「出さねば 入らず」は有限社会の掟
先日のネット記事で気象予報士でタレントの石原良純さんの記事を見た。
父上慎太郎さんの死去時の自宅での出来事が語られていた。
慎太郎さんが亡くなられたとき、自宅が揺れるほどの激しい雷鳴と共に近くで落雷があったという。
雷がドーンと落ちて、家が揺れ動くほどの雷の轟音に父慎太郎さんの最後のパワーを感じたという。
「わーとやっているのは、やるとまた次のエネルギーが入り新しいものを吸収できる」と思ったんだそうである。
89歳までほぼ現役で活躍された、父慎太郎さんのパワーの源は常にほとばしるほどのエネルギーを爆発的に出し続けたことにあったのだろうとの内容であった。
なんとなくわかるような気がする。
五十台の前半ごろ、渋谷の西野流の呼吸道場に6か月間だけ通ったことがある。
西野流呼吸法の基本は足芯呼吸である。
イメージ的に、足裏から吸い上げ、丹田から背骨,頭頂まで吸い上げる。
軽く息を止め、鼻、口、喉、胸から丹田におさめる。
ゆったりと吸って吐いて、ゆったりと吐くを如何に効果的にやるかが呼吸法の要諦である。
肺一杯に新鮮な空気を吸い込むためにはまず肺を空にして、その状態で空気を吸い込むことが基本になる。
限りある肺に多くの新鮮な空気を取り入れるためには、まず肺の残気量をできるだけゼロに近づける必要がある。
まさに「出さねば、入らず」である。
諸行無常,諸法無我、万物流転のこの世は万事においてすべてが、「満ちては欠け、欠けては満つ」を永遠に繰り返す。
経済活動も投資が先、精神性の代表である愛情さえも「思えば、思われる」がいつの世も普遍なのだろう。
有限社会の世の常、「出さねば、入らず」はやはり、この世の掟なのだろう。
人生で必要なのは無知と自信だけ
「人生で必要なのは無知と自信だけ」これだけで成功間違いなし、といった人がいる。
無知と自信だけで成功できるんだったら、殆どの人が成功しているのではとも思う。
しかし、実際は勝ち組と言われる成功者は数少ない。
なぜなのだろうか、 実際はきっと 無知も自信も中途半端なのかもしれない。
純粋に無知と自信のみで突っ走れば きっと成功するのだろう。
それだけで 突っ走れる人間こそが 無知と自信だけの突破力を享受できるのだろう。
なるほど そうなんだ。
「何か一つのことを突き詰めれば 行きつくところに行きつく」 「何か見えてくるものがある」ということなのだろうか。
自己流:沖縄方言「空の心」 ドウカッティー ウチナーグチ「空の心」 何事も心配するな 何も考えるな(ヌーン シワ スナケー ヌーン カンゲエーナケー)
嬉しいことだけを考えなさい(ウッサルクトビケー カンゲートォーケー)
他のことは全て 放っておきなさい(フカー ムル ウッチャンギトーケー)
なにもかも かまわず捨て置きなさい(ヌーンクィーン フンナギトーケー)
それもこれも 知らん顏で居なさい(ウリンクリン シランフーナーソーケ) そうすれば 全てはうまくいくから(アンセー ムル ナンクルナイサ)
それは間違いないから(ウレー マチゲーネーンクト)
何事もうまくいくから(ヌーンキーン ナイルグトナイサ)
先の事や意志の力ではどうにもできぬものは「ほっとけ」ばいい
天の事は天に任せ 他人のことは他人に任せ 自分の事は自分の好きに任せる、 これが人の世を生きる 幸せな人の道 。
人は定められたとき(時代)に生まれ 与えられたとき(寿命)を生きる 。
足し算で往路を駆け抜け 引き算の復路で積み荷を降ろす 。
人生の終点は プラマイゼロで丁度いい 。
先のこと 意志の力ではどうにもならぬことは それはサムシンググレートの領域 ほっとくが最上 好きなこと 楽しいこと を追い求める。
人生は たったそれだけで 幸せになれるという 素晴らしきことはやはり 単純明快でわかりやすいのかも。