ゆとろぎへの道 仲村峯夫 一隅を照らす素晴らしきかな人生 照らさずとも好し また素晴らしきかなこの人生(とき)

日々、つれづれなるままに、心のおもむくままに、趣味的ハルサーの想いを…
自分探しの旅は 違う景色の見える道

2000年前への憧れ

2021-02-24 09:53:51 | 日記
   最近の心にフィットする言葉  そこそこのローペースながら、少しづつ体調は確実に回復の方向に向かっている気がしている。 先日は二年ぶりくらいに自宅向かいの岩山に上がり、雑木を伐採しブーゲンビレアの枝を剪定した。  「もうあの岩山の手入れはできないのかも知れない」と真剣に考えていた退院直後の状態からすれば雲泥の差である。あの頃の状態を考えると今の現状はまさに「神様のおかげ」なのかもしれないとも思う今日このごろでもある。  「自然に無駄なものはない」と言う。理屈ではわかるような気もするのだが……。 「時のもたらすものは なんであれ 贈り物として受けよ」紀元前年ぎりぎりの古代ローマの詩人・哲学者、ホラティウスの言葉だそうだ。今、なんとなく私の心にフィットする言葉である。 2000年前の偉人の言葉に憧れに似たシンパシーを感じるのは、我々人間の精神文化は2000年前も今もあまり変わらないのだろうか。
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進化の二つのスタイル、型か目標か

2021-02-15 10:53:58 | 日記
    コロナ下であぶりだされた確固たる 進化への道  テレビ等のマスメディアでは、もっぱら次の東京五輪・パラリンピックの会長選出の話で盛り上がっている。 大雑把な言い方をすれば 会長選出の視点が大きく二つに分かれている。 第一番目の視点は、まずは女性ありきの立場である。 今回の問題の核心は日本社会に蔓延する男女格差(差別)に問題があり、まずその観点からすれば「会長は当然女性を選ぶべきである」とするもっともな意見である。  一方、他方の視点は端的に言えば「最初から女性に限定すること自体がジェンダーフリーに反する」という考え方である。 どちらも、まっとうな立派な筋の通った考え方だと思う。 目標や目的は一緒だが、その手法が少し違うようである。 最初の女性ありきの発想は「型を定めて、型から入る」方法で、ある面日本の伝統的な人材育成の方法である。 職人などあらゆる職種において その道の先達や師匠の技・手法 即ち「型」を習得し次に進むという方法である。 このような「型より入りて、型を出ずる」というような名人芸的な手法は、生涯「道を追い求める」日本古来の文化に近いのかも知れない。  一方、目標を定め一気にその達成を目指す手法は、農耕民族の遺伝子を多く持つ日本人には苦手の部類かも知れない。 急速な変化や大きな革新は多くの日本人は支持しにくいかもしれない。 いずれの手法を採用しようが、今回の日本社会のジェンダーフリーへの変化は多くの国民の共感が得られるだろう。  タダ、如何なる選定手法であれ過去の人(年寄の男、特に政治家)だけは願い下げだろう。今回の問題は単に人間的に正直、実直だけが問われているのではないのだろうから。
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「らしく」格好悪いは 現代社会の消えゆく表象

2021-02-13 12:43:58 | 日記
   「らしく」格好悪いは 現代社会の消えゆく表象  東京五輪・パラリンピック組織委員会の森会長が、女性蔑視発言で国内外の批判を受け辞任した。抜き差しならぬ泥沼状態での辞任はある面、極め付きの格好の悪い辞任劇であった。 本人の言葉ではあるが再現するのも憚るような まさに「掃きだされた」老害の粗大ごみの如く映ったのは多少の同情感さえも漂わせた。  「ある面 日本人の本音が含まれているのかも知れない」と発言した経済界を代表する著名人の言葉が印象に残る。 おそらくご本人は、現在も何故こんなことで?自分が辞任せざるを得ないのか納得はできてないだろうと思う。  戦後の日本は空前の経済発展を遂げ、そのリーダーたちは数々の成功体験を積み上げてきた。 失敗体験がないまま、日本社会は1990年代のバブル崩壊後失われた30年ともいわれる未曽有のデフレ社会に突入し、社会の劣化が叫ばれるほどの政治・経済・社会の停滞と混乱を招いている。 日本のリダーたちは失敗体験がないまま、年を取りそのまま男社会が続くことになる。失敗の経験がない、年寄だらけの男社会は増長するだけで過去の成功例に胡坐をかき謙虚さを失い、反省することも責任を取ることもく30数年が無為に過ぎてしまった。 かくて、男尊女卑の年寄だらけの男社会が今も存続している。何も年を取ることが悪いことではない、だれでも年をとる。男偏重の、年寄中心の社会構成がが問題なのであろう。 極めて不透明な組織運営や密室での意思決定の在り方は不健全な社会の象徴でしかない。我々の昭和の時代にも良いところは沢山あるしかし、時代は移り行く新しい時代は格好悪い「らしさ」とは決別すべきであろう。 今必要なのは若い人材や女性の社会参画である。年寄だけの男社会では自ずとその範囲の視野しかなくなる。将来を見据え住みよい社会の建設には若者と女性の社会・政治参画が不可欠なのだろうと思う。
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最近気になること(大食い番組&水資源の枯渇)

2021-02-12 07:40:55 | 日記
    最近気になること(大食い番組と水資源の枯渇)  暇に任せて結構テレビを見ている。最近 何かにつけて内容へのダメ出しやにわか解説者になったりするようで、女房の評判はあまり芳しくない。 極力控えるようにはしているが、やはり中には違和感を感じる番組もいくつかある。  中でも一番気になるのは、「大食い番組」である。ラーメンを25杯も食べたり、ステーキを何グラムも一気に食べたりする番組等である。 我々の父母や祖父母が生きていたら「そんな罰当たりな…」というのかもしれない。「時代が違う」というかもしれないが、そうなのだあれからは既にふた時代も違うのだ。  ディレクターも個人の生活が懸かっているし、テレビ局もこのコロナのご時世で新たな番組作成がむつかしかったり、更にはスポンサー探しが厳しいのもわかるような気もするが、こんなご時世だからこそ自粛すべき内容ではないかと思うのだが。  職を解雇され、その日の食事や明日の生活にも事欠く世間の実情なども同じテレビ局のニュース番組でも、連日報道されている。 このような大食い番組への違和感は、何も今のコロナ禍中の問題だけではない。 世界でも飢えに苦しむ子供が大勢いることもテレビニュースでも度々見聞きする。 昨今は飽食の先進諸国で毎年過剰に消費される肉牛を育てるために世界の水資源が危機的状況にあると言われる。 水資源の70%は農業用水でさらにその多くは肉牛飼育のためのトウモロコシ等の生産に使用されるという。 2030年代で世界の地下水のほとんどが枯渇するかもしれないという人もいる。肉どころか一般の食料さえも危機的状況が危惧されているのである。 人類の一部が、今迄みたいに経済効率と利潤の追求だけで成り立つほど地球は寛大ではない。 「今だけ、カネだけ、自分だけよければいい時代」はとうに過ぎ去っているはずである。  一方、「逆もまた真なり」とか、「ある視点は 必ずある真実を内包し 同時に矛盾や盲点をも内包する」さらには、「物ごとに良いも悪いもない、考え方でいかようにもなる」という古人の言葉もある。「人生に解などない、とりあえずの答えがあるだけ」というのもうなずける。 それでも、あと10年程度で地球の水資源が枯渇の危機に見舞われ、2050年代には地球の人口が100億人に達し、貧富の差がさらに深刻化し世界的な食糧危機、慢性的な物不足のインフレ社会が到来すると言われる。 子や孫の世代を考えると、さすがに恐ろしくなる。 単なる杞憂で、たかがテレビ番組で済めばいいのだが。
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