ」問題を解決しない限り日本の報道の自由度の向上はほぼ難しいのだろうと思われる。

水が低きに流れる如く、報道ネタがそれなりに官邸寄りになるのも致し方のないことでしかないのだろう。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

違う景色の見える道

2021-05-13 06:34:52 | 日記

   違う景色の見える道 心の片隅で

 こころ密かに ずーと思い描いてきた気がする 色々な思いを込めて、「人生の帰り道は 違う景色の見える道を 歩きたいと」と。

その壮大な夢が今どうなっているのか 皆目見当もつかないし また改めて考えたこともない。  

昨年からの二度にわたる病とその回復の過程で 確実に実感していることが一つある。

自分の思い描いた「違う景色の見える返り道」とは意味も次元も全く違うと思うのだが……。

それまでは ほぼ念頭になかった「老いの実感」である。

最近たまに ガムを噛んでいる 一種の老化予防策である。 ニ~三日前にスーパーでいつものガムを買った。

家で開いてみると中味は色やデザインが酷似したキャンディーだった。  

先月の誕生日に 濁り酒とどぶろくを買いに行った。

私にとっていろんな意味で どぶろくと濁り酒を一度に買うのはまさに誕生日ならではのことである。

どぶろくの種類はひと種類しかないが、濁り酒は数種類の中から慎重に吟味しそれぞれ一本ずる買って帰った。

家に帰り中を確認するとあれだけ 慎重に選んだ逸品がなんと二本とも濁り酒になっていた。

今の最大の関心事 どぶろくを買い損ねたのである。

慎重に選んだまでは良かったのだが、どうやら棚から取り出すときに思い違いをしたようである。

これには 驚きやショックを通り越して 一抹の寂しささえ覚えた。

「年を取るってことは本当に面白いもの、若いころにできていたものができなくなる。

ひとづつ面白がってほしい」という、 樹木希林さんの言葉も素直には入ってこない。

何はともあれ、老化とは生きていくハードルが一つづつ増えていくことでしかない。

日常的にも健康面でも これまでに必要でなかったものが、入り用になる。

老いや老化による日常の欠落分を、これまでよりもより細やかなルーティンや習慣化でカバーせざるを得なくなる。

習慣は新たな才能を開き、思いがけない贈り物をもたらしてくれるという。 

ならば、「違う景色」も見せてくれるのかも知れない。

いや、きっとそうなのだろうと思う。

 マイ・ルーティンや習慣はきっと老化を補ってなお、余りある新しい可能性をもたらしてくれるかもしれない。 今は、少なからずそう思いながら生きている。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする