ゆとろぎへの道 仲村峯夫 一隅を照らす素晴らしきかな人生 照らさずとも好し また素晴らしきかなこの人生(とき)

日々、つれづれなるままに、心のおもむくままに、趣味的ハルサーの想いを…
自分探しの旅は 違う景色の見える道

人生の第四コーナーで思うこと

2024-01-31 15:12:08 | 日記

   人生の第四コーナーで思うこと
 人生の60代はトラック競技でいえば丁度第四コーナーの地点である。
オギャーと生まれた時が人世のスタートラインである。
子供は親を選べないで天の配剤の元、命を授かるというが私はなぜかそうとばかりは思えない。
赤ちゃんという生命はDNAレベルで自らの両親を選んで生まれてくると何の根拠もなしにそう思っている。
自分が生まれてくる環境がどんなに厳しくても、ある種の障害を抱えて生まれてくるのも自分の選択かも知れない。
この世に魂の修業をするために自分でその修行のプログラムを作り生まれてくるという。
人は身体的な障害とか経済環境なども含め自分で自分の課題を選びこの世に生を受けるとも言われる。
従って身心や他のハンディを背負って生まれた生命は恵まれて五体満足に生まれた生命より遥かに高い魂の
レベルの持ち主であるということを何かの本で読んだことがある。
そんなことを言われれば何となく、なんか少し救われるような気もする。
 人生の第一コーナーでの最初の関門は高校や大学入試である、選抜試験は必ず振るいに掛けられるものがでてくる。
これが人生の最初の挫折である。
挫折を味わった人間はこの屈辱をこの先どこかで晴らそうと大抵は頑張るので失敗も大いにありでいいのかも。
何しろ人生は「究極の敗者復活戦」だと誰かが言っている。
 そして人生の第二コーナーは二番目の関門就職試験である、ここでも苦い経験を味わう人も多々出てくる。
希望の職種に恵まれなかったり、諸々の条件が悪かったり、自分の好きな仕事でなかったりする。
下手をすると就職自体が困難であったりと、兎角この世は苦労や挫折の材料には事欠かない。
 運よく就職しめでたく結婚すると仕事と子育てに追われる、人生最難関の上り坂が人生の第三コーナーである。
仕事に追われ、子育てに疲れ考えることはあれもやりたい、これもしたいで時間のたっぷりとれる定年を待ちわびる。
しかし考えがまとまる前に、というかアッという間に定年はやってくる。
これが人生最の第三コーナーである。
 現実に定年退職し時間ができると「あれもしたい、これもやりたい」が「あれもできない、これもできない」に代わる。
ヒマができる代わりに金と体力がなくなるのである、ついでに気力も無くなる。
ついには集中力と筋力の無くなった身体を持て余し下手すれば粗大ごみ扱いされる。
まことにもって人生はまままらぬものだとつくづく思うが、しかし悲観することはない。
人生には決められたゴールもノルマも無いのだから。
どの方向へどこまで行こうが、行きついた先がその人の終着駅つまりゴールなのである。
そう考えれば人生は気楽に生きられるかもしれない。
第三コーナーを回れば入試も、入社試験もイヤな残業も子育ての苦労も何もない。
そうなのだミエも外聞も何も気にする必要もない。
「今現在そっくりそのままの等身大の自分自身」でいればいいだけの話である。
それこそ、こんな気楽なことはない。
 好きな時に酒を飲み、時々は飲まれ、チョッピリ後悔したり、鶏を飼い、好きな野菜を好き
なだけ作り、気が向けばパソコンに向かいブログで言いたい放題書いても誰にも怒られない。
こんな楽しいことはめったにないと思い感謝する毎日。
 人生はやはり,無事平穏が一番良い。
病気などを含め老化に伴い生きるハードルは少し増えるが、何もないことがかくもありがたく思える人生。
「ありがとう」のひとこと。

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人は定められた時代(とき)に生まれ 必要なだけ生きる

2024-01-29 09:06:22 | 日記
     人は定められた時代(とき)に生まれ 与えられしとき(必要なだけ)を生きる
 人は誰しも定められし時代(とき)に生まれ 必要なだけ生きてこの世を去る。
与えられしときが その人に必要なとき。
いつの時代も変らない。
他人の人生に責任など持つことはできない。
それでも地球は廻っている。


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沖縄相撲にまつわる、大昔の与那原祭りの思いで

2024-01-27 09:54:48 | 日記
     大昔の思いで、与那原祭り 恒例の与那原町の夏祭りがあり女房と二人で出かけた。
 沖縄相撲や民謡イベントの始まる午後5時ごろ会場に到着し、駐車場に指定されている向かいの小学校の校門
へ向かったがあいにく満車で入れなかった。
やむなく引き換えし周辺の有料駐車場もしくは駐車スペースを探すが与那原町には有料駐車場が殆んどなく、
おまけに祭り会場周辺はどこもごった返しで駐車スペースなどなかった。
困り果てていたが念のためもう一度指定の小学校の駐車場へ戻ってみたらなんと幸運なことに、今度は満車が
解除され一番近い場所へ無事駐車することができヤッターと思い中に入った。
誘導員の若者の顔がとびっきり優しく良い人に見えた。
 会場ではもう既に民謡イベントも沖縄相撲も始まっていた。
暫く二人で民謡ショーを見ていたが、沖縄相撲の方が気になり女房を残し一人で沖縄相撲の会場へ向かった。
幼馴染のUが沖縄相撲協会の会長をしているので会場の役員席までおもむき、一年ぶりの嬉しい再会を果たした。
友人の計らいで、役員席のすぐ後方に席を一つ確保してもらいそこに座ることができた。
 大相撲と違い沖縄相撲は最初からキッチリ右四つに組んでから競技が開始され、相手の背中を砂場に着けた方
が勝者になる。
柔道や大相撲に比べ投げ技での決着が多く見ていても気持ちがいい。
どちらが勝っても豪快な投げ技で勝敗が決まるのが沖縄相撲ならではの醍醐味である。
 久米島町の副町長も隣で観戦していて、久しぶりの再会で島の話など話も弾んだ。
他に知人も2~3名いて沖縄相撲談義を含めて楽しいひと時を過ごした。
伝統的な素晴らしい沖縄相撲の歴史は今後も是非残し、更なる発展に繋げて欲しいと思う。
 これは何とも昔懐かしき、10年ほど大昔の与那原祭りでの思いで話なしである。
 
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野菜ラーメン

2024-01-25 12:40:33 | 日記
  野菜ラーメン
 ここのところ、夜更かしが多く不規則な生活が多い。
夜更かしの原因は無料のパソコン囲碁などが多い。
昨日も2時に寝て、朝は10時前に起きる。
新聞に目を通し、朝食のトマトサンドを女房と二人で食べた。
 鶏のエサをやり、畑へ向かった。
玉ねぎの苗が10cm程度に育ってきたのでそろそろ植え付け時期だが、肝心の畑がまだ準備できていない。
4~5日前から準備しているのだが、まだ2/3程度しか耕せていない。
玉ねぎの苗が約160~170本程度育っているので、せいぜい10坪程度で済むのだがなかなか作業がはかどらない。
ヤハタやコーブサーの雑草が多く一クワ(スコップ)ごとに畑に座り込むように、雑草取りを繰り返すので
遅々として作業がはかどらないのである。こんなに丁寧に雑草をとってもすぐに後から後から雑草は同じよ
うに出てくるのだがついつい草取りにのめり込む。
女房にも笑われるが つくづく自分はプロの農家には成れないと思う。
 昼は、ラーメンを畑に運んでもらいこれまた遅い昼食となった。
自分の畑で順調に育った野菜を眺めながら、自家製の野菜と卵がたっぷり入ったラーメンを夫婦で食べられるのは
「ほんとうに有難き幸せ」。
今日も実感する「ゆとろぎ」のひと時に感謝です。
 今日もこのブログの書き込み終了は深夜2時30分、でも明日(正確には本日)からは早起きの
予定です。

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ヒマな人間のたわごと

2024-01-23 10:35:33 | 日記
     ヒマな人間のたわごと
 毎日がホリデーの日々を送るようになって久しい。
暇は有り余るほどある。
かと言いて旅行などやりたい放題に好きなことができるような経済的なゆとりもない。
最近は本もさほど買わなくなった。
暇つぶしはもっぱらパソコン中心のネット情報便りの生活をしている。
 パソコン以外の時間は、ほぼ畑や庭で時間を過ごしている。
時々新聞へ投稿したり、自分のブログで好き勝手なことを書いたり
しているが、たいていは政治や経済絡みなど世の中へのうっぷん晴らしが多くなる。
何はともあれ時間を持て余すことなく過ごせるのは、ここ知名のそれこそ「ゆったりと」
流れる時空にいられるお蔭だと思って感謝している。
 つい2~3日くらい前は冬とは思えないような暖かい日差しが降り注いでいたかと思えば、
今日は外気温が、今年の最低気温11度と沖縄の寒さのピークを表示している。
普段はあまり着用しない、長袖の肌着に冬用の股引を着込んでパソコンに向かっている。
庭越しに見える冬の日本海も、所々に白浪が立つ以外は冬仕様の深い濃い目の青一色のたたずまいを見せている。
 どのテレビ局も、どの時間帯も「お笑い番組」やお笑い芸人のトーク中
心のどーでもいい?「バラエティー番組」が多い。
テレビも視聴率競争に勝ち抜くため、視聴率狙いの番組構成が多くなるのだろう。
殆んど同じお笑いや、バラエティー番組になる。
いっそのことテレビ局を1~2社減らして、テレビ局が腰を据えていい番組つくり
ができる様なればいいのではないか、と勝手に思ったりもする。
しかし、世の中はそんな単純なものでもないのだろう。
 毒にも薬にもならない?、「お笑い番組」でも見て、「笑っていなければ」世の中、
まともに生きていけないのかも知れない。
昔は「歌は世につれ、世は歌につれ」と言われたが、昨今はテレビ番組が
世相を反映するかの如く日常生活に密接にかかわっている気がする。
 世の中、ある面で中心部分が薄っぺらになり、一部のてっぺんと
どうでもいい底辺の両極に分化してしまったのかもしれない。
テレビ番組も見たい番組はほんの一部で、あとは「お笑い」と「その延長のバラエティー」
番組が分厚い底辺を構成し、テレビ界も両極化している気がする。
暇な人間のたわごと同様、当分この状態は続くのだろうか?。

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