ゆとろぎへの道 仲村峯夫 一隅を照らす素晴らしきかな人生 照らさずとも好し また素晴らしきかなこの人生(とき)

日々、つれづれなるままに、心のおもむくままに、趣味的ハルサーの想いを…
自分探しの旅は 違う景色の見える道

「日本的な非合理の温存のみが、百年後の世界文化に貢献する」

2023-07-31 15:20:21 | 日記

      「日本的な非合理の温存のみが、百年後の世界文化に貢献する」
 第二次大戦終了1か月後に、当時20歳の三島由紀夫が自身のノートに書き記した言葉だという。
ずーと心の片隅には残ってはいたが、最近何かにつけて蘇ってくる。
 「合理的」とは、「理性や理屈に合っていること」である。
もっと、端的に言えば自らの利益に合致するか否かである。
自らの利益に合致する思考・手法が合理的でそれ以外は非合理なのである。
その合理性が行き過ぎて他者や他国が不利益を被ろうが、地球環境に重大な負荷がかかろうがすべては自由競争と自己責任で許容される。
日常的にも神の御心に反すれば、個人的には神様への懺悔で済まされる。
このように自らの立場や利益を最優先する考え方、生き方こそが近代西洋合理主義的思索(哲学)の根幹でもある。
一神教の思考や論理構成は神と自分との関係がすべてである。
すべては神の御心に沿って生き、間違いがあれば神様に懺悔し許しを請う。
世界は長い間、このような西洋的合理主義哲学が日常生活においても価値感の主流を占めてきた。
 即ち、三島由紀夫の言う武士道に集約される「日本的非合理」は「西洋合理主義」の対極にある、きわめて拙劣・稚拙な思想的生活習慣の評価に甘んじてきた。
しかし、昨今海外の観光客が感動し日本を訪れる最大の魅力が三島由紀夫の言う「日本的非合理」を温存し続けた日本人と日本文化そのものなのである。
相手への気遣い、心配りなどは全て日本の武士道の根底にある、仁、義、礼、の体現に他ならない。
目先の利益だけに拘らず、常に他者を意識し相手に迷惑になる行為は厳に慎む。
社会人として果たさねばならに行為は誠実に果たす、他者に対しては常に敬意を払い、礼節を忘れないなどはこの武士道を体現した日本人の精神文化に他ならない。
この様な武士道を原点にする、日本古来の精神文化が、いわゆる三島由紀夫の言う「日本的非合理」なのだろう。
言い換えれば、多神教の精神土壌の中で限りない多様性を育んだ精神文化、自己以外の「他者を重んじる文化」いわゆる、「他者のある文化」が日本文化の真骨頂なのだろうと思う。
78年も前に若干、二十歳の三島由紀夫が予言した「日本的な非合理の温存のみが、百年後の世界文化に貢献する」といった言葉が現実味を帯びてきたのである。
 最近やっとこれまでに経験したことのなかった新型ウイルスが、一段落し海外からの観光客を含め世界の経済活動がコロナ以前の状況に戻りつつある。
日本を訪れる海外観光客の感動の声を聴いてみるとまさに今昔の思いがある。
その代表が日本の「お辞儀文化」である。
日本の「お辞儀文化」が自己否定・卑下の象徴から、相手への最大の「リスペクトのパフォーマンス」へ格上げされたようである。
そんな中で、日本観光が以前にも増して海外の観光客の人気を集めつつある。
日本観光を選択する海外観光客の最大の目的は、日本ならではの価値感やそれに裏打ちされた日本の独特の文化があげられるという。
 海外の人が憧れる代表的な日本文化がアニメや漫画、ゲームなど日本独特の文化そのものだという。
更に外国人が真っ先に驚くことが、日本の街が都市や田舎に関わらず、空港、駅、レストランなどどこも綺麗で清潔、チリなどがほぼ落ちてないことに感動するという。
 外国人が驚くのは、まさにダントツの治安の良さであろう。
これこそがまさに世界に類を見ない日本が世界に誇る素晴らしい社会資産と言える、日本社会の現実そのものの実態と言える。
子供だけで通学する、女性でも夜間の外出が日常、電車で居眠り、忘れものが戻る。
このような日本ではごく当たり前のことが海外では異次元世界の出来事のように映るようである。
 社会インフラ・環境が素晴らしい(空気が綺麗、景観が美しい。

道路が整備、新幹線・地下鉄含め公共交通機関が素晴らしい。

点字ブロック、空港、駅が綺麗。

コンビニの24時間営業・その品揃えとクオリティ、ホテル・旅館のサビスレベルの高さ。

町中の自販機、タクシーの自動ドア、トイレのウオッシュレット化・ペーパー付で無料)
 観光名所が都市や地方のどちらにも多く存在する、どの地方にもご当地グルメが多い(バリエーションと質が素晴らしい)。
 国民のマナーがダントツに良い(列に並ぶ、大声を出さない、チリを持ち帰る、交通マナー・歩行者優先、クラクションが鳴らない、路上タバコなし。

料理が素晴らしい(寿司、刺身、焼き鳥、お好み焼き、たこ焼き、ラーメン、カレー、おでん、豚カツ、焼き肉、フルーツ。スイーツが旨い)
 「おもてなしの心」はどこでも笑顔のサービスに代表される、これも日本独特の習慣である。(気配りのサービス、ホテルのアメニティグッズ、おしぼり、水無料、チップ不要、敬語など)
 日本には古来、自分以外の他者を大切にする精神文化がある。
この原点は恐らく、あらゆる自然(現象)に神が宿るという八百万神(神道の神)信仰に由来するものと思われる。
この地上に存在するものは全てに神が宿り、すべての他者(自然も含む)を意識し大切にするという風習(文化)である。
その中でも代表的なものが、太陽(天照大御神)信仰である。
「誰が見ていても いなくてもお天道様がみている。
世間に顔向けできないことはしない」という考え方である。
 「自分が嫌なことは他人にもしてはいけない」というのは、もちろんのことである。
もし間違えたら「ごめんなさい」と素直に謝ることも相手をリスペクトする日本人の特有の習性である。
これが日本人の「謝る文化」の原点もである。
 「白か黒か」の二者択一のみの偏狭な価値基準に拘らない日本人のおおらかな多様性であり、一昔前までは優柔不断な日本人、主体性がない日本人と揶揄されてきた。
そもそも、物事に絶対の解は存在しない。

人の数だけ解は存在するというではないか。
 ついでに言えば、西洋的な価値基準は、二者択一的な一神教の「all or nothing」文化でしかない。
世界には、自分と神しかいないとする思考パターンである。
従って、過ちは全て神への贖罪で済まされる、他人に対して自分の間違いを認めるということは敗北を意味する。
そこには神と自分以外の他者(自分以外の人や自然)の介在する余地は全くないのである。
かくて、一神教の「他者のない文化」が出来上がる。
これが日本独特の「他者のある文化」との違いである。
 この様に他者・他人をおもんばかる文化こそが日本の武士道、日本人の精神文化の最大の特徴なのだろう。
西洋合理主義の対極にある、「日本的な非合理の温存こそが100年後の世界文化に貢献する」と言った三島由紀夫の言葉がわかるような気がする。
 因みに、先日女房に頼まれてスーパーに我が家の1週間分の食材の買い出しに行った。
翌朝、「食パンがない」と女房に言われ気が付いた。
買い物ワゴンの下の段に置いていた、3斤の食パンをスーパーのエントランスに忘れてきたのである。
最近何かと忘れ物の多い自分に辟易していたこともあり、最初は「たかが食パン一個なので諦めてほっておこうかと思った」。
しかし、最近話題になっている海外観光客の言葉を思いだした。
日本では「忘れ物がほぼ戻ってくる」という言葉である。
昨今の日本の現実を再確認すべく、スーパーに電話で問い合わせた。
結果は、見事「忘れ物として届けられています」の返事だった。
385円の回復以上に、日本の精神文化の偉大さに改めて感激した。
日本的非合理の温存よ永遠なれ。

 











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「考える葦」の生き方、「好きを探す」生き方は能力

2023-07-08 15:16:15 | 日記
    「考える葦」の生き方は「好きを探す」生き方
 人間は死や不幸、無知などのあらゆる惨めさから逃れることはできない。(永遠に、いつの世も)
その惨めさを癒すために人間はそれらの事から目をそらし、それらのことを考えないようにしてきた。
何か別のことで気を紛らわし、死の恐怖や惨めさを紛らわす,これが「パスカル」の言ういわゆる「人生は死ぬまでの暇つぶし」、
人生には「気晴らし」が不可欠の所以なのだろう。
「人生は暇つぶし」は多くの人が、いろんな思いを込めて使ってきた言葉なのだが、私の知る限り言い出しっぺは「パスカル」のようである。
 自然界の中で最も弱い一本の葦も、普遍的で絶対的な価値観や指針も見だせない「か弱き人間も」も生きる術は同じなのかもしれない。
死やあらゆる不幸、無知などあらゆる「惨めさ」とは無縁の自然界では葦はひたすら何も考えずに生きられる。
一方、「考える」特権を与えられた人間は「気晴らしや忘却」という人類の最大の恩恵なしには生きていけないのだろう。
かくして、「気晴らしや暇つぶし」的生き方が脈々と語り継がれるのかもしれない。
 更に、パスカルはパンセの中で「人間は他の動・植物と同じでたまたま自然発生的に発生した生物でしかない、生命は偶発的に発生した遺伝子情報を残す手段でしかない」とも言いている。
とすれば、「人間はただ、ぼーと生まれてきたのだから、ただボーと生きていればいい」。
「人間は刹那主義に生きていればいいのです」という深沢七郎の言葉も大きな説得力を持つ。
普通の人間が普通に生きていくのに、余分なノルマ感や過重な重圧に悩むことほど非生産的なことは無いのかもしれない。
人間は弱い葦ならば、もっとしっかり「弱い葦」に徹すればいいのかもしれない。
「タダぼーと生まれて、タダぼーと生きる」からスタートしてもいいのかも知れない。
刹那的であろうが、必死に考えた結果であろうが今を楽しく生きれればそれはきっと次につながる。
刹那も無限につなげれば刹那でなく無限の連鎖になるのかもしれない
楽しさの再生産こそ最大の効率化という。
好きなこと、憧れることを見つけそれにコミットし続ければいい。
まず、「好きなこと・好きを」見つけること、それが人生の最優先課題だろう。
人生で成功している人は、「好きなことをしてる人」、「好きなことを見つけた人」だという。
とすれば、「好きなことを見つけられることは能力」なのだろう。
「考える葦」の生き方は「好きを探しまくる」生き方なのかもしれない。
まずもって、「好きを探すは能力」を信じればいいのかもしれない。




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