ゆとろぎへの道 仲村峯夫 一隅を照らす素晴らしきかな人生 照らさずとも好し また素晴らしきかなこの人生(とき)

日々、つれづれなるままに、心のおもむくままに、趣味的ハルサーの想いを…
自分探しの旅は 違う景色の見える道

知事選に見る欺瞞、「語る真実」と「語らざる真実」

2018-09-29 02:05:08 | 日記
    知事選に見る欺瞞、「語る真実」と「語らざる真実」
 明日30日はいよいよ沖縄県知事選挙と宜野湾市長選挙の投票日である。
いずれも実質、辺野古反対候補VS賛成候補の一騎打ちになっている。この間の世論調査を見ても最大の関心事は辺野古である。
しかるに、辺野古賛成を自認する県知事候補も宜野湾市長候補もいずれも辺野古に関しては一言も触れない。
両候補とも明確に辺野古移設に賛成ながらも、辺野古の「への字」も語らない徹底ぶりである。
地元紙の世論調査でも7割強の有権者が辺野古を最重点課題に掲げており、辺野古推進を前面に出せば当選などおぼつか無いので当然の帰結なのだろう。
 徹底して辺野古を語らぬ自民系候補は「対立より対話」を強調し、政府与党からの予算獲得の可能性を強調し経済の発展を推進すると言っている。
一方の、辺野古反対候補は辺野古への新基地建設の反対を明確に主張し「平和と経済発展、誇りある豊かな沖縄」の建設を明確に掲げてる。 
 昨今の日本政界は「言い換え」と「黙して語らず」が最大のトレンドになっている。
自らに都合の悪いことは、臆面なく言い換え、公文書なども平気で改ざんしてしまうなど国会の場でもウソと欺瞞が平気でまかり通っている。
どうやらこの国会の流れは、完璧に自・公推薦の知事候補と宜野湾市長候補に引き継がれているようである。
 モリ、カケ隠しならぬ辺野古隠しである。
辺野古問題のキーワードは「0.6%対70%問題」である。沖縄の歴史的な構造差別の問題は全てがここに凝縮される。
度重なる航空機事故、昼夜違わぬ爆音被害、後を絶たぬ軍人軍属の凶悪事件や事故などは全てが0.6%対70%の異常な米軍施設の過重集積が原因となっている。
更に、そこに輪をかけているのが前近代的な不平等条約、日米地位協定である。
戦後70年以上が過ぎても、沖縄の政治的かつ構造的差別は一顧だにされない。
 沖縄のこんな不条理や不合理に目をつぶり「対話と協調」による経済発展のみを主張するのは、欺瞞そのものであり、政治家としても怠慢の誹りを免れまい。
こんな歴然とした沖縄差別に加担する自・公推薦の候補者からは、自己保身と自己中の心しか見えない。
「対話と協調で沖縄の経済発展を」というのが、沖縄差別に加担するウチナーチューの常とう句である。しかし、本土の原発村を見てもわかる通り危険保障的な一時金で経済が発展、活性化された試しはない。
こんなことは冷静に考えれば誰でもわかる。
 「語るもウソ」「語らざるもウソ」は「世の常、人の常」ではまずかろう。
そんな政治や社会は国会の自・公政権の政権運営で見飽きた。
「平和を基調にした経済発展、誇りある豊かな沖縄」を目指すべきではないのか。
 今回の知事選や宜野湾市長選は、このことが問われているのだろうと思う。
自・公政権の言いなりにならなければ、地方自治が成り立たない日本社会ではあまりにも寂しいと思うのだが。

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「もったいないの心」は「命を使い切る心」&「断捨離精神」

2018-09-28 13:25:12 | 日記
   「もったいないの心」は「命を使い切る心」&「断捨離精神」
 最近は何かにつけて、終活がらみの話題が目に付くように思う。
その中でも、「断捨離」や「命の使い方」OR「命を使い切る生き方」だとか、全てのことに感謝し「もったいないの心」で生きるなどの話題が多いようである。
 人生の第四コーナー世代になると殆んどの人間が終活を考えるという。
そして、その活動の起点になるのが「断捨離精神」なのだという。
しかし、日本人特に団塊世代の人間には若かりし頃の、古き良き時代の思い出がいっぱい詰まった思い出の品を処分するのは思いの他、簡単にはいかないようである。
 断捨離とは文字通り、身近にある「今は要らなくなった物」との関係を「断つ」こと、所有を断念し処分し去ることである。
言葉では理解しているのだが、実際には「いつか役に立つのではないか」「いつか使うのではないか」という「もったいない精神」が骨身に染み付いた世代には、これがなかなか難しい。
かくいう私も実際に、断捨離の建前と本音の狭間で心が揺れ動き、心穏やかならずの現況に身を置いている状況にもある。
 終活の大部分を占める断捨離が思い通り進まないのは、大方が間違った「もったいない精神」が根底にあるように思う。
「もったいない」は仏教用語で「かたじけない」とか「不備である」が元々の意味のようである。それから転じ「物の価値を十分に生かし切れてなくて、無駄になっている」状態を指すようになったという。
「モノの価値を十分に生かしきれてない」ことが、「もったいない」のポイントである。
従って、「いつか役に立つ」「いつか使う」かもしれないは、「もったいないの心」ではなく、無駄やロスを限りなく累積していく行為で、「もったいないの心」とは対極にある大ロス、大無駄の心でしかないのだろう。
 一方、ネットを手繰っても「命の使い方」とか「命をどう使い切るか」などの字句が多く使われている。
「どうせ人間は死ぬ」を前提にし命を使い切るとか、「手放しても捨てても惜しくないぐらい使い切る」などの記述がある。
「命は惜しむより、使い切る」という人もいる。
言葉としては理解できるが、イマイチどんぴしゃりの感覚でも無い。
 いずれにしても、「もったいないの心」は有効利用が原点にある。ものは使用して価値がなければ意味がない。必要以上な使いすぎも無駄、当てのない利用価値の為のストックも大きな無駄になる。
もったいないから「残そう」「しまっておこう」では、単なる無駄やロスの拡大再生産にしかならない。
「あるものを最大限に利用し、使い切る」。この最大限に「使い切る心」こそ「もったいないの心」なのだろう。
 不慮の交通事故で半身不随になった大場さんの「命があれば後はかすり傷」というタイトルの記事があった。
「半身不随でも命がある限り、生かされた命を大切に『人生の第二ステージ』を楽しむ。できないことより、できることを胸に『足し算の世界に生きる』」と言っている。
このような大場さんの生き方が「命を使い切る」生き方の一例なのかもしれない。








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知性の復権への道&ZOZO前澤社長

2018-09-20 10:18:46 | 日記
    知性の復権への道&ZOZO前澤社長
 ファション通販サイトZOZOTOWNを経営する、前澤社長がスペースX社が主催する世界初の「月旅行客」に決まったとのネット記事を見た。
6~8名の搭乗予定の全席を独占獲得とのことである。同行者はアーティストを考えているとのことである。
いろんな分野の一流の感性を持った、アーティストたちと異次元の空間を共有するという未知の体験をするために数十億円も投入しようというのである。
発想や金額を含めてその桁違いのスケールにまず驚かされる。
 前澤社長については、一代でファション通販サイトZOZOTOWNを世界的な企業に押し上げた希代の若手経営者で、プロ野球千葉ロッテオリオンズの買収が噂されたことぐらいの認識しかなかった。
改めてネットで情報をたどると、彼の素晴らしい経営理念に理屈抜きの感動と尊敬の念を抱いた。
彼の個人的な夢が「世界の平和」で、経営理念は「世界中をカッコよく、笑顔に」だという。まさに機知にとんだ斬新な経営理念だろうと思う。
 「『幸せ』とは自分ではなく、『周りの人の幸せ』なんだということに気が付いた」と言っている。
「自分の身近な人の幸せが、自分の幸せに重なる」と気づくと、自分が何をなすべきかとなると「世界平和」への貢献が大事なのだという。
 前澤社長の会社経営のコンセプトは「競争ではなく、協調」だと明言している。
従って、社員の個人評価はしない、給料もボーナスも全員一律の同額だという。
社員同士が会社で競争し、ギスギスした状態では会社の業績は伸びないと言い切っている。
 思い出すのは、戦後の日本の経済発展を支えた創業経営者たちの名前である。
松下電器の松下幸之助、ソニーの森田社長、トヨタ自動車の豊田社長など数え上げればきりがない。
彼らに共通するのは、「会社とは社会の公器であり、社員や社会に貢献する存在でなければならない」という点である。
彼らの存在はまさに神様と社員、社会を常に念頭に置いていた正真正銘の経営者たちだった。
 現在の雇われのサラリーマン社長を見ていると、会社の社会的な役割、地域貢献などという社会的役割をすっかり忘れ去ったかのようにしか見えない。
昔の創業経営者たちとはまるで種類の違う人間にさえ見えてしまう。
 ZOZOには社員間の意思疎通、コミを図るためのレクなどを担う専門の部署もあるという。
社員同士のコミが取れなくていい仕事はできないという発想である。
このことについては私も大賛成である。
 元々、皆でワイワイガヤガヤ賑やかに酒を飲むのが大好きだった私は、終始一貫して会社のノミニケーション推進派を自任してきた。
 「楽しくやることが、最大の効率化」をずーと確信し続けてきたからである。
「好きこそ、ものの上手なれ」という諺もある。
好きに優る集中力も精神力も存在しえないと思う。
突き詰めた集中力も、精神力も勝負どころでは消耗しやすく、結果勝負時にも弱くなる。
それに比べ「好き」は時と場所を選らばず持続的に力を発揮できる。
 「如何なる人生においても、いかなる時においても楽しんでやることが最大の効率化になる」これは、理屈抜きに正解だと確信している。
 「愛を大切に、皆で楽しくやるという思いを共有し、共生の道を歩むべし」と考える前澤社長の夢や経営コンセプトは、「今だけ、カネだけ、自分だけ」の現在の新自由主義的価値観を吹っ飛ばし、新しい時代の経営者の価値観を復権できるのではないかと思う。
彼の言う「世界平和の希求と皆で楽しく共生の道を歩む」がキーになるのだろう。
少し大げさに言えば、これこそ「知性の復権」への道かもしれない。


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人生の終着駅、最終目的地&今生の別れ

2018-09-19 07:35:13 | 日記
    人生の終着駅、最終目的地&今生の別れ
 自分的には常々「人生、行きついたところが最終目的地、たどり着いたところが人生の終着駅」なのだろうと思っている。 
 人間は平均寿命よりもずーと若くしてこの世を去る人もいれば、平均寿命をずーと超え百歳以上も生きる人もいる。
公平や平等は全ての人間に共通のはずだが、現実には生きた環境や寿命の長さなどの「天からの恩恵の配剤(分配)」には残酷なほどの格差が存在したりする。
 先だって、東京に嫁いでいた姉が天国へ旅立った。
健康で体格もよかった姉が、平均寿命にも満たない年でこの世を去ったのである。
三つ違いの姉とは姉が高校を卒業するまで、ずーと久米島で一緒に暮らした。
気さくで面倒見のいい姉にはいろいろな面で面倒を見てもらった。
何事にも器用だった姉は高校時代から、あの頃出始めのミシンを自在に使いこなしていて、
当時、中学や高校生の間ではやったマンボズボンへの手直しなどをしてもらった記憶もある。
 姉がなくなる三週間ほど前に沖縄にいる兄妹4名で姉を見舞いに行った。
状況の厳しさを数週間前から聞いていた我々は、兄妹の最後の別れをすべくそれぞれの覚悟を決めて病院で姉と対面した。
思いの他やせ細っていた姉は、それでも最後の気力を振り絞るように我々には元気で接して再会をとても喜んでくれた。
頬はコケ落ち、往年の姉の面影は消え去り力を振り絞るように話す口調だけは昔のままだった。
昔の健康体そのものだった姉の面影はどこにもなく、頬がコケ落ちやせ細った姉の顔が他界した母にそっくりの面影を見せていたのには正直驚いた。
人間は年を重ねるとともに、その風貌や雰囲気が親や兄妹に似てくるという、いわゆる先祖返りをすると言われる。
その時の姉の顔は驚くほど年老いたころの母にそっくりだったのである。
痩せ細った姉の手や足を軽くさすってあげたが、事ここに至っては我々がしてやれることは何もない。
柔和な顔で見上げる姉の顔を見ていると切なさだけがこみ上げてくる。
 帰り際にそれぞれがベッドに寝ている姉に抱擁し、頬ずりし病院を後にしたが、帰り際に発した姉の言葉が忘れられない。
我々の意をくみ取ったかのように姉は一言、「奇跡が起きてくれれば、もう少し生きたい」と穏やかな口調だが、今の自らの心境をはっきり口にした。
我々は胸が詰まりただ涙するしかなかった。
その時、長兄が「奇跡は起きるかも知れないよ」と一言ささやいてくれたのが、我々にできる精一杯の対応であった。
 祖父母が去り、父母が去り息子も送った。
今また血を分けた姉を送らねばならないことはたまらなく寂しい。
「いつか行く道」とはかねて知りつつも、その現実は悲しみしかない。
 常々「人生、行きついたところが最終目的地、たどり着いたところが人生の終着駅」との思いは揺るぎないものの、垣間見せた姉の思いを聞いていると「人間の最終目的地への出発」は送る者にとっては、タダの悲しい現実でしかないということをつくずくと思い知らされた。
 




 

 
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知性の反乱から転覆そして劣化

2018-09-18 07:10:21 | 日記
    知性の反乱から転覆そして劣化
 「知性の反乱」は、1960年代安保闘争や学生運動の最も盛んな時代の山本義隆東大全共闘議長の著書である。
1969年当時の東大全共闘の学生が立て籠っていた、安田講堂が陥落し東大闘争も終局に向かう。
 全共闘の戦いは当時の医療制度の再編を求め、医療国家試験の拒否を中心に国家や社会の帝国主義的な制度や組織の解体変革を目指した闘争であったように思う。
その組織・制度の中で体制に組み込まれていく自らの「自己否定」と「自己変革」が全共闘の闘いのキーワードであったと思う。
 山本議長も逮捕され獄中から解放されても再び学生運動に戻ることも無かった。
そして、東大にも湯川博士の研究室にも戻ることのなかった彼は、生涯東京の大手進学予備校の講師をしながら一物理研究者としての人生を送っているという。
 以後、山本氏は当時の全共闘闘争についっては殆んど語ることは無く、彼の著書の内容についての私の認識レベルもほぼ当時のままで進化はない。
従って、私の中では「知性の反乱」なるタイトルの持つ真意については未だ消化不良のままである。
東大と言えば、名実ともに日本のエリート集団で、東大イコール知性・理性の集団というイメージが強い。
私には、そんな東大全共闘の国家に対する戦いを、「知性の反乱」と解釈するしか思い浮かばない。
 一方、知性の転覆である。
「知性の反乱」が国家への抵抗ならば、知性の転覆とは自らの知性とは無関係に自由・平等・民主主義や人権意識をはき違え、同じ市民や国民に無知・無節操なフェイクやヘイトを繰り返す自滅行為などが思い浮かぶ。
 最近、個人的に「知性」について考えさせられることがあり自分なりに少し考えてみた。
知性的とか人間的という言葉は、私の中ではほぼ同義語ではないかと思っている。
論理的な理屈は別にして、いずれも人間としての「在り方」又は「生き方」を問うているとすれば、両者とも当然自分以外の「他人」に対する、あり方や態度の問題のような気がするからである。
 「知性」とは「知識・知力」+アルファーだろうと思っている。
知識とは一般的に人間が知っているべきあらゆる情報と考えれば簡単に整理がつく。
問題は「知力」にプラスされるべきアルファーである。
このアルファーこそ人間が「感性」や「人間性」もしくは「人格」として評価される部分であろうと思う。
 人間性とは普遍的な人間の本性であり、それは所謂「人間らしさ」でもある。
一般的な人間らしさとは単純に喜怒哀楽などの情緒や感性の豊かさであろう。
更に誠実、正直、謙虚、道徳心、愛、他人を思いやる心、自分の心をコントロールする能力などが加われば、その人はもう立派な人格者(知性的)である。
 言い換えればこのプラスアルファ―とは、上記の要件を備えた能力即ち「対人関係能力」と言い換えてもいいのだろうと思う。
人間は社会的動物であると言われるとおり、一人では生きられない。
従って、「知力」や「人間性」に裏打ちされたこれらのプラスアルファ(対人関係能力)こそ、知性や人間性を決定づける一大要因なのだろうと思う。
 世の中の殆んどのいさかいや問題は「他者の軽視や無視」から始まる。
日本は農耕民族として、近代まで八百神に始まり日本教と言われる多神教の宗教と共に、ずーと「他者」のある世界で生きてきた。
しかし、西洋の近代民主主義、新自由主義のグローバリズムは日本社会を完全に「今だけ、カネだけ、自分だけ」の極端な功利主義社会にしてしまった。
それは、「他者」が消え去り、神と己しかいない社会なのであろう。
その結果、世の中は謙虚さを失い、他者の存在さえ忘れ全てのことに対して、己の視点のみでの自己主張を繰り返す「自己中心主義」の蔓延する社会になってしまった。
このように、平気で「他者を無視する社会」の在り方は少なくとも「知的な社会」とは言い難い。
 宇宙の摂理は「万物流転」である。そんな中で、人類の文化・文明の発達は地球環境を破壊し、あらゆる生物の多様性を縮小し続けている。
文明の発達と地球上のあらゆる多様性の維持は相矛盾する。
人類を含め、あらゆる生命の多様性を保つことが、地球の環境保護と人類の発展に寄与することは間違いないのだろうと思う。
「知力」プラス「他者のある文化」の維持発展こそが人間性や、知性を育み生命の多様性の維持に貢献する道なのだろうと思う。



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