ゆとろぎへの道 仲村峯夫 一隅を照らす素晴らしきかな人生 照らさずとも好し また素晴らしきかなこの人生(とき)

日々、つれづれなるままに、心のおもむくままに、趣味的ハルサーの想いを…
自分探しの旅は 違う景色の見える道

死後の世界

2013-11-29 09:57:02 | 日記
   死後の世界
 死後の世界、あの世、臨死体験などの世界は近代科学では殆んどが

「科学的ではない」、「非科学の世界」として排斥されてきた。しか

し、一方ではその存在がずーと信じられ臨死体験などの体験データー

等が詳細に報告されるケースも増えてきた。昨日の沖縄テレビの番組

で「死後の世界は実在したSP]、自らの臨死体験を科学で徹底分析と

いうタイトルのテレビ番組を放送していた。米国の著名な脳神経外科

医が自らの臨死体験を元にあの世の存在をほぼ確信するという内容の

番組である。

 エレン・アレキサンダーは現役の脳神経外科医でそれまでは「臨死

体験」や「あの世」の存在を全面否定・排斥する立場であった。

2008年彼はある日突然、急性細菌性髄膜炎を患い意識不明の昏睡状態

に陥り、医師も家族も完全に回復を諦めたが奇跡的に7日目に意識を回

復しこの世に生還したという。昏睡状態の中で彼が体験したのはこれ

まで彼が患者から、幾度となく聞いた臨死体験そのものであった。真

っ暗闇の中から光の柱に吸い上げられるように、ピンク色の雲のような

世界まで舞い上がる。そこは花に囲まれ、鳥や天使のようなもの

が飛び交い、美しい音が響き渡る、今まで体験したことのないような居

心地のいい空間だった。そこで青い目の美しい女性に合い、その女性に

この世へ帰るように言われて意識を取り戻し、この世への奇跡の生還を

果たすという内容であった。

 彼は昏睡状態の間、彼を見舞いに来た家族、親戚、友人をはっきりと

記憶していて、尚且つ彼が幽体離脱状態(三途の川?)で合った青い目

の女性は彼が一度も合ったこともない(もちろん写真も見たこともな

い)亡くなった、彼の妹であった。このような昏睡状態でのこれほどの

鮮明な記憶の存在は脳の働きでは説明がつかないという。

また、大脳皮質や脳幹の代替機能や大脳再稼働(レム睡眠状態)でも説

明がつかないという。考えられる可能性は全く別の「脳以外の記憶メカ」

の存在があるのかも知れないとのことである。

人間は極限状態では細胞レベルでも全ての代替機能を発揮す可能性が

あるとも聞くが、ホントにすごいというか実に摩訶不思議である。

 1996年に発刊された「死後の世界を突き止めた量子力学」、コンノケ

ンイチ著書では究極の未来予測として、「人は皆、現実(明在系=物質

界)と同時に、霊界(暗在系=超ミクロ世界)にも生きていることをは

っきり認識できるようになる」と言っている。

我々が認識する物質世界は実在しない。この世界の事物は全てあなたの

意識が作り上げたもので、自然界の全ては千変万化し、誰も見てないと

きは実在しない。その世はバーチャルシアターであると言っている。

 また、理論物理学の一部では、あらゆる物質の元は量子であり、人間

の体も意識も魂も全ては「量子」から成り立っていて、臨死や幽体離脱

時には魂は体から遊離し、脳の作用とは別の存在となる。従って、死ん

だ後も「思い」は残り継続する。この「思い」が「魂」であり、日常的

に取り留めもなく感じる「思い」が魂の本体であるといううのは実に面

白く興味深い。

つまり、死ねばあの世は肉体も苦痛も苦しみもない「思い」だけの世界

で、この世は「思いと、肉体」の世界、そしてこの世は「肉体保持本能」

がでしゃばるエゴと欲得が蔓延する苦悩の世界。

それでも両方とも「思い」が支配するのは共通、表裏一体の世界なのだ

ろうか。

 臨死体験は心肺蘇生をした人の4~18%の人が体験するという。そして

臨死体験をした後は生体エネルギーが増加し健康状態はもちろん精神的

にも豊かになるという。やはり僅かな期間とは言えサムシング・グレート

に接した功徳なのだろうか。

今回のエレン・アレクサンダー医師も「今を生きる意味をより理解できる

様になった」と述懐している。「思い」だけの世界、一体どのような世界

なのだろうか。「思いと肉体のこの世」しか知らない通常の人間にはなか

なか理解のし難い世界なのだろう。
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歴史の判断に耐えうる、正直者に

2013-11-27 11:35:29 | 日記
  歴史の判断に耐えうる、正直者に
11月26日付の琉球新報の屋冨祖氏の論壇記事で西銘さんのブログの存在を知った。例の11

月6日付の西銘さんのブログを読ませてもらった。本人があの短いブログで二度もつぶやい

ている「ボクは、正直である」、「ボクは正直者だ」という自己主張に全く同感である。

西銘さんがおいくつになられるか私は知らないが、彼ほど純粋無垢に自分の心に正直な大人

も珍しいと思う。自らの普天間飛行場の県外移設の選挙公約は守らなかったが、普天間の固

定化を避けるため辺野古容認へ舵を切ったのであって、これはあくまでも沖縄県民の為であ

り許されるべきであると確信している。その前段で昨今の食品偽装の問題では、「この程度

は許されると思っているのだろうか」、「人間は、みんな、見ているよ、良いことも、悪い

ことも」との自分の父上の教えを例えに食品偽装を非難している。

幾つになられても謙虚にお父様の「金言」を支えに生きておられる、まことにご立派である。

 11月26日の琉球新報の一面記事、「自民5氏辺野古容認」の記事の下にその5氏(西銘、

島尻、国場、宮崎、比嘉)の写真が掲載されており、5氏の雰囲気を伝える両極の印象がとて

も興味深いものがあった。西銘、島尻両国会議員は「心、晴れ晴れ」かは知らぬが実に堂々と

した態度で、「我、天道を行かん」の心意気。一方傍らの国場、宮崎、比嘉の三名の国会議員

は、首うなだれ、目は鬱、天を仰ぐかのような各氏のそれぞれの表情、まるで教頭先生に叱ら

れた小学一年生のような雰囲気、現在の5氏の心境が如実に読み取れて実に印象深い。

 この5氏の写真や公約撤回の弁を聞いてもこの5氏が如何に正直者であるかが良く解る、何

しろ全員とも自分に正直である。潜在意識の彼方にある、「国会議員でありたい」、「辞めた

くない」、「辞めることなど考えたくもない」のが正直に見て取れる。5氏とも政治家として

の正義・大義をさも窮屈に振り回し、有権者に理解を求めようと必死である。

「普天間の固定化は是非とも避けるべき」、「普天間の危険除去が最優先」、「県民の安全と

命こそ最優先」、「その為にはあらゆる選択肢も排除すべきではない」という。

彼らが主張するこの論理は正当性があり、正しい主張である。しかし、ものごとは科学を含め

全てがある前提の下でしか成り立たない。この正直な5氏の主張・彼らの正義が成り立つ前提

条件は「辺野古以外ありえない」という絶対的な前提条件である。鼻から普天間の移設は辺野

古しかありえないなら、その危険除去は辺野古移設しかなくなる。彼らの正当性の根拠はこん

な単純明瞭な論理に基づくものでしかない。一つの前提、それに基づく、個人の信念はあくま

でも個人の正義に他ならない、個人の正義は人間の数ほど存在する、ましてや天道には程遠い。

 天道を見極めるのに個人の願望ありきではホントに心もとない、個人の中になど天道は存在

しえない。県民、国民に広く、深く寄り添ってこそ公平・公正な判断も出来よう。

只の正直者で政治家が勤まるなら、政治家は歳が若いほどいい、若いほど世に擦れてない可能

性が高い。正直や純粋無垢だけで政治が務まるなら政治家は年齢の上限制限をした方がいい。

 「九州各県を回ったが県外移設の可能性はゼロに近い。党本部や本土の大勢が辺野古移設で

しかなく県外移設は絶望的だという」。従って、沖縄の民意を受けて当選したにも関わらず公

約を破棄し辺野古容認に転じ、なおかつ、辺野古移設を推進し新人国会議員に容認を迫る。

 沖縄の民意が県外移設にあるなら、如何なる困難が伴おうとも、自らの身命を賭けて県民の

先頭の立って、県民の長年の想いを成就するように働くのが県選出の国会議員の務めではない

のか。後世に恥じない、歴史の判断に耐えうる県選出国会議員であって欲しい。

正直者の頭にもいろいろな形容詞がつく、愚直なまでにも県民に寄り添う正直者であってほし

いと思うのだが。
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無節操極まりない人種

2013-11-25 13:05:46 | 日記
   無節操極まりない人種
 「無節操極まりない人種」の集団がいる。沖縄県選出の自民党国会議員団である。西銘恒

三郎、島尻安伊子、国場幸之助、比嘉奈津美、宮崎政久の5名の国会議員団である。想定内

と言えば想定内ではあるが、しかしあまりにも貞操のカケラも見せぬ無節操ぶりにあきれて

腹立たしさも通り越して情けなくさえなってくる。5人とも昨年の衆院選挙、今年7月の参院

選挙で普天間飛行場の県外移設を選挙公約にして当選を果たした国会議員の面々である。

選挙から1年又は半年足らずの間に、見事全員が選挙時の公約をいとも簡単に破棄し、辺野

古移設の容認に舵を切った。

「自らの保身を考えれば当然の帰結である」とは誰も言わなかった。恥ずかしくて言えない、

のでその代わりに普天間の危険性の除去のためには「容認しかない」いうしかないのである。

そのことは今に始まったことではないが、選挙前に言えば落選する可能性が極めて高い。

当選するためには自民党本部に逆らっても県外移設を言うしかなかった。

自民党本部も、そのことは先刻承知の上で党本部とのねじれに目をつむり、候補者同様に選

挙民を欺いて全員当選を果たした。

 しかし、状況は変わったのである。当選を果たしたのであと4年は選挙の洗礼がない、党本

部に党籍離脱をチラつかされて恫喝されると、ひとたまりもなく辺野古移設の容認へと変節

してしまった。

組織は如何なる組織も一旦組織されると、その瞬間から組織本来の設立趣旨よりも組織保存

の方へ動き始めるといわれる。政治家個人も同じなのだろうか、理想の政治・或いは政治家

を目指し選挙に臨むがいざ当選してしまうと誰彼もなく、自らの保身が最優先し、その中で

「正義のありか?」を探さねばならないのだろうか。

 「普天間の固定化の回避、危険性の除去の為にはあらゆる選択肢を排除してはならない」

という、もちろん一理はある。しかし、辺野古移設が絶対条件になる理由は何一つないし、

むしろこの間の沖縄への過重負担を考えればやはり県外移設が当然ともいえる。

先の菅官房長官の「辺野古以外ありえない」発言に見られるように、政府・自民党は鼻から

あらゆる選択肢など考えてもいない。最初から最後まで辺野古ありきでしかない。

今までは猫をかぶっていた菅官房長官の先の「辺野古以外ありえない」にすべてが集約され

ている。

 状況が変わったので、公約を撤回し辺野古移設の容認へ舵を切る。党の国会議員として党

の方針に従うのは当然と言うのなら、なぜ党の公約に反した選挙公約を掲げたのか。

党の方針に反して選挙公約を掲げるも、党の方針への順守を迫られるのも全ては選挙民とは

関係ない。すべては党と個人の都合でしかない、そこに存在するのにはあくまでも公約を守

るか一方的に破棄するかの信義の問題である。政治家の資質、個々の人間の資質の問題に尽

きる。

個人の都合で変わる大義や正義は存在するはずもないではないか。

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孫の少年野球

2013-11-25 10:35:11 | 日記
   孫の少年野球
 昨日おとといの土・日は孫の少年野球の応援に行った。孫は小学校の4年生で豊見城のあ

る少年野球チームに所属している。孫が小学1年の頃までは那覇でその孫と同居していたた

め、私はその孫に「お前は契約金10億円のプロ野球選手になれ」とことあるごとに言って

きた。勿論壮大な願いを込めた「爺心」である。もの心がつく前から「プロ野球選手にな

れ」という私の口癖を聞いて育っているので、多分にその影響も受けていると思うが孫は豊

見城へ引っ越して3年生になってある少年野球チームに入った。勿論私は大変うれしかった、

自分が野球好きなこともあるが、プロ野球の選手になれるか成れないかは別にしてスポーツ

は親が教えられない、人生で大切なことを多く学ばせてくれるからである。

 そして孫が少年野球チームに入ったことを知ると今度は私の夢と願望を込めて「希望ポジ

ションは投手」が良い、のではと最初に助言した。野球を始める小学校の2~3年生で誰も適

性や素質なんかわかるはずもないのだから、まずは自分で希望しなければ叶うはずはない

からである。

只、孫の父親も高校野球をやっていたし、彼の弟は甲子園での投手経験もある。勿論そんな

ことが全てではないが孫の現在のポジションは投手と捕手と三塁手である。

4年生になって孫が最初にマウンドに立った時は鳥肌が立つほどの興奮を覚えたことを今で

も思い出す。

 今度の大会は豊見城地区の4年生以下の地区大会である。土曜日の第一試合に孫は先発投

手、そして4番打者で出場し、5回完投の、17対4の大差で勝ち2回戦へ進出した。その日の二

回戦は孫は4番三塁手での出番である、この試合も9対7の接戦を制し、日曜日の準決勝へコ

マを進めた。いずれの試合も孫は複数安打を放ち、大いに勝利に貢献した。

言うまでもなくこの日の酒は格別に旨かった。

 日曜日の準決勝では孫は3塁手と捕手で出場した、この試合は前半大苦戦したが結果は、

5回裏5対4の劇的なサヨナラ勝ちで勝利をおさめ午後の決勝戦に駒を進めた。

優勝の係る午後の試合は全国大会の勝利の経験もある強豪チームとの対戦である。

孫はピッチャーで健闘したが初回に1点、2回に2点を取られ、結果3対ゼロの完封負けを喫

してしまった。惜しくも優勝は逸したがマウンドで必死に力投する姿や、バッターボックスで

凛と構える孫の姿、塁間を必死に走り抜ける孫の姿を見ているとホントに感動の一言に尽きる

、良くぞここまで健康に育ててくれたと娘夫婦に対する感謝の気持ちも含め、ありがたいと思

う。

 反面複雑な気持ちもある、孫は球場で我々夫婦が目だった応援をするのを余り喜ばない。

従って球場ではあまり目立たない場所で静かに応援することにしている。いずれにせよ、1歳と

3歳の孫の面倒を見ながらの応援は我々夫婦に取ってはこの上なく楽しく、元気のもらえるひと

時でもある。
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肉体は消耗品

2013-11-20 13:56:28 | 日記
  肉体は消耗品

 最近人間の身体は消耗品だとつくづく思うことがある。消耗品とは消費すれば、あるいは

使えば消耗してなくなる物のことである。また使わなくても、消費しなくても時の経過とと

もに消耗し・摩耗し消えてなくなる。

だいたいこの地球、この世自体が三次元の世界であり、有限の世界の代表である。

現実はあのミスタージャイアンツの長嶋さんが現役引退のさい発した「ジャイアンツは永遠

に不滅です」の名言道理にはいかないのである。万物は流転し、すべては移ろい、変わりゆ

く、この世の当然の理である。

 人間はこの世に生を受け、20代をピークに誰もが確実に身体は消滅の方向へ向かう。

「人間50年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり、一度生を得て、滅せぬ者のあるべ

きか」とあの信長が桶狭間の合戦に出向く前に舞ったといわれる、敦盛の一節が象徴的に思

い出される。

 60歳も半ばを過ぎ、立派な前期高齢者の仲間入りをした昨今、我が人生の盟友ともいえる

酒にめっきり弱くなった。酔っぱらうまでの時間が早くなり、酒量も格段に減った。食欲も

あるが食事の量も若い時に比べ格段に落ちた。

物が豊かになり、酒も食事も普通の生活レベルでも結構良いものがいつでも手に入る。

特に酒類の充実は昔に比べ質・量ともに格段の感がある。我々の若い頃に比べ地元の銘酒泡

盛も、日本の伝統的な日本酒、ワイン、ビールなどの品質はまさに驚異的なほどの進化を遂

げ格段に美味くなった。さらに、高くて手の届かなかった外国産の酒類が関税の関係で安く

なり、多くの外国産のワイン、ビール、ウィスキー等が比較的安価で手に入るようになった。

ホントに有難い良き時代になったものである。

 「カネがあるときは暇がない、暇がある時は金がない」の例えではないが、「暇はあるが

体力がない」が昨今の実感である。泡盛原酒の10年古酒はほんとに旨い、日本酒もどぶろく

も大好きで全国の地酒を全て飲みたい、旨いワインもシャンパンも飲みたい

と思うが、如何せん普通の人間の人生の酒量の8~9割がたを飲み干してしまっている。

おまけに高血圧や飲み過ぎによる成人病の予備軍寸前の心配もある、アルコール摂取過剰に

よる痴ほう症になるのもみっともないし、第一好きなお酒にも申し訳ない。

若いころから酒を美味しく飲むための健康管理はしてきたが、その甲斐あって私の身体は生

涯のアルコール摂取量のキャパに限りなく近くなている。残り僅かなアルコールの摂取キャ

パを大切に旨い酒を飲みたいと思っている今日この頃である。今日は久しぶりに息子(三男)

が訪ねてくる、東京の次男が送ってくれた旨い日本酒を二人で飲むために取り置いてある。

残り少ないキャパを息子との楽しい酒のひと時に使えるのは消耗品の最高な有効利用だろう。 
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