ゆとろぎへの道 仲村峯夫 一隅を照らす素晴らしきかな人生 照らさずとも好し また素晴らしきかなこの人生(とき)

日々、つれづれなるままに、心のおもむくままに、趣味的ハルサーの想いを…
自分探しの旅は 違う景色の見える道

「閣議決定」の乱用は岸田内閣の落とし穴

2022-07-24 10:14:05 | 日記
    「国葬の閣議決定」で墓穴を掘る岸田内閣
 ネット開けば、毎日のように清和会(阿部派)を中心にした自民党と旧統一教会の関連記事が目に付く。
統一教会を日本に導いた岸元首相の時代から、現代までの関係は驚くほど連綿と引き継がれている実態が表面化する。
 にわかには信じがたいのだが、国会議員の秘書(私設・公設)として、国会で働いている現役信者もいるという。
当然それは有力国会議員の推薦という。
更に信じがたいのは、準会員を自ら告白した議員もいるが関係疑惑が取りざたされている国会議員の中には、
大臣や議長経験者もいるという。
もはや驚きを通り越して、政治家と旧統一教会の闇の深さに愕然とするしかない。
旧統一教会と政界の繋がりは、長い歴史の中で実に根深く連綿と引き継がれその様はまさにストレス癒着といえる
様相が常態化している。
末恐ろしささえ感じられる。 
「法律はクモの巣と同じ」など例えがある。
弱い虫はひっかかるが、強い虫はクモの巣を破り逃れる、の例えである。
オウム真理教が潰されたが、旧統一教会には法制を含め社会規制の兆すら見えないのは何なのだろうとも思うのだが。
 このような明らかに反社会的な宗教団体との癒着が疑われる、流れのまま前政権譲りの悪名高い閣議決定だけでの
国葬決定は本来の政治の在り方どころか、岸田内閣の存続にさえも影を落としかねない。
 歴代大統領は全て国葬が原則の米国でさえ、ウオーターゲット疑惑のニクソン大統領は国葬ができなかった。
新自由主義の経済政策を掲げヨーロッパ経済をリードしたあの鉄の女、サッチャアー首相さえも、かのチャーチル首
相以来の国葬には該当していない。
 過去20~30年の日本の政治・経済の現状・実態、国会運営や政治手法など問題が多すぎる。
更には法的な根拠もなく、またいろいろな意味で国民の大多数が納得する議論もなしに閣議決定という「打ち出の小槌」
は振るうべきでなないと思う。
個人的怨念による事件を、ことさら拡大解釈しイデオロギーや民主主義、果ては正義というなんの関係もない大儀に置
き換え、ことの本質を矮小化、曖昧化することはまさに、政治の私物化であり、事件の政治利用そのものでしかない。
 今となっては、もはや「モリ、カケ、サクラ問題」の解明は難しいのだろうが、今後のためにも今回の山上事件の背景、
政治と旧統一教会の関係を明らかにしたうえで、法制を含めて今後の具体策を早急に検討すべきであろう。
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山上問題は、容疑者の「心の理論」の欠如、指摘だけでは問題の本質は解決しない

2022-07-18 10:22:17 | 日記
  茂木健一郎先生の「心の理論」の欠如指摘は問題の一側面
 週刊ポスト2022年7月29日号の記事として、今朝のネット記事に昨今の日本を代表する、脳科学者
茂木健一郎先生の記事が掲載されていたが、少なからぬ違和感を感じた。
「いわずもがな、今回の山上容疑者の行為はいかなる理由があろうとも許されるものではない」こと言うまでもない。
茂木先生によれば、「昨今は全体を俯瞰できる人が少なく、個人の身がってな思い込みを他者にぶつけることが多い」いう。
今回の事件も、いわゆるこのような「心の理論の薄弱な者が引き起こした事件で歯がゆい」との思いを語っている。
 さらに先生は、「日がな全国を駆け回っている阿部元総理と団体(旧統一教会)との関係はいかほどであったか……。
(自分の)脳内グラフの中で団体との関係値は、少し考えればわかること。」などと、おおよそ情緒的な推論を展開している。
さらに「ネット情報だけで両者の関係を勝手に判断する、心の理論の薄弱さが原因と指摘している。
 しかし、今回の問題はただ単に容疑者の個人的な資質や問題を指摘するだけでは何の解決にもならないだろう。
問題が起こる場合は必ず、それなりの社会的な背景があるといわれる。
個人的な問題を含めて、そのバックグラウンドをしっかり検証しない限り同じ問題はいつか必ず再現される。
「誰かに起こり得ることは、誰にでも起こりうる」というゆえんである。
 阿部元首相が過去に旧統一教会かその関連団体の代表者や団体の活動に賛同のビデをメッセージを寄せたことは周知の事実である。
そして、現在も自民党などの少なからぬ政治家と教団の結びつきも取りざたされている。
 しかも、その団体は過去には人権無視も甚だしい合同結婚式などという非人道的なカップリングで世間の批判を浴びたこともある。
現在でも極めて悪辣な洗脳的手法による献金集めや、あくどい霊感商法などで多くの信者とその家族を苦しめている現実もあるようだ。
まさに宗教団体というより、彼らの言うサタンの集団でしかない。
結果的に、家族の財産の殆どを奪い去られ家族がガタガタに崩壊し底知れぬ地獄の苦しみを味わってきた容疑者が、
命がけで一家の怨念を晴らそうとの思いを募らせる心情もそれなりに理解できる。
 色々考えた挙句、いま日本で一番影響力のある教会のシンパ(少なくとも容疑者はそう考えた)
阿部元首相の殺害に思い至ったのであろう。
そこには政治的なイデオロギー性や体制への不平・不満などは感じられない。
あるのは、ひたすら教会への個人的恨みそのものでしかない。
どう見ても、イデオロギーや個人の資質(心の理論)など理屈の問題ではないのである。
そして、その恨みを晴らす対象がたまたま、一番影響力のある教会シンパ阿部元首相だったのである。
「世界平和と家族を大切にする趣旨に賛同した」などと見え透いた言い訳で選挙絡みのお付き合いをするのであれば、
ほほ被りで反社会勢力の応援をしているに過ぎないのではないのか。
少なくとも国会議員たるものは、反社会性を疑われるような宗教団体との接触は重々こころすべきであろう。
 今早急に考えるべきことは、旧統一教会など著しく反社会的な宗教団体などの活動規制や宗教団体と政治家のかかわりなど、
の法制的な整備が求められる。
言い換え、隠ぺい、資料の改ざん疑惑がまかり通る国会運営や、閣議決定で簡単に憲法解釈を変える政権運営など、
不透明性と誠実性の欠如こそ「心の理論」の欠如より先に問題にされるべき優先課題だろうと思うのだが。
その方が、個人の資質の指摘より、俯瞰性があると思うのだが。
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安倍元首相の国葬について……、歴史の判断に耐え得る冷静な判断を

2022-07-15 10:32:13 | 日記

   安倍元首相の国葬について、歴史の判断に耐え得る総合的な判断を
 安倍元首相が参議院選挙の応援演説中に一市民の凶弾に倒れ一命を失った。
誰もが予想もしない全くの不測の出来事で、国内はもちろん諸外国でも驚きを持って報道された。
 国内でも今回の蛮行に対して、当然多くの非難の声があがっている。
今報道されている限りの情報では、犯人の母親による教団への多額の献金で家庭が崩壊し人生のすべて狂わされたとする、犯人の個人的な怨念が引き金になった事件である。
安倍元首相が過去二度ほど、旧統一教会の活動に対する賛同メッセージを送っていたのが犯人にとっては余程印象に残っていたのかもしれない。 
元々は旧統一教会への怨念の矛先がたまたま、安倍元首相に向けられ、不幸にも理不尽な個人的な怨念の標的になってしまったものである。
一部マスコミなどで報じられるいわゆる「民主主義に対する挑戦」とかイデオロギー絡みの要素はほぼ薄いように思われる。
政治絡みのイデオロギー的な要素があろうがなかろうが、また如何なる個人的な怨念があろうとも今回の問答無用の殺戮は許されるはずはない。
安倍元首相にしてもこんな理不尽な個人的な怨念で志半ばの人生を奪われることは残念至極であろうことは容易に想像がつく。
 そんな中で、一部の報道では国葬の話も出ているようだが、その辺は大多数の国民が納得できる具体的な議論が必要であろう。
安倍元首相の政治的な功績については、当然いろいろな評価があってしかるべきである。
 この20~30年の日本社会の政治経済の情勢等諸々の総合的な判断も必要なのかもしれない。
長きにわたって首相を務め、未曽有の外遊件数を誇り日本外交や日本の発展に貢献したと主張する一部の情緒的な主張の先行が気になるが。得失点も含めて多くの国民が納得できるような総合的な検討が必要なのは論を待つまでもないのだろう。
 ニ度に及ぶ長期政権の座にあった安倍内閣の評価がきちっとされて初めて、国葬の話は検討されるべきであろう。
日本社会はこの20~30年間、株価は上がり、企業の内部留保は拡大するも実質賃金が上がらず、格差と貧困が拡大し続け特に母子世帯などの生活環境なども改善がみられる気配はないような気がする。
 デフレ脱却を掲げて20年も継続したゼロ金利は初期の目的にも程遠く、生活物価のみが上昇するなど経済回復の気配さえも見通せぬ状況が続いている。
アベノミクスの最大の目玉である異次元のゼロ金利政策は、もはや「引くも地獄、進むも地獄」の見るも悲惨な泥沼化の状況にしか見えない。
 一方、新型コロナのパンデミック問題、気候変動、国防予算、少子化、人口減少なども問題山積の状態が続いている。
 中でも一番の気がかりは在任中の政治姿勢の問題かもしれない。
全ては自公の多数与党の数の力をバックに「言葉の言い換え」や「隠ぺい」果ては、多くの「改ざん疑惑」が取りざたされるも国会でも真相が究明されたことはただの一度もなかったような気がする。
古来、日本の文化は「許す文化」といわれる。
「生き終えた人間」には生前の業は問わない、という不文律もあり、国民が元総理の無念を思いご冥福を祈るのはごく自然のことである。
 ただ国葬云々に関しては、あくまでも冷静な判断が必要である。
必要以上に功績の過大評価も過小評価もすべきではない。
単なる個人の怨念による事件を拡大解釈し政治利用の道具に将来に大きな禍根を残す。
日本の国の在り方や将来の歴史に恥じない判断なのか、否かを基準に広く議論すればいいだけである。
 間違えても、閣議決定を「打ち出の小づち」的に利用する最悪の手法だけはすべきではないと思う。
政治は結果ともいわれるが、一国の指導者に求められる資質は人間的な誠実さと政治家としての透明性が最優先である。
その点がクリアされれば大多数の国民は国葬に異議を唱えることはないと思う。
その時は、英雄を送るにふさわしい国葬を厳粛に執り行うべきであろう。 
個別の業績を具体的に総括し大多数の国民が納得のできる結論を出してほしいと切に願っている。

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